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誰よりも軽やかな風  作者: 雪原たかし
第2章 『高楼大陸にて』
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第3話  「沖合定食」

 建物に入る前よりも、外の匂いを濃く感じる。さっきまで嗅覚が消えていたように思えてしまう。北方大陸よりはいくらか厳しさの和らいだ風が、絶え間なく海の匂いを運んでいる。

「せっかくだし、ソーハンでしか食べられないものを食べよっか」

 そう言って、アラシはまたどこかへ向かい始めた。今度はチエと同じくらいの早さで動き出すことができた。後を追うことに慣れてきたのかもしれない。

 並ぼうとするとチエがきつく睨んでくるから、後ろで距離を保つ。あんなに近かったアラシが遠くなったように感じる。たったひとり増えただけで、ここまで変わってしまうんだな。




 港湾は陸の部分が金網張りの柵で囲まれている。僕たちは所々に雪が残る港湾区画内を歩き、一軒の薄汚れた小さな家屋へとやって来た。入口らしき半透明のガラス扉の上には、複雑な文字の入った赤地の幕が懸かっている。

「甘いものなんか出しそうにないんだけど?」

 アラシを見上げるチエの眉が寄っている。

「そんなことないよ? ここはすっごく昔から続く、船乗りたちのための店なんだから」

「それ誰に聞いたの?」

「府長さん。でも聞く前に何回か来てたからもう知ってたよ」

「あのオヤジの味覚で甘さとか分かんないと思うけどなぁ……」

「心配ないって言ってるのに」

 アラシが僕のほうを向く。

「カーム、ここでもいい?」

「えっ、ああ……」

 扉を引き開けて中に入る。

「いらっしゃい。ああ、アラシさんかい」

 黒地の衣服を着た、穏やかそうな老翁が声をかける。他には誰もいない。

「こんにちは。三人なんだけど、奥の部屋は空いてるかな?」

「ああ、空いてるよ」

 左右へ続く通路に沿ってテーブルが渡り、その下には高さのある椅子が何脚か置いてある。確かカウンター席といったはずだ。右のほうは奥行があまりないけれど、左のほうの奥行はけっこうある。カウンター席に囲まれる区画にはたくさんの機械や器具が設置され、椅子が置いてある場所のどこからでも中が見えるようになっている。いくつか調理場に置かれるという機械や器具が見えるから、そこが調理場なんだろう。

「こっちです」

 老翁が左の通路へ僕たちを案内する。行き止まりのように見えていたその突き当たりには、まだ左右に通路があった。右のほうは、どうやらさっきの器具の区画へ入れるようだ。

 老翁は左へ曲がり、それに続くと奥行の短い通路があった。その左右に一対の木格子戸があって、老翁は右のほうの戸を引き開けた。

「はいどうぞ」

 老翁に促され、部屋の中に入る。小さな正方形の部屋で、中央に低い木造りのテーブルがある。アラシとチエがそのテーブルの下に足を入れ、板張りの床に置かれたクッションに座った。奥の壁際がアラシで、チエはアラシの左側だ。

 テーブルの下に目をやると、そこが一段下がっているのが見える。なるほど、床に座りながら椅子のようにもなるというものらしい。

 チエの隣になるのを避けて、アラシの右側に座る。今度はチエと向かい合うことになるけれど、隣に座るよりかはいいはずだ。

「注文が決まったら呼んでくださいな」

「あっ、もう決まってるよ」

 立ち去ろうとした老翁をアラシが呼び止める。

「えっ、チイはまだ決まってないんだけど?」

 僕だってなにを決めるのかすら分かっていない。

「ここのメニューでチエが気に入りそうな甘いものってひとつだけなんだよ。カームはメニューに載ってる料理をほとんど食べたことないだろうから、とりあえず今日は私と同じものね」

