第23話 スレイプニル
第23話 スレイプニル
老中への昇進と共に更なる加増もあった。
御庭番就任の時に加増されて以来、幾度も加増が繰り返されて、
今では一万石を越えて、十万石近くに膨れ上がっていた。
今回の加増はその上への加増である。
嬉しくない訳ではないが、ナイフ様もなんと鬼のような事をするもんだ。
兼任という事で御庭番の主な業務は又七郎が引き継ぎ、俺は顧問のような立場に変わった。
兼任の老中も珍しかったが、それ以上に側用人からの昇進である事、
そしてやはり全くの新参である事が異例中の異例であった。
「新井殿の昇進の速さはなんとも恐ろしいことよの」
「まったくどのような出世の馬に運ばれたのやら、神馬か?」
老中として出仕すると、他の者らが容赦ない当てこすりをぶつけて来る。
そりゃそうだろうな、傍目には井伊直政の再来以上の速度だ。
でも俺は二度目だからな。
家中を駆け上るのがまだ初めてのあんたら童貞とは訳が違う。
徳川の家で言う四天王や三傑が、そっくりな家でやり直すようなものだからな。
「私の馬は名を『スレイプニル』と申しまして、少々脚の多い馬にございます故」
どうやら俺の老中としての初仕事は、まずこいつらをなんとかする事らしい。
こいつらごとき籠絡出来ぬようでは、その先は無い。
「井伊ごとき籠絡出来ぬようでは、島津など落とせぬ」、
いつぞやナイフ様が言っていた言葉が、今になって身にしみる。
俺はまず徳川の重臣たちのそれぞれと関係を持った。
男同士? ノンケ? そんなの関係ない。
同性を籠絡する手腕は井上の家で鍛え上げられた。
同性を誘惑して籠絡し、可愛がられ愛される事こそ極道の生きる道だからだ。
二人きりにさえなれれば、もう俺の勝ちだ。
あとは俺という麻薬の味を覚えさせればいいだけの事。
「はて、一体誰が一番私を愛してくださるのかな…一番の者の唇を吸ってやるぞ」
その上で、それぞれを競わせる。
口止めしてもいいが、それは容易ではない。
そうすれば男たちは競い合ううち、疲弊していく。
破滅はほんのご愛嬌か、今日ひとり首をくくって死んで行ったな。
「いーさん、某はもう限界にござりまする! こんな苦しい恋は…」
俺は男の嘆きを無視して、別の話を切り出した。
「蔦屋…今度私もナイフ様への贈り物をそこで誂えてみましょうかな…。
そなたが贔屓の呉服屋とあらば、便宜も図ってくれよう」
「何が言いたいのですか?」
「わかっているのですよ、そなたを一番に思うこの私を差し置いて呉服屋といい仲なのを。
一体いくら頂いている事やら…」
恋に疲れて歯向かう者には弱点を洗い、しっかりと脅し上げる。
思い詰めて殺しに来るなら、殺し返すまで。
「それでこそいーさんよの、そなたを見ているのはまこと楽しい事」
ナイフ様はそんな俺のやり方をとがめず、逆に感心してくれた。
「ナイフ様もお人の悪い…風当たりが強い事も、こうなる事もご存知の上で、
私を老中に取り立てて、お試しになったのでございますね」
「いーさんや、そなたなら逆風の中に叩き込んでも、きっと大丈夫だと思っていたよ。
いずれまた大老でやってみるかの、なあ?」
「とんでもございません。童顔の大老などおかしゅうございます」
ナイフ様は俺が年老いて老中を退いた後、大老に取り立てるつもりか。
まったく恐ろしい事を考える人だ、何がしたい。
「…いーさんや、そなたは若年なれどこんな狸おやじの言葉にも、
心を良く読み、惑わされず、心きいた返しをしてくれる…しかも最初から。
それだけでなく武力も政治力も高く、しかも手慣れている。
そなたは井上の家でも相当の高位にあった、違うか?」
又七郎にもほのめかす程度だったが、とうとう言わねばならぬか。
「…井上の家では本部長を務めておりました」
「本部長とはいかなる職で、どのくらいの階級にあるのか?」
「は。本部長とは実際の業務を取り仕切る者にございまする。
井上の家は会長を頭に、次期会長である若頭なる職がございます。
その直下に顧問職がございますが、これは外部の者の名誉職で、
家中の者の職にはございませぬ故、実質本部長が若頭の下になりまする」
俺は又七郎にしたのと同じ説明をナイフ様にも聞かせた。
「確か井上の家はそなたの世界でも最大手と申しておったな。
そこの本部長ともなると…」
「恐れながら、井上の家はこの世界で言う徳川の家に相当いたします。
私は井上の家臣団の第二位におりました」
もしも徳川四天王に序列があるならば、本部長は酒井殿の下に当たるのだろう。
本多殿に相当するのだろうか。
「なんと…いーさんはそんなに高い位にあったのか! これは驚いた!
井上の家臣団第二位とは、徳川の家で言う忠勝か直政か?
その歳でそこまで昇り詰めるとは、やはり…?」
「はい、そのやはりにございまする。井上の家は徳川の家以上の男社会、
しかも縁故など一切なしの、完全なる実力主義にございますれば」
男色が一番早い手段だった。
相手がノンケでも構わず、男色へと引きずり込んだ。
そうやって俺は井上の家を駆け上がった。
「恐ろしい男よの、私のいーさんは…その歳ならいじめられもしただろうに」
「わかりますか。実力主義とは言っても、上層部でやはり私ひとりが若うございました。
なので寝首を掻こうとする者が後を絶たず、おちおち眠る事も出来ませんでした。
私の首を取ればその地位が空きますから…」
俺はそこまで言うと姿勢を正した。
「図らずとも私は人を殺して今の地位につきました。
少しでも私の犯した罪を償いたく、ナイフ様には心の限り仕えてまいりましたが、
果たして私は今、罪を償えているのでしょうか」
「そなたの私への償いは…」
そう言いかけて、ナイフ様は目を閉じた。
「それはもうとっくに終わったと思っている、そなたの心は十分に受け取った。
これからは新井の家の者と、皆のために生きる事がそなたの救いとなろう。
そしてそれこそが、いーさんを老中に取り立てた最大の理由。
もう帰れぬ世界を思うより、ここで生きる事を思う方が有益ではないかな」
もう帰れぬ世界か…確かに。
「ありがたき幸せ、いーさんは一層の忠義を尽くしまする」
…ただ新井の家にいる井伊の者らのために、ひとつしておきたい事がある。
それは少々仁義に反する事、なれどそれなくして井伊の者らの心の安寧はない。
お許しくださいナイフ様…いいえ、許させてみせる。
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