第34話 島津許すまじ
第34話 島津許すまじ
「何、薩摩へ行かせてくれと?」
ナイフ様は目を丸くした。
俺は忠恒殿からの文を彼に差し出した。
「はい…忠恒殿が徳川に謝罪はしましたが、島津の家中には未だ反徳川派がおり、
ずっと熾のようにくすぶっていたのですが、最近動きが活発になって来たようにございます」
「不穏な文よのう…島津で内乱が起こるか」
「内乱だけならよろしゅうございますが…」
そこへ後ろに控えていた又七郎が前に出て、一礼をすると口を開いた。
「ナイフさあ、島津ば討たんね! こん又七郎におまかせを!
おいが薩摩ん行っせえ、島津ばひとり残らずうっ潰らかしちゃる!
ご命令ば出してくれんね、ナイフさあ。たのんあげもす!」
「…ならぬ」
ナイフ様は首を横に振った。
又七郎はわきまえもなく、ナイフ様にがぶりと噛み付いた。
「なして? ナイフさあは甘かと!」
「今はならぬぞ、又七郎」
「なして!」
「…ナイフ様もお人が悪うございますね」
暴れる又七郎を押さえつけながら、俺はナイフ様の意図に気が付いた。
「今島津に手を出せば、それはただの内政干渉。
島津が徳川に手を出し、口実が出来るのを待てとおっしゃるのですね?
口実が出来れば徳川も堂々と島津を討伐出来る…そうにございますな」
ナイフ様はにやりと笑った。
「いーさんや、そなたも相当に悪の道を歩んで来たものよの…。
口実が出来次第そなたら新井の火狐に命を出す、心づもりをして待たれよ。
それから忠恒殿とは一層の文通をし、今以上に懇意になっておく事。いいですね?」
「御意」
「…ナイフさあ、島津がすんもはん」
又七郎は耳を平らに寝かせ、尻尾を股の間に挟み込みしゅうんとしょげ返ると、
きゅうと情けない声を絞り出す如くナイフ様に詫びた。
「いーさん、おいは島津なんぞ許せんでね…」
すごすごと退散して帰る徳川の庭で、又七郎は俺の腕を掴んで自分の腕に絡めた。
「島津の出身が何を言う」
「おいは確かに島津ん出じゃっど…じゃどん、島津じゃからこそ。
おいは島津、だからこそ島津が許せん。ナイフさあにもいーさんにも申し訳なか。
島津はこん島津ん手で終いにしちゃる、そいがこん島津又七郎ん仁義じゃっど…」
「又七郎…」
又七郎は俺の肩にもたれかかって涙を流していた。
俺の隣にくうんくうんと、くぐもったような切ない泣き声が聞こえる。
一番苦しいのは徳川でもなく、島津でもなく、この又七郎だった。
あの時俺のせいで生き残ってしまい、俺の家臣になったばかりに、
又七郎は俺の仕える先である徳川と、自分の実家である島津との板挟みになってしまった。
「泣くな又七郎」
「じゃどん、いーさん…」
俺は又七郎の後頭部を撫でた。
「泣くな、徳川と島津の板挟みになるのは俺も一緒だから。
愛より思う人…お前の苦しみは俺の苦しみ、お前の道は俺の道、
あの日、俺は落とした自分の左指にそう誓ったから」
「いーさん、いーさん…!」
緑の中を駆ける風が、又七郎の泣き声をかき消して行く。
曇り空はいよいよ重く、黒を孕んでいた。
雨が降る、俺は緑を乱す嵐になった。
泣きじゃくる又七郎の頬に、額に、耳朶に、唇にと自分の唇を寄せて、
まつ毛とまつ毛をわずかに交差させながら、自分を赤く染めていった。
そして俺は心を決めた。
俺は新井直政、仁義に心を赤く燃やす鬼…!
それから俺は忠恒殿にたびたび文を出した。
忠恒殿もそれに応えてくれ、頻繁な俺の文に細かな返事を返してくれた。
忠恒殿は文で詳細な情報を提供してくれ、おかげで忍びを薩摩へ遣わせる必要もなかった。
まるで忠恒殿自身が島津へ忍び込んだ、徳川の間者のようだった。
忠恒殿と直接会う事が出来れば、もっと込み入った話も出来て良いのだが…。
そして文は又七郎の許にも届くようになった。
島津家中の反徳川派の者からだった。
「うご!」
又七郎は文を見るなりそう吠え、まっ二つに破いて放り出した。
俺はそれを拾い集め、文を読んでみた。
徳川にいる又七郎に関ヶ原からの退却戦での失敗と、徳川についた事を許す代わりに、
工作員として味方について欲しいとの内容だった。
確かに徳川の深部にいる又七郎を取り込む事が出来れば大きい。
俺は筆を取った。
「ああん! いーさん! 島津なんぞに返事ばよこさんでん良か!」
又七郎は俺の手にかぶりついた。
俺はそれを振り払って言った。
「俺が島津に返事を出してやる、島津許すまじと。
島津又七郎豊久は関ヶ原からの退却戦で死んだ、もはや島津の者などではない。
ここにいる島津又七郎豊久は俺の、この新井直政が第一の家臣であると、
共に徳川への奉仕を誓い合った同士であると、かかって来やがれと…!」
俺は筆先を叩き付けるように文を書くと、急ぎ島津に届けよと家中の者に命じた。
…島津許すまじ。
ナイフ様は口実が出来るのを待てと言うが、俺はもう待てない。
これ以上うちの又七郎を苦しめる島津など、この世には要らぬ。
潰してやるよ、二度と再起出来ぬように。
俺の文に対して島津から返事を受け取ったが、その内容は見るに耐えなかった。
又七郎は色を用いて俺に、徳川に取り入った謀反人。
そして俺もまた色を用いて徳川に潜入し、天下の転覆を狙う危険人物。
島津の言いたい事はよくわかった。
俺は忠恒殿にナイフ様の御前で遊びの会を催したいので、来ないかと誘いの文を出した。
…島津家中の反徳川派の皆様もぜひともご一緒にと。
しばらくして忠恒殿から返事があり、ぜひとも一家でお邪魔させていただきたい、
少々騒がしくなるがよろしく頼むと、予定している旅程と共にあった。
俺はナイフ様にお目通りし、遊びの会を催したい旨を話して了承を取った。
「忠恒殿とはだいぶ仲良しのようだね…妬けるくらいだよ、いーさん。
忠恒殿は夜のご到着になるらしいな、途中までお出迎えに行ってあげなさい。
又七郎殿と、井伊の旧家臣団、火狐…新井の家の者皆で。
それと私から、榊原を同行させる。榊原は新井の準構成員であろう、いーさんや」
「ありがたき幸せ」
ナイフ様は指をつく俺の前に出、肩に手を置いて言った。
「いーさんや、夜道は暗くて良う見えぬ。途中で脱落する者があっても仕方あるまい。
そなたたち火狐の炎を灯りに、道を明るう照らして差し上げるのですぞ、
島津の歩む、地獄への赤い道を…」




