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第29話 間者に毛抜き

第29話 間者に毛抜き


初めて見る又七郎の身体は女人のように生地が白く、肩にも幅がなく骨細で、

男であった過去を入れてもまだ華奢だった。

彼も武人なので俺と同じくらい傷跡があったが、驚いたのはその傷が比較的新しい事だった。

そして案外深い、傷跡が盛り上がっている。


「何だこの傷は? いつこんな怪我をしたのだ?」

「見えっとこはみいんなおいが自分でやったとね」

「何…!」


又七郎はふんどしもはずして素っ裸になった。

もう何もない股間が露になる、それも傷跡のひとつだった。


「こん傷は小田原で、あん傷は朝鮮で…」


又七郎は傷をひとつひとつ指差して俺に説明した。

でもその傷はまだ出来たばかりの物ではないか…。


「おいが身体ん残っ島津ん跡ばひとつひとつ消したど。

古傷ばえぐっせえ新しか傷ば重ねっせえ…古傷は誉れの証しやなかと。

おいはもう島津ん豊久やなか。おいはただん又七郎、いーさんが家臣…!」


又七郎の闇が俺の闇へと流れ込んで来る。

闇と闇は重なり合って、互いを舐め合う。

傷の舐め合い? そう笑っていればいい。

陽しか知らぬ者に陰のもたらす妖しさなどない、軽薄にしか過ぎぬ。

互いの陰を共有する、傷の舐め合いこそが愛以上の結びつきを生み出す。

それが新井の家だ。


裸の又七郎を抱きしめても、その白い肌に走る傷跡に唇を寄せても、

俺はどうもそんな気持ちにはならなかった。

必要とあらば誰でも構わぬ俺が不思議なものだ。

又七郎はまるで欲望の中心にある、凪の一点のようだ。

そこだけが静かで、そこだけが平和で。

俺は少しだけ愛のその先を見たような気がした。



又七郎という存在は他の者の目にも不思議だった。

花様も仲良くはしてくれるが、不思議に思っている事だろう。

いつも側にありながらも、衆道の関係にはない。

男でありながらも女人のような。


徳川の家中でも俺と又七郎が衆道の関係にあるのではないか、そう言われていた。

ナイフ様も最初はそう思っていたようだが、今はわかってくれている。

だが家臣らの理解はなく、俺たちは未だ衆道の関係に見られている。

もしもこれが衆道ならば、とっくに痴情がもつれて別れているところだ。

残念だったな、腐女子…いや腐武士どもが。

貴様らの妄想などぶち喰らしてやるよ。


「して、いーさん…又七郎殿との噂はまことにござるか?