 アラシが壁際に置かれている薄い冊子を指す。メニューとはその冊子のことらしい。決めるというのは料理のことのようだ。

「というわけで、私とこの子は前に来た時と同じもの、この子にはデイフォンを頼むよ」

 アラシが僕とチエを順に指しながら老翁に告げる。

「セイヒョウガツオの沖合定食がふたつと、デイフォンがひとつで合ってるかい?」

「うん」

「じゃあ、そうだね……一〇分くらいでお持ちしますよ」

 老翁は立ち去っていった。

「デイフォンってなに?」

 チエがアラシに訊く。

「サンベイルで言うところの“大福”だね。小豆あんじゃなくて、ミルクシードと白豆あんが入っているのが違いかな」

「へえ、意外とおいしそう」

「『意外と』? どうして意外なの?」

「音的においしそうじゃないじゃん」

「そうかなぁ? どう思う?」

 ……あっ、僕に話を振ったのか。

「どうって……」

 チエがまた鋭い目を僕のほうに向けている。

「おいしくないように……思わなくもない?」

「ハァ……はっきりしない人、チイ嫌いだよ」

 チエがさらに機嫌を損ねる。分からないものには“分からない”と言ったほうがいいみたいだ。

「僕には知識が足りないんだ」

「……いきなりなに?」

 不機嫌さは少しも変わらないけれど、続ける。

「本はたくさん読んだけれど、現実じゃない。僕にとっての外界はずっと『果ての箱』だったんだ。本当の外界の知識や性質を、僕はまだ知らないんだ」

 アラシはなにも言わずに、僕とチエの顔を交互に眺めている。

「そういや、『果ての箱』から来たとか言ってたっけね。まだ正気じゃないの?」

「事実だし、僕は正気だ」

「あっそ。じゃあ教えてあげる」

 チエが僕の額にビッと人差し指を向ける。

「そもそもね、『果ての箱』は特級危険地域なの。アラシぐらいの冒険家でも立ち入る許可がもらえないほどの、危険で、謎に満ちた場所なの。まあ、誰かさんは今回、そんな場所に許可を取らないで立ち入ったんだけど……」

 この指を叩き落としてはいけない。そう直感する。

「とにかく! 人が定住してない北方大陸のからやって来たとか、まして自分がまるでそこで生きてきたみたいに言われたところで、どう考えても信じられないってことよ。分かった?」

「ああ、分かった。とても分かりやすい説明だな」

「分かりやっ……あっそ!」

 高く評価したというのに、不服そうな顔をする。

「でもさぁチエ?」

 アラシがようやく口を開く。

「現実として、私が北方大陸に行って、カームを連れて帰ってきたのは確かでしょ?」

「それはまあ、そうだけどさぁ……」

 アラシが僕の肩に手を置く。

「だったらさぁ、カームが『果ての箱』から来たってほうが、まだ可能性はあるんじゃない? 『謎に満ちた場所』だっていうのは、チエも納得してるんでしょ?」

「うぅ……」

 チエがテーブルに伏せる。

「これから旅路を共にするんだから、仲良くしてよ?」

「やっぱりこいつも連れてく気だったんだ……」

 あっ、そうか。もしかして――――

「お前は僕をアラシから遠ざけたいのか?」

「なっ……」

 チエが目を見開く。やっぱりそうだったのか。

「僕をアラシから離そうとしなくても、お前がアラシにくっついている限り、割り込みようがないぞ?」

「なっ……なっ……」

 さっきから小刻みに震えるばかりで、言葉になっていない。

「聞いているのか?」

「はっ」

 なにかを思い出したようで、ようやくチエの震えが止まる。

「別にあんたがアラシに近づこうが構わないってえのよ!」

「そうなのか?」

 だったら、あの敵視はいったいなんだったんだろう?

「まあでも、チエは私にまだまだ甘えたいよね?」

 ふふんと笑いながら、アラシが口を挟む。

「ちょっ……変なこと言わないでよ!」

 とても慌てているけれど、否定はしていない。

「甘え……」

 それは、どういう感情や振る舞いを指すんだろう?

「あんたはアラシに甘えちゃダメだからね。足引っ張んないでよ?」

「チエは足を引っ張らなくなるまでけっこうかかったくせに」

 またアラシがふふんと笑う。

「だからもっ……アラシっ!」

「だってほんとでしょ、ふふっ」

 チエがアラシにじゃれつく。これが“甘え”なんだろうか?

「チエは先輩としてカームを導いてあげなきゃいけないんだから、仲良くしておいたほうがいいと思うけどなぁ」

「そんなの、こいつが勝手に覚えりゃいいのよ」

 先ほどからよくチエに指先を向けられている。なんとなく刺さるような感覚があるから、気分のいいものじゃない。

「ねえカーム」

 唐突にアラシが声をかけてくる。

「なんだ?」

「私と二人きりの風旅と、チエを入れた三人での風旅と、どっちのほうがカームの望みに近い?」

 アラシの目がすっと僕を捉えている。どうやら、先ほどまでとは違って真剣な問いのようだ。

 前者は想像どおり。後者は現実どおり。

 僕が、なにを望んでいるのか。そう訊かれているんだろうか?

