第38話 兵部
第38話 兵部
島津を完全に潰した事で、忠恒殿ら島津家中の徳川派には平穏が訪れた。
忠恒殿は徳川にとても協力的で、それからも文をよこしてくれたり、
折を見て上洛してくれたりし、友好のための努力を惜しまなかった。
ただ、麺を食べ過ぎるのは勘弁願いたいが。
新井の家には諸大名の他に、按針殿の紹介で海外からの使者も訪れるようになり、
俺たち新井の家中では手討ちが一層頻繁に発生した。
ナイフ様も話し合いに新井の家を使うようになり、ちょくちょく俺を手討ちにした。
政治上の重要な取り引きや合意を、この目で直に見られるのは嬉しいが、
夏場の麺には少々困った。
冷やしが欲しいところだが、この世界で夏の氷は貴重品だ。
ナイフ様らの予定がかなり前にわかっていれば、氷の調達も出来なくはないが、
出来るならばすぐに使える氷が欲しい。
額の氷嚢にも井戸水ではなく、氷が欲しい。
しかしこの世界にはまだ電力がない、そこをどうするか。
又七郎が寝所で溲瓶に小便を流し込む臭いで、俺は思い出した。
確か俺のいた世界の製氷機には、アンモニアを使ったものがあったなと。
あれなら動力を手動や蒸気にすれば、この世界でも使えるのではないだろうか。
使う物質はアンモニアでなくとも、エーテルなど揮発する物であればいい。
エーテルならば幕末にも存在した、ここでも生成出来るだろう。
エーテルの生成には薬学に詳しいナイフ様の協力を得た。
焼酎を蒸留して出来たエタノールを用い、それを燃やした硫黄と硝石を水と反応させ、
生成された硫酸と混ぜて熱する、そしてその蒸気に含まれるエーテルを抽出する。
「いーさんや、この『えーてる』は一体何に使われるのですか?」
「エーテルは揮発します、揮発の際に周囲の熱を奪う現象を物の冷却に利用します。
他に医療でも治療の時、一時的に麻痺を起こして、
患者に痛みを感じさせなくするためにも使います」
「面白いのう、冷たい魚の考える事はまこと冷たいのう」
エーテルの生成は学者でもあるナイフ様には、大層興味深く面白いようで、
夜伽もそこそこに、夜な夜な二人で作業に没頭した。
エーテルが出来上がると、あとはそう難しくはなかった。
按針殿に頼んで、腕のいい金属加工の職人を探してもらい、
直接出向いて機械の仕組みを説明し、図にして製作を依頼した。
「イーサン、これは一体何をする機械にございますか?」
按針殿も試作品の機械を見て、不思議そうにしていた。
按針殿の英国にも製氷機はまだ存在していない、発明されるのはあと二百年ほど後の事だ。
俺は機械に水とエーテルを入れ、動力源である車を回して付属のポンプを作動させた。
エーテルから揮発した蒸気は、ポンプによって圧縮されて高圧となり、
水槽の中に浸した螺旋の管を通って冷却され、弁を通して圧を調整し、
凍らせるべき水の入った別容器へ移動させる。
別容器の中はポンプによって低圧になっており、エーテルは沸騰し蒸発する。
この時の気化熱が周囲の熱を奪い、それで水を凍らせる。
交代でしばらく車を回し続け、ふたに付いたガラスの小窓から中を覗くと、
金属製の鉢に入った水は冷やされ、薄氷を張り始めた。
「イーサン、氷が…!」
按針殿と現場の職人たちは、代わる代わる小窓を覗いて大きく目を見開いた。
「これは氷を作る機械、『製氷機』のごく原始的なものだ」
「製氷機!」
「ナイフ様の接待に使うのに氷が要る、ないなら作るしかない」
試作品の製氷機はその後改良が重ねられ、新井の家に届けられた。
珍しい機械にナイフ様も榊原殿もやって来て、氷の出来上がる様を見届けた。
そうして出来上がった氷を割って、皆に出した。
皆は氷を一片ずつ取って食べた。
「驚いた…これが『えーてる』の使い道か」
「この夏場に城内で氷が調達できるとは…ナイフ様、これは氷室が要ります」
「そうだな康政、あらかじめ作って貯めておけばいつでも使える。
いつでも使える氷か…そう言えば直政はよく熱を出していた、
あの時これがあれば、また違った今があっただろうか」
ナイフ様は井伊直政を思い出して、榊原殿と一緒になって氷の冷たさにしんみりとした。
俺も心が痛んだ。
この製氷機の登場はあまりにも早過ぎる。
人を、井伊直政を殺すのとはまた違う罪悪感が俺の脳裏をよぎった。
「いーさんは一体どうやって、この製氷機の仕組みを思いついたのだね?」
「私のいた世界の製氷、冷凍技術はもっと進んでいました。
井上の家でも製氷や冷凍の技術を必要としていたので、少しばかり勉強致しました」
「えっ、そうなのか? 一体何に?」
それはもちろん殺害した遺体の処理にである。
解体にも遺棄にも、遺体の保存はせねばならない。
でもまさかそんな事を言う訳にはいかず、俺は誤魔化した。
「食品…特に魚の保存にございます、魚は足が早うございます故」
製氷機の車は回り続け、氷を生産し続ける。
それから製氷機の数を増やして、新井の家で氷が作られるようになった。
ナイフ様が徳川の庭の涼しい所に、小さな氷室を作ってくれ、
出来上がった氷はそこで保存された。
ある日の事、ナイフ様が氷を求めたので持って行くと、
ナイフ様が意外な事を言い出した。
「いーさんや、そなたまだ官位にはついておらぬであろう」
「私は狐憑きに遭って、突然降って湧いた男にございますれば」
「直政が亡くなって兵部の職がひとり空いておる、そなたを兵部にぶち込んでおいたぞ。
近々朝廷より正式な知らせが来る、心しておくように」
俺は製氷機から取り出したばかりの氷のように、ぴしりと冷えて固まった。
「兵部? 私がでございますか?」
「いーさん、何だその顔は…嬉しくないのか?
そなた関ヶ原から始めて、九州にのさばる奴らを討伐し、
途中で井伊の残党を潰し、果ては島津を完全に支配した。
そんな恐ろしい事を散々しておきながら、とぼけておいでとは…」
ナイフ様はふふと静かに笑った。
「しかしながらナイフ様、私はまったく何もないところから始めた男にございます。
兵部など、そぐわぬ家柄にございます…どうかこの件は平にご容赦を」
「家柄? 直政? 関係なかろう、そなたの働きは家柄以上だ。
そなたの働きを讃えて贈る、これは私からの贈り物だ…受け取っておくれ、いーさんや」
「は…ありがたき幸せ」
困った、新参の家の俺が兵部になど…。
井伊の残党が黙ってはいないだろう。
俺が井伊直政を殺して兵部の官位を奪った男だと。