噂ではいーさんと又七郎が、夜ごと寝所であんな事やこんな事をとか…」


そんな腐武士の代表が榊原殿だった。

又七郎に嫉妬しているのが丸わかりだ。


「…まさか、でも榊原様との噂はまことにござります。

又七郎とは何もなくとも、榊原様とはこんないやらしい事をしている…」


俺と榊原殿は示し合わせて、城の使っていない部屋で会っていた。

彼と会うのはいつも白昼、いつも声をひそめていた。

それだけに榊原殿との情事はいつも淫靡だった。

俺たちは互いに燃えて、ねっとりと糸を引くように絡み合った。


初めは家中での立場のために彼を取り込んだ。

でも榊原殿には榊原殿の良さがあった。

普段は控えめで地味にしているが、そこがいい。

彼と会うごとに俺はその隠された淫らさに驚かされる。

同じ高齢でもナイフ様よりたしなみは深いようで、技量も見事だ。

その無骨な太い指でどうやってそんな事が出来るのだ。

一体誰にそんな事を教わったの。


榊原殿を取り込んだ事は本当に正解だったと思う。

彼と情事を楽しむ事はもちろん、彼の庇護を受けられるのも非常に有り難かった。

俺が本多殿と井伊直政を殺した事によって、榊原殿は俺の教育係として返り咲き、

実質的に徳川家家臣の頂点に立った。

徳川四天王の生き残りには酒井殿もいるが、彼は返り咲くにはあまりにも高齢過ぎた。


俺は榊原殿の事もナイフ様や花様、又七郎と同じくらい大事に思う。

ナイフ様は敬愛する父、花様は最愛の女、又七郎は愛より思う家臣。

榊原殿は秘密を共有する年上の恋人…。


「いーさん、そなたはナイフ様や花様がありながら悪い人だ。

直孝様を変えたのもいーさんであろう、あんなまだ幼いばかりの子を…」


榊原殿は俺の身体を割って、俺の赤い肌に影を落とした。

俺は彼の首筋に手を絡めて引き寄せ、乾いた喉に唇を求めた。

愛おしい恋人、水となって俺を満たしておくれ。


「…直孝様本人はともかく、井伊の家臣らがどう思うか。

井伊の家臣、武田の旧家臣…黙っているはずはない。

そなたは直政を殺し井伊の将来を潰した、井伊は必ず来るぞ…赤が赤を殺しに」

「きっと榊原様が私の水となってくれまする…魚は水がなければ生きていけませぬ」

「そなたの水はもう濁って固くぬめっておる、古い水でも清流に合流出来るであろうか…」

「水は…清過ぎてもいけませぬ、冷たい魚が棲めませぬ故」


直孝様に付いている井伊の家臣が、来るであろう事は予測していた。

直孝様だけでなく彼らも完全に潰さねば、新井の未来はない。

新井の家にいる井伊の者たちの心のために。

彼らをなかった事になどさせぬ。


榊原殿の言う通り、井伊の忍びは新井の家を探り始めていた。

ただ新井の家は元が殺しのための忍びからなる家、そう上手くは行く訳はない。

偵察を試みているようだが、ことごとく失敗に終わっているようだった。


「おや、また井伊の間者にございます」

「馬鹿だな井伊も、忍びの家に忍びか」


火狐のやつらも家に井伊の忍びが来ると、鼻で笑っている始末だった。

それで家中の者に化けたつもりか、こんな小さな家で知らぬ顔はないのに。


「いーさん、どうしますか? 殺してもよろしゅうございますか?」

「殺せ」


そうこうしているうち忍びの人員も尽きたのか、家臣が代わりに来るようになり、

何かと用事を作っては偵察を試みていた。


「井伊も懲りないな…アホじゃねえの、こんな素人の忍びなんかよこしやがって」

「いーさんごめん、井伊の者がとんだご迷惑を」


ある時用事を装って偵察を試みた挙げ句、前に出過ぎた井伊の家臣が、

俺に刃を向け、家中の者に捕らえられた。

火狐は笑っていたが、井伊からの者は申し訳なく思って頭を下げた。


「構わぬ」

「井伊の不始末は私ども井伊からの者がつけまする、ご命令を。

いーさん、どうか私どもに殺させてくださいまし」

「殺せ…あ、いや待て。ただ殺すのはどうにも惜しい。

出来るだけ痛めつけて、じっくりと殺して差し上げよ」


家中の井伊から来た者たちは、井伊の家臣を家の裏手の洗濯場へと連れて行き、

そこで暴行の限りを尽くした。

家中の者らの怒号が座敷まで聞こえて来る…。

半日ほどした頃、俺も毛抜きを借りて様子を見に行った。


「だいぶこたえたか」


俺は井伊の間者の頬を掴んだ。


「新井殿…こんな仕打ちしおって、井伊は黙っておらぬぞ」

「ほざけ、そなたはただの狼藉者だ」


俺は家中の者に拘束された男の頭を押さえるように言った。

そして男の口を縛って塞いだ。


「井伊? 井伊の者は新井の家にもおる、『新井』の由来を知らぬのか。

俺のいた井上の『新しい井上の家』、そして井伊から来た者の『新しい井伊の家』だ…!」


俺は持って来た毛抜きを井伊から来た者に渡した。


「いーさん、この毛抜きは?」

「鼻毛を全部抜いてやれ、細かい毛も一本たりとも残すな」


家中の者らの間からぷっと吹き出して笑う声が起こった。


「まあやってみればわかる」


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