第26話 島津の忠恒殿
第26話 島津の忠恒殿
「…又七郎、お前の知り合いか?」
俺は隣の又七郎に乱入者の事を訊ねた。
又七郎は無言で頷き、そしてうなだれて答えた。
「島津忠恒、おいがいとこ…義兄弟じゃっど」
「…島津!」
「して、その島津の新当主殿がなぜここに?」
ナイフ様も島津からの乱入者に不思議がった。
乱入者は島津の新当主だったのか…。
島津の新当主、忠恒殿はナイフ様の顔を見るなり飛び上がり、
そのまま大きく彼の足元に着地して、頭を床に擦り付けて土下座をした。
「ナイフ様、大変申し訳ござりませぬ!」
「あの…忠恒殿?」
「うちのアホ殿とアホ一族が、ナイフ様には大変申し訳ござりませんでした!
島津のアホ一族が邪魔立てしたおかげで、お詫びに参上致すのが遅れ、
この忠恒、重ねてお詫び申し上げます!」
忠恒は米つき虫のように上半身をぺこぺこと暴れさせた。
訛りを崩さない又七郎とは違い、奇麗な言葉も話せるのか。
「アホか忠恒! 貴様島津じゃっどね、そん島津が何しちょっかわかっちょっか!
そいは島津が徳川に降伏すっちゅ事じゃっど!」
又七郎は忠恒殿の行動に驚き、呆れていた。
「もちろんそうじゃけんど? 誰よりも早う徳川に付きよった豊久にゃ言われたなか」
「豊久言うな! おいは又七郎!」
ぎゃあぎゃあ言い合う島津の二人は、血縁とは言えあまり似てはいなかった。
見た所忠恒殿は又七郎より少し若く、二十代半ばぐらいか。
誰の目にも明らかに美しい又七郎とは違い、忠恒殿はそれほど美しい男でもない。
細面の涼しげな顔立ちをしている。
しかしうるささはきゃんきゃん吠える又七郎に同じ。
忠恒殿は存在そのものがうるさい。
…うるさいのがまたひとり増えてしまった。
「あの、忠恒殿…そなた一人で来られたのか?」
ナイフ様はおかわりのうどんをすする忠恒殿に問いただした。
「もちろんにございます!」
「その…忠恒殿は島津の者、島津はそなたを止めなかったのか?」
「島津忠恒は昔よりの徳川派! その徳川派が新当主となっての上洛です、
誰にも文句は言わせません、島津は今から徳川の従者。
さあナイフ様、この島津に鉄槌を!」
又七郎が島津の殿様を殺してしまった事で、島津の家は忠恒殿に代替わりし、
それを好機とし、忠恒殿は一族の制止を振り切って謝罪に参上したとの事だった。
「そうだのう…」
ナイフ様は前掛け姿のまま、うどんを茹でる菜箸を手に腕を組んで唸り込んだ。
そして俺の隣に座る又七郎をちらりと見て口を開いた。
「では、所領の安堵は約束しよう。その代わりと言っても何だが、
島津又七郎殿の身柄を徳川へ、この新井家へ、正式に頂きたい。
それでいかがであろう、忠恒殿」
「又七郎を?」
忠恒殿も俺も、新井の家中の者の目は又七郎に集中した。
又七郎は目をくりくりさせて困惑した。
「えっ、おい?」
「又七郎殿はよく仕えてくれてはいるが、今だ預かりの身。
正式に迎えて、身分をきちんとしてやりたいと思うのだ。
本人の意向もだが、又七郎殿はもはや徳川にとってかけがえのない人材。
島津の所領の安堵と引き換えにする価値はある、私はそう思う」
忠恒殿はうどんの椀を置いて姿勢を正し、指をついた。
「ありがたき幸せ、謹んでお受け致しまする」
それからナイフ様は正式な謝罪の場を設け、忠恒殿もそれに応じて謝罪した。
俺と又七郎もその場に立ち会っており、その様子を見届けた。
改まった席で見る忠恒殿は、なかなかに立派な大名だった。
「げっ、忠恒! 貴様は島津ん屋敷に帰りい!」
「島津ん屋敷は好かん、泊めてくいや」
その忠恒殿は帰国の日まで新井の家に居座り続けた。
新井の家は狭く、家中の者らは全員収容出来ても客間は取れず、
忠恒殿は俺と又七郎とふとんを並べて寝た。
便所の近くなった又七郎は夜間も便所に立ち、その隙に忠恒殿は隣で言った。
「…いーさん、おおきにな」
「何をだ」
「こん新井ん家んおかげじゃっど、新井ん家がなかなら所領ん安堵もなか。
薩摩まで出向いてくいて、九州ば討伐しっせえ島津ば孤立させっせえ、
新井ん家がナイフさあと島津ばつなげてくれたち思も」
「いや…」
それはたぶんきっと、井伊直政の仕事になっていたはずだ。
…俺が殺さなければ。
「ところでいーさん、又七郎とはそう言う関係か? あいついーさん、いーさんちせがらしか」
「まさか、俺は抱かん。他の誰と寝ても又七郎だけは一生抱かない」
忠恒殿はふとんからはみ出す俺の左手を盗み見た。
「あいつは生粋ん衆道じゃっど、おなごは好かん。
結婚はしてん妻は抱かん、子おは成さん、側室も取らん…やな島津じゃっどね。
そんやな島津ん又七郎がそこん甘んじちょっがようわからん」
「それはそう誓ったからだ」
「…左指にか? 又七郎もまこち嬉しか事ね」
忠恒殿は仰向けになりながらふふと笑った。
「どこがだ、それがその時の最善だっただけだ」
「おいたちはたぶん似ちょっ、いーさん。
素直に言うたら良か。又七郎ば大事に思もちょっ、愛しちょって」
「貴様に言われたくはないね」
俺はふとんから脚を出して、忠恒殿の腰を軽く蹴った。
忠恒殿も同じく俺の腰を蹴った。
「いーさん、何しよっと」
「貴様こそ。嫁さんにわざわざ手の込んだ嫌がらせをするとか、聞いてるんだぞ。
馬鹿じゃねえの、構って欲しくてちょっかいかける初恋のガキじゃあるまいし。
愛ってのは暴力じゃ何も伝わらないんだよ」
愛といえば男女の愛より先に、まず先に母の愛を思い出すだろう。
母は母なりに俺を愛したとは思う。
傍目には愛に見えたかも知れない。
でもそんな愛など、俺にはちっとも届かなかった。
暴力はどこまでも暴力であって、決して愛となる事はない。
母は愛を口にする性格ではなかったし、引き取られた台湾の伊家でも、
祖父は俺を可愛がってくれても、母は俺を捨てた時と同じ冷たいままだった。
少年から男になろうとしていた俺を、そんな母は冷たく犯した。
暴力では愛は伝わらない、俺は身をもって知ってしまったから。