 今の僕は、なにを望んでいるんだ?

 これから世界を知ってゆこうとする、今の僕の望みは――――

「……分からない」

 そう答えると、ややあってアラシがふうっとため息をついた。

「まあそっか。まだチエとの風旅は始まってすらいないもんね」

 そう言っている間はどこか仕方のなさそうな表情だったけれど、不意にアラシの顔から表情が消えた。

「でも、いつかまた同じことを訊くと思うよ」

「え?」

 まばたきをすると、アラシは今までと同じような微笑みに戻っていた。

「まあ、気ぃ遣って“三人のほうがいい”って言わなかったことは評価しといてあげるわ」

 チエがそっぽを向いて頬杖をつく。

 評価されたことを、あまりうれしく思えない。

 ああそうか。こう思っていたから、さっきチエは不服そうな顔をしたのか。




 しばらくして、老翁が両手に盆を載せて入ってきた。

「はいお待たせ。沖合定食は……アラシさんと君だったね。あとはデイフォンがお嬢ちゃんのだね」

 それぞれの前に料理を載せた盆が置かれる。

「注文は揃ったかい?」

「うん、ありがとう」

「はいそれじゃあ、ごゆっくりどうぞ」

 老翁は去っていった。

 改めて盆に目を戻す。白い粒状の穀類は米というものだろうか。黒塗りの椀には茶色い汁物。中央には大きな皿。その上で、とろりとした焦げ色の液体がかかった魚の焼き物が、ほんのりと香ばしい湯気を立てている。この魚がセイヒョウガツオだろう。見るからにどれも温かそうだ。

「確かに見た目は大福なのね」

 チエが手のひらほどの大きさのデイフォンをつまみ上げる。やや弾力のある、白くて丸い塊、といったところだろうか。先ほどの話だと、大福とやらもこんな感じの見た目だと思っていいらしい。

 チエはつまみ上げたデイフォンを両手に持ち直すと、小さな口でかじった。途端にチエの表情が緩む。

「んんーっ!」

 チエは味わい尽くすように何度も噛んでから飲み込んだ。

「すっごくおいしい!」

 アラシに向かってうれしそうに言う。アラシのほうはというと、見慣れない食器を使って米を食べて――――

「あっ」

 盆上にある食器の使い方が分からない。

 二本の細い棒。おそらくは木に近いもので作られている。長さは両手の幅より少しだけ長い。アラシは右手の親指と人差し指の間で一本、人差し指と中指の間で一本を、それぞれ手のひら側が長めになるように挟んで持って、その先端で食べ物を掴んだり、切り分けたりしている。見るからに扱うのは難しそうだ。

 とりあえず、アラシと同じように棒を指の間に入れて挟んでみる。人差し指と中指の間での挟み方が特に難しいけれど、よく見れば、二本ともが人差し指の付け根辺りで根元を支えられているようだ。その真似をして……おお、持ち方に安定感が出てきたな。

 ただ、見た目としては興味深いけれど、これで食事をするというのは、なんだか複雑なことのように思えてくる。

「おっと忘れてた。カームは箸を使ったことある?」

「ハシ?」

「それのことだよ」

 アラシが僕の手元を見やりながら教える。なるほど、この食器がハシなのか。確か高楼大陸の文化圏で普及している食器だったな。

「ああ、初めて使う。今も持ち方を保つのでやっとだ」

「まあ、ちょっと難しいよね。“筆記具の持ち方と同じ”ってよく言われるらしいけど、私も箸に慣れるまではちょっと長かったなぁ」

「サンベイルだったら、箸の使い方なんて五歳で身につけるってえのに。あんたは五歳以下かっつうの」

 チエが呆れている。

「なんなら私が食べさせてあげようか?」

「いや、もう懲りた」

「ちょっ、なに言ってんのアラシ……って、ちょっと待って」

 チエがまた僕を睨んでいる。今度はなんだ?

「ねえあんた、さっき『懲りた』って言った?」

「言ったけれど、それがどうかしたのか?」

 チエは答えずにアラシのほうへ鋭く視線を移した。

「アラシってば、こいつまで甘やかしてたってえわけ?」

「ははーん、チエは自分が甘やかされてるってことを自覚しながら私に甘えてたのね」

「あっ、違っ……」

 ニヤつきながら追い詰めているアラシと、慌ててしまったせいで追い詰められているチエ。僕もこういう構図を体験したような気がするけれど、思い出さないほうがいいという予感がある。

「まあでも、あれは特別だよ。まさか食事を摂ろうとしないなんて思ってなかったから、ちょっと手伝っただけ」

 あれは“ちょっと”で片付けることができるものなんだろうか?

