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第28話 外交の家

第28話 外交の家


以来、新井の家には客人の出入りが激しくなっていった。

客人たちは手討ちとなった者の打った麺を食べながら、ナイフ様や他の客人と話し、

そこで重要な交渉が行われる事も出て来るようになった。


「新井の家は麺屋か」


花様の部屋で俺がこぼすと、彼女は声を立てて笑った。


「麺屋で結構ではないですか、私も子らもおかげで楽しゅうございますのよ」

「いや…家を騒がしい事にしてしまって、そなたらには申し訳ないのだ」


俺は花様の手を握ってうつむいた。


「よいのです、これが幸せなのですね…こんな幸せがあるなどまこと不思議なもの。

前の結婚は幸せとは言えませんでした、でも今は…今はとても幸せにございます。

前の主人を殺され、その殺した人と出会って、思いもかけず愛して…。

正妻ではなくとも、花は今が一番幸せにございます」

「…まだ胸は痛みまするか?」


花様は握った俺の手をそのまま自分の胸へと持って行った。

そして目を閉じて言った。


「いいえ…いいえ直政殿、私の胸は今実りある静寂にありまする。

もの狂おしく愛しても愛しても、前の主人は、直政は愛を返す事などありませんでした。

でもそなたは違う、直政殿と直政の違いは私が一番にわかっております。

力で押さえつけなくてもいい、愛で縛り付けなくてもいい、

私がそなたを愛せばそなたは愛を返してくれる、それだけで十分にございまする」


涙を浮かべながらそう言う花様はいい歳なのだが、まるで少女のようだった。

彼女の辛かった日々がなんとなくだが想像出来た。

結婚の日にまだ少女だった花様は愛される事、それだけを願って嫁いだのであろう。

愛される事、たったそれだけのために彼女はもがき苦しんだ。

それがどんなにそばにあっても、何人子をなしても。


この世界の愛は男が女に与えるもの、女はそれを受け取る者。

だけど俺はよそから降って湧いた新参、そうは思わない。

愛の前に男と女は対等でなければならぬ。

新参の俺には、この世界では激し過ぎる花様のような女がぴったりだ。

そして俺もそんな女が好きだ。

…俺は本当に大変な女に手を出してしまったらしい。


「いーさんや、花とは上手くいっているようで何より」


花様との事はナイフ様も気にかけていたようで、出仕の折にその話になった。

俺を部屋に呼び出したナイフ様は近づいて、俺のそばで言った。


「は…私も花様を新井の家に迎えて、まさかこんなに幸せになろうとは」

「申したであろう、何よりそなた自身が幸せになると…して、どうするかねいーさんや」

「何をにございまするか、ナイフ様」

「とぼけるではない、新井の家の世継ぎだ」


やはりそう来るか。

新井の家は新参なれど武家として設立された。

花様とは愛し愛されて幸せであっても、二人だけの事では済まされない。


「恐れながら私自身に子種が少のうございます故、世継ぎは望めぬかと。

かといって側室を取るのは花様にも私にも苦しゅうございます」

「養子でも取るのか?」

「実は…家中の者と話し合いの上、皆で跡目を選びたいと考えております。

その方が皆も納得致しますし、優秀な者が跡目に立ちますので。

私は新井の家の跡目に、血統ではなく実力を求めまする」


極道の世界は完全に実力主義だ、血縁を後継にする事は少ない。

後ろ盾はあっても良いが、それはただの人脈であって実力には入らない。

非合法組織はそうしないと続いていかない。

俺も台湾伊家という後ろ盾はあったが、やはりそれとは別に実力や成果が求められた。

新井の家も新参で基盤は脆弱、実力主義でなければたぶん続いては行かない。

子がないのはいいきっかけだ。


「そなたが場所と食事を提供して、間に入ってくれるおかげで諸大名とのやりとりは円滑。

新井の家は徳川と諸大名を結びつける外交の家となろう。

その家の世継ぎとなると…直勝か? 又七郎殿か?」

「いえ、私は花様と思っておりまする…家中の賛成あらばの話ですが」

「まさか、花は女人ぞ」


ナイフ様は鼻で笑った。


「女人でも良いのです。人物が秀でる事に男女の優劣はございません。

皆で納得して選ぶ優れた者、それが新井の家の世継ぎにございまする」

「そなたはまこと口が回るのう、いーさんや。

これが商家井上の猛者…武力と政治力を兼ね備えているという訳か。

見事よの、あの子も生きておれば今頃はきっと…」


…それは井伊直政の事か?

ナイフ様が俺に亡くなった人を重ねているのは知っている。

いくら俺の日本名が「直政」だからって、それはこたえる。

井伊直政が今も生きていれば、そう言われると俺の罪がよみがえってしまう。

この先俺がどのような栄華を極めようと、井伊直政の影がある限り、

俺の中に井伊直政が生きている限り、そこに喜びなどないだろう。



「又七郎、お前はどうして島津豊久を否定する?」


夜、持ち帰った書類の続きを書きながら、並べたふとんの上で寝間着に着替えようと、

帯を解く又七郎に問いかけた。


「島津は…おいばおもちゃんすっと」


又七郎は振り返る事もなく、襟を大きく抜き衣紋にしうつむいて答えた。

うなじから背中へかけての線は滑らかに、いよいよ水々しくなったような気がする。

なんとも妖しい人だ、男でありながらも女でもあり、そして男でも女でもない。

男だった頃より一層美しくなったように思う。


「おいは島津に生まれた男、島津はおいば島津ん男にしよったとね。

佐土原ん世継ぎ、島津ん道具、性ん玩具…衆道んもんにしといて嫁じょば押しつけっせえ、

世継ぎば作り言われてん困っと、行きともなか戦になして行かにゃいけん、

なして命ば捨てがまらにゃいけん、なしておいが名ば『豊久』やらショボか名に変えっとか、

おいは又七郎、ただん又七郎で良か…」


又七郎は涙をこぼし、手の甲でそれをしきりに拭った。


「おいはおもちゃやなか、人ぞ…!

おいば人として、ただん又七郎として扱うてくれたとは、いーさんだけじゃっど。

いーさんが側ん居っ時おいは人で居れっと、そん時だけおいは生きた人んなれっとよ」


又七郎の人生にもまた、俺と同じ重い物が底に沈んでいる。

俺は筆を置いて、泣く又七郎を抱き寄せた。

又七郎は少し筋肉が落ちた…俺は彼の身体の軽さに気が付いてしまった。


「おいはおなごんなっと、おいはあん時自分のむすこば切り落とっせえ、

豊久っちゅ事、島津んもんっちゅ事ば捨てたとよ…見やんせいーさん。

こん又七郎は身体も心も、みいんなみいんないーさんがもんじゃって…」


そう言うと又七郎は俺から身体を離し、着物を落とした。

…又七郎の身体を初めて見た。


「いーさん、どげんね?」


俺は驚きで言葉を失った。


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