第13話 間者に
第13話 間者に
俺の抱いた男装の大年増は生娘ではなかった。
俺と同じく四十近い大人だ、何ら不思議はない。
しかし何と激しい女なのだろう、俺の身体に絡み付くようにして求めて来る。
彼女は明らかに男を知っている、でも水商売上がりのすれっ枯らした女ともまた違う。
どこかの人妻か…それとも戦で夫を亡くした未亡人か。
それならば婿も要らないはずだ。
腕の中で女は俺を直政と繰り返し呼んだ。
でもそれは俺を呼んでいるのではなく、別の誰かを探しているように思えた。
彼女の昔…幸せだった頃、俺は彼女の昔に悩まされた。
「また会ってもらえるか」
「それは…どうかお許しを、もう苦しゅうございますれば」
「何が苦しい」
彼女は別の方向を見、着衣を直して言った。
俺は目も合わせてもらえないのか。
「私は夫の無念を晴らすため、男のなりをして徳川の城に入り込んだ間者にございます。
そなたに近づいたのもそのために他なりませぬ」
「俺がそなたの夫を殺したと言うのか…!」
「しかしながら敵であるそなたを見て、そなたと接して、こうして触れて…。
私はもう苦しゅうございます、亡き人を思いながらそなたを想うのは」
彼女はやはり未亡人だったか…。
俺がこの世界に来て早々、巻き込まれた戦で倒した兵の妻だったとは。
俺は彼女を抱きしめて、自分の犯した罪を思った。
「直政殿…そなたは冷たい魚、心は痛みませぬ。
どうか私をお手討ちにしてくださいませ、影は一生付いて回りまする。
私がそなたを思えば思うほど、恋すれば恋するほど、
亡き人の影はいっそう色濃く、質量をもって歩き出しまする故…」
亡くなった人の影か、俺も彼女も亡き人の影に苦しめられているのだ。
俺は井伊直政の、彼女は亡き夫の、透明な肉体を持つ、
生きた影たちを一生背負って行くのだ。
「…俺は『いーさん』だ。顔にこそ出さぬが、冷たい魚にも痛みくらいある。
それと…冷たい魚だって冷たいなりの恋ぐらいはする」
俺たちは場所をわきまえず、また求め合った。
そうして彼女が先に部屋を出て行ったあと、俺は床に何かを見つけた。
それは黄楊の小さな櫛だった。
彼女が落として行ったのだろうか、手に取ってみると彫り物がしてある。
花橘か…。
家に帰ってから、又七郎の目を盗んで懐の櫛をそっと取り出して見た。
又七郎に見られでもしたら、きっと問い詰めるだろう。
この櫛は細工も見事、相当に良い品だ…彼女はかなりの身分なのだ。
一般の兵の妻などではない。
しかしこれをどうして返そうか、彼女にまた会えるとは限らないし、
持ち主もわからない上、返しに行くにも伝手がない。
俺は考え込んだ。
悩んだ挙げ句に俺はナイフ様の部屋を訪ねた折、彼に相談してみる事にした。
「…ほう、この櫛が?」
「はい…昨日城で拾ったもので、持ち主にお返ししたく思っておりますが、
持ち主もわからず、どうしたものか悩んでナイフ様に相談致しました」
ナイフ様は袱紗を開いて、その櫛を指でつまみ上げて眺めた。
「…花橘なあ。そなたもやりおるの…いーさんや」
「えっ…」
「嫁など要らぬ、そういう事か」
ナイフ様はにやにやしながら、櫛を袱紗に包み直して俺に返した。
「櫛の持ち主は私にもわからぬ。ところでいーさんや」
「は」
「そなたに使いを頼みたい」
「御意」
俺は姿勢を正して指をついた。
「今から文を書く、井伊の屋敷へ届けて参れ」
「井伊様のお屋敷にございますか」
まいった…井伊の屋敷は殺した人の屋敷、敵陣だ。
そんなところへ行けばまず無事では済まない。
報復は必至、最悪殺されて戻る事も叶わないかも知れない。
「その井伊さんの家だよ、いーさんや。
あそこには養女ではあるが私の娘もいる、どうか声でもかけてやって欲しい。
急ぎではないので、ゆるりと話などして近況も聞いて参れ」
「は…ナイフ様、又七郎を同行させてもよろしゅうございますか」
「ならぬ。又七郎殿は島津の者、ややこしい事になる。そなた一人で行かれよ」
「は」
俺は緊張しながら、ナイフ様が文を書き上げるのを待った。
しばらくしてナイフ様は俺に書き上がった文を託し、行って参れと言った。
「いいかいーさん、気まずいのはわかるがこれを好機と致せ。
井伊ごとき籠絡出来ぬようでは、島津など落とせぬぞ。
そなたの外交は井伊から始まる、私はそう思う」
籠絡と、ごときと言われても…。
俺はいきなり敵の本丸かよ、ナイフ様も意地悪な。
俺はナイフ様が用意してくれた籠に乗って、井伊の屋敷へと向かった。
その屋敷は城のすぐ近くで、わざわざ籠に乗るほどの場所ではなかった。
立派な屋敷だ、ちょっとした御殿ではないか。
でも俺には又七郎と二人で暮らす、徳川の庭の片隅に建つ小さな家、
吉富家の方が立派に見える…。
前もって先駆けが来訪を伝えてあるのか、さすがに門前払いはなく、
俺は屋敷の内へと招き入れられた。
もう敵中だ、いつ襲われるか気が気でない。
長い廊下を歩いて俺は客間へ通され、ナイフ様の使いという事で上座に座らされた。
部屋にはもう井伊の者どもが指をついて待っていた。
家中の者の視線が痛い、無数の槍になって突き刺さるようだ。
これではまったくまな板の上の鯉ではないか。
ナイフ様はこれをどう好機とせよと言うのか。
あの人は俺を冷たい魚と言った、その冷たい魚だって痛みは感じる。
針がかかれば、銛で突かれれば、包丁が入れば、痛いのは同じ。
これが俺に課せられた罰なのか、もしもこれが償いならば俺は甘んじるまで。
俺はナイフ様の使いとして文を渡して、早々に井伊の屋敷を引き揚げようとした。
その時、ふと梁の金具に付いた紋が目に入った。
この家の紋もあの櫛と同じく花橘か…。
…まさか、俺は愕然とした。
■「井伊の屋敷」…稼げる魔窟INF。2人戦以上ならば、一人がグングニルを持参すると速い。




