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第16話 遠国御用

第16話 遠国御用


暴君のいなくなった井伊の家は血流を取り戻して、温かかった。


「冷たいお魚はしばらく遠くの海へ泳ぎに行って参ります」


暇乞いをすると、小さな兵たちの襲撃に遭ってしまった。

小さな兵たちは俺の身体をあちこちいじくって、またおもちゃにした。

父親の仇になぜこんなに懐く。


「どちらの海へ行かれるのですか、冷たいお魚さん」

「ずっと南の温かい海へ温まりに参ります」

「帰って来たらお話うんとうんと聞かせてくださいね、冷たいお魚さん」


俺は一生子供を持つ事はないだろう。

どの女との間にも子供はなかった、たぶん子種がない。

跡取りを求めるこの世界で、結婚などとても考えられない。

しかし井伊の未亡人のような、もう子供も要らない高齢の女はなんとも都合がいい。

少年は涙を浮かべて悲しそうな顔をした。


「でも温かい海では冷たいお魚さんが茹で上がってしまいます…」

「直勝様…」

「え?」


しまった、「直勝」ではなく「直継」だった…。

この少年が「直勝」となるのは相当先の事だ。

花様は声を立てて笑った。


「直継や、冷たいお魚さんが新しいお名前を下さったわよ…嬉しい事」

「本当? じゃあ、私は今から『直勝』だ! やったあ!」


そう取りますか、これだから井伊の家は嫌なのだ。

その触手がありありと見える。


「そういえば花様、そなたはどうして出家しておらぬ。

普通夫が亡くなれば出家するものでは」

「出家も考えましたが…それよりも冷たいお魚さんに復讐しなくては」

「復讐?」

「もちろん主人を殺した復讐にございます、冷たいお魚さんは捕まえて、

この井伊の水槽で一生飼って、可愛がって、愛して…逃がしませぬことよ?」

「恐ろしい方だ、あなたは」


だからこの家には来たくなかったのだ。

愛する女に求められ、その子供たちは懐き、家臣らに慕われる…。

ここでこうしているのは楽しく、気持ちがいい。

井伊の家の温かさは俺を蝕んでいく…。



薩摩へは俺と又七郎の二人で向かった。

陸路で大坂まで向かい、大坂からは海路で薩摩を目指した。

俺たちは町人に扮して旅をした。

又七郎は案外健脚で、先にへばった俺を背負う事がしばしばあった。


「いーさんは良か育ちじゃっどね、おみ足がすんぐ痛なっと」

「まさか、歳なだけだろ。お前こそ大名のくせに」

「あ、ちいと小便」


旅で困った事と言えば又七郎の用足しだった。

又七郎は立ち小便が出来ないので、しゃがみ込んで用足しをする。

女なら裾をまくり上げるだけだが、又七郎はさらに面倒で、

いちいち袴の緒を解いて、下を脱がねばならない。

あまりにも無防備だ。


又七郎が用足しをしている時、俺はあたりを見張っているのだが、

又七郎は俺を見てくれ、見てくれとうるさい。


「馬鹿か、襲われたらどうする」

「いーさんがおいば見ちょっから大丈夫じゃっど」


そんな事を言って恥ずかしげもなく、俺の見ている前で排泄する。

そして又七郎は女の如く排泄のごとに紙を使う。

おかげで荷物がかさばった。


俺は船に乗り込む前、徳川の用意してくれた宿である、

堺の呉服屋の離れで島津に宛てて督促の文を書き、使いに持たせた。

堺からは船旅で、途中に寄った港で島津からの返事を受け取った。

…遠国などと相変わらずのらりくらりとしやがって、熱が出そうだ。

俺は今一度島津に宛てて、督促の文を書いた。


「いーさんは箇条書きが好きじゃっど」


横で俺の書く文を見て、又七郎は言った。

やくざの世界でも筆文字はよく扱ったが、最初はこの世界のつづけ字に悩まされた。

今ではだらだらと長い文章の読み辛さの方が問題だ。


「箇条書きどころではないぞ、俺のいた世界の文書は図や表もあって非常に読みやすい」

「ふうん、いーさん絵までたしなんじょっとか」


俺は文を書く手を止めて、別の紙を取り出してそこに絵を描いてやった。


「ほれ」

「こいは…おい?」

「お前だ」


絵は又七郎の似顔絵だった。

又七郎は絵を眺めると、それを抱きしめて泣いた。


「大げさな」

「嬉しかあ…いーさんがおいん事美しゅう描いてくれた…嬉しかあ」

「人相図は大事だぞ。捕り方でも採用しているし、どこへ行っても必ず役に立つ」

「ふうん…そうじゃ! いーさん、そん絵ば島津に送ってみやんせ」

「…ほう、面白い事を言う」


船が出るまでまだ数日あったので、俺は又七郎と話し合って文に添える絵を書いた。


「いーさん、人がしゃべっちょっごた」

「これは吹き出しと言って、この枠の中に台詞を入れる」

「こいはちょっとした絵物語じゃっどね、わかりやすかあ。

島津が上洛ん応じんとこげんなっとよ…わっぜわかりやすかあ!」


又七郎は絶賛だが、果たして島津はこれをどう思うだろうか。

俺は次の寄港地で島津よりの返事を受け取った。

文使いはどうやらリレー方式らしく、思ったより早い返事だった。


「何、続きが読みたいだと?」

「大受けじゃっどね、いーさん」


島津からの文には、続きが読みたいので早く次の文を送って欲しいとあった。

しかし島津は、俺の「いーさん」を「井伊さん」だと思い込んでいるらしく、

手紙の受取人名は「井伊万千代直政」と、いつも間違っていた。

俺は返事で「井伊さん」ではなく「いーさん」と訂正し、絵物語の続きを書き、

その次の寄港地、薩摩で島津からの返事を受け取った。

俺は返事を書かなかった。

今行くぞ、首を洗って待ってろ島津。


着いた薩摩の景色は見た事のあるものだった。

錦江湾に桜島が煙をたなびかせ、その奥に大隅半島がうっすらと見える。

景色こそ俺の生まれた街に似てはいるが、その実は少しも似ていない。

ここは薩摩なる敵地。


俺たちは島津の城の近くに用意してくれた宿に入った。

そこはごく普通の油屋だったが、主人が徳川と通じていた。

宿に着くなり俺たちは休憩もそこそこに、頼んで用意してもらった着物に着替えた。

文使いの装束である。


それから俺は白紙を包み、差出人名だけ署名した。

吉富紅千代いーさん直政、島津のやつ他人の名前をいつも間違いやがって。

「さん」も名前の一部だ、含めろ。


「行くぞ又七郎」


俺は戸を開け放した便所で、尻を拭う又七郎に声をかけた。

島津のやつら、又七郎のこんな姿を見たらあまりの情けなさに泣き出すだろう。

これが島津の分家の殿様のお姿か。


暗い色の装束に身を包んだ俺たちは、夕闇に紛れ込んだ。

内に抱える赤い火を隠して、夜の始まりを駆ける。

俺たちは火狐、あやかしの時間の始まりだ。


■「井伊直勝」…井伊直政の長男でなかった事にされた人。愚鈍とか病弱とか言われ放題。

すごい長生きした丈夫な人。

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