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第24話 井伊の間者

第24話 井伊の間者


井伊の直孝様は花様たちとは別の屋敷に、ナイフ様が遣わした家臣らと暮らしていた。

会う事のない人だったが、徳川家中の催し事の折に接近を試みた。


「あ…これは花様の…」


直孝様の方から気付いてくれるとは、これは幸運な事。

俺は卑屈なほど腰を低くした。


「あ…はい、新井直政と申します。直孝様には何のご挨拶もせず、とんだご無礼をば…」

「そんな…新井様とは縁続き、これを機に打ち解けていただければ」


そんなに美しい人でもないか。

井伊から来た者らによると、直孝様はその父親の井伊直政に似ておられると言う。

よそから来た新参の俺は、井伊直政など知らぬ。

目の前にいるのは直勝様と同じ年頃の、ほんの少年にしか見えぬ。

子供だから何だと言う? 俺は冷たい魚、はなから心などありもしない。

ただ目的を全うするまで。


「私こそ、恐れ多いながらも親しゅうしていただければ幸いにございます」

「新井様…」

「ところで私は全くの下戸でして、この場で酒を強いられるのは辛うございます。

直孝様、どうか私を匿ってくださいまし」

「実は私もお酒を頂くにはどうにもまだ若過ぎて…新井様こそ私を匿ってくださいな」


俺と直孝様はこっそり宴を抜け出し、城の使っていない部屋へと逃げ込んだ。

二人きりになればあとは簡単。


「…新井様も『直政』なのですね」

「『直政』はよくある至極普通の名にございますれば」

「父とは六つの時に一度会ったきりで、私は父の顔などまともに覚えてはおりませぬ。

もしも父が今も生きておられたら、ちょうどそなたぐらいの…」


直孝様も俺に井伊直政を重ねるか。

亡くなったやくざがつけた「直政」という名は、この世界でずいぶん俺を苦しめた。

どんなに振り払おうと、井伊直政の影は俺に付いて回り笑われた。

でも今夜は直政の影を利用してやる。

付いて回る影ならいっそ俺の恵みになればいい…!


「私はそなたの思う直政ではございませぬ、直孝様。

私は新井直政、降って湧いた男『いーさん』にござりまする。

いくら直孝様が私に亡き人を重ねても、私はそなたの父などではない」


俺は直孝様を抱きしめた。

直孝様は俺の肩にもたれかかって泣き出した。


「…直孝様、私はそなたの父でなくてよかったと思う。

父親ならばこんな風に語らう事もなかった、こうして抱き合う事もなかった、

そしてそなたに恋する事も出来なかった…!」


直孝様はまだほんの少年だ。

元服もしていない、たぶん女もまだ知らないのだろう。

それはちょうどいい、ついでに教えてやる。

大人の男の味、恋の何たるか、愛する事の苦しみを。

俺は直孝様を押し倒し、組み敷いてそのまま抱いた。


新井の家にいる井伊の者たちは、直孝様の存在に苦しめられて来た。

俺が彼らを迎えなければ、彼らは直孝様の陰として追われる運命にあった。

その存在自体をなかった事にされようとしていた。

それはこの俺が許さぬ、陰となるのは直孝様の方だ。

俺は新井直政、新井の家の当主…でも今夜は違う。

今夜の俺は新井直政、井伊の間者…!


情事の途中に俺は煙管にたばこを、たばこ入れから丸めて詰め灯りから火を取った。

ひと口ふかし、それを直孝様に回す。


「どうぞ直孝様も…」


直孝様はその煙管を受け取り、見よう見まねでふかす。


「…たばことはこんなにも甘い香りがするものなのですね」


そりゃそうだ、このたばこは特製のたばこだからな。

俺は直孝様を抱きながら、袂よりもうひとつ小さな紙包みを取り出し、

指を舐めて中の粉末を付け、愛撫するふりをして彼の粘膜に塗り込んだ。

粘膜ならばどこでもいい、俺は鼻に塗り込んだ。

鼻は効果の持続時間が長い。


俺は長い事愛撫を続けてじらしにじらして、効果が最大になるのを待った。

直孝様の目がだんだんにとろけていく…ガンギマリか。

バッドは入らなかったようだ、安心した。

俺は動いた。


今夜、このために俺は前もって準備をしておいた。

まずどこからか生の麻の実を入手し、それを井伊の屋敷の庭で栽培する。

ここは時代が違う、火狐の訓練にかこつければ何ら問題はない。

有効成分THCの含有量は元いた世界の物より劣るが、それで十分用をなす。

商品として流通させる訳ではないから、きっちり栽培する必要はない。


部屋に麻特有の青臭いような、刺激ある甘い香りが、

直孝様のよがる声が、俺の冷たい意図が充満する。

今後直孝様が男を、女を知る事があっても、きっともう満足は出来まい。

今夜俺が与えた圧倒的な幸福感と、それがもたらす強く長い快感を忘れられないだろう。

マリファナそのものに依存性は少ない、だが人は体験に依存する。

直孝様はこの先、どれほど素晴らしい人と寝てもきっと、

今夜の影を、新井直政という幸せな魔法を追い求め続けるだろう。

今夜は最高、あなたの負けだ井伊直孝。


直孝様とはその後数度相手して、完全に麻の交わりを染み込ませたところで捨てた。


「直孝の様子がおかしい、心ここにあらずでくだらない失敗ばかりしておる。

あれではもう使い物にならんだろう」


そんなある日、直孝様を見たナイフ様がこぼしていた。


「いーさんや、そなたは井伊の内情に通じておる。心当たりはないかね?」

「さあ…私は直孝様はあまり詳しく存じ上げません故」

「そうだったな…しかし直孝も狐につままれたような顔をしておるよの」


ナイフ様は俺の仕業とわかってはいただろうが、それ以上追及する事はなかった。

井伊の家は続きこそするだろうが、もう昔ほどの繁栄はないだろう。

直政が最高、あとは落ちるのみ。

直孝様に魔法をかけたのは、新井の家のためでもあった。

あのまま放置すればいつか必ず政敵として、新井の前に立ちはだかったであろう。

不穏の芽は今のうちに排除しておかねば。


「直孝に何をなさったのでございますか、直政殿」


直孝様の事は当然花様にも聞こえており、俺は屋敷で追及を受けた。


「…さあね。私をご覧になって、父親を思い出しでもされたのではないかな。

ほら、私も『直政』にございますし。花様も直孝様に同じなくせして何をおっしゃる」

「まあおっしゃること…でもありがとう、いーさん。

私や直勝、井伊から来た者たちのためにございますね?」

「さあね…知らんな」


俺は島津のようにとぼけてしらを切り通した。

直孝様の堕落は家中にも知られるようになり、その影響は案外大きかった。


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