 そうは思ったものの、おそらくここで言葉にすればいよいよ僕がチエと同じ立場になってしまうんだろう。

「なんだか病人みたいね。えっと……カーム、身体は大丈夫なの?」

 チエが睨みではない目を僕のほうへ向けて――――

「……あっ、僕か?」

「いや、あんた以外にカームって誰がいんのよ?」

 チエに気を遣われるというのは、なんだか不思議な気分になるな。

 まあ、出会って数時間でそんな違和感を持ってしまうほど延々と刺され続けていたというのが、そもそもおかしいんだろう。

「身体は問題ない。今までと変わらない」

「それならまあ、いいんじゃないの」

 チエはまたデイフォンを小さくかじった。

「カームってスプーンは使えたよね? 持ってきてもらおうか?」

「いや、慣れておきたい」

 次第にハシが手元へ収まってきたような感覚がある。今が慣れる時なんだと、そう直感した。

「そっか」

 アラシは盆に目を戻して、食事を再開した。チエがデイフォンを口元に当てながらこちらを見ているけれど、それはまあ、気にする必要は無いだろう。

 ハシは“挟む”と“切る”とで食べ物を扱うようだ。スプーンやフォークなら角度を変えるだけだったけれど、ハシはそこに二本の間隔という次元が加わる。挟む時にはまず開いてから閉じる。切る時には閉じてから開く。なんにせよ、今の形から“開く”形にする動きを、僕はまだ知らな――――

「上のほうの箸だけを動かせばいいのよ」

 その唐突な導きはチエによるものだった。まだデイフォンを食べ終えていないのは大丈夫なんだろうか?

「上のほう……」

「逆に言うと、下のほうの箸は固定するってえわけよ。そうしようとすると、親指、薬指、小指は動かないでしょ」

 確かに、その指を動かしてしまえば、下側のハシが動いてしまう。

「その状態で、人差し指と中指とで挟んでる上の箸を、動かさない親指の腹を支点にして動かす」

「あっ……」

 動いた。そのまま開いて、閉じる。それでも形は崩れていない。

「うわっ、もうできた」

 驚きのせいか、チエがデイフォンを口元から離している。

 ハシを米へ持ってゆく。アラシは米を“切る”と“乗せる”とで食べているように見えた。まずは真似からだ。

 手元じゃなくて、相手を見る。そうしなければ、相手への対処はいつまで経っても分からないままになってしまう、というのが僕の経験則だ。『箱』には脅威があって、僕はいつも自力でそれに対処しなければいけなかった。相手が米ならば、余裕がある。

 盛られた米の端に、ハシを少し開いて差し込む。とても柔らかい。

 そこからハシを閉じて切り分ける。米が柔らかいから簡単だ。

 ハシを注意深く引くと、切り分けた米の小塊がハシにくっついたまま運び上がって――――

「わっ、食べた」

 そりゃあ食べる。落とさない自信は無かったんだから。

 ほんのり甘い味と、主張しない弾力を口内に残す柔らかな感触を得るために、ここまでひどく疲れてしまうのか。今のところハシに対する印象はあまりよくない。

 ただ、なんだかうれしいと、そう思ってしまう。それにおいしい。

「普通は握り方から延々と時間をかけるものなのに……」

 チエの表情は、感心……だろうか?

「米は確か、サンベイルでは主食だそうだな。チエにとっては食べ慣れたものなのか?」

「……食べ慣れてはいるけど、最近はそうでもない」

 チエの表情がまた厳しくなった。

「こっちは……」

 セイヒョウガツオのほうは、確か“切る”と“挟む”だったか。米は小さな粒の集まりだったけれど、こっちはやや大きめの塊だ。切るのに力が要りそうだけれど――――

「あっ……」

 いや、これも柔らかいな。箸を当ててほんの少し込めるだけで、皿までハシが下りてしまうほどだ。

 じゃあ、“挟む”ほうの難易度が高いということに――――

「おお……」

 いや、しっかり掴める。どういうことだ?

「食べるのにうるさいやつね」

 いつの間にかデイフォンを食べ終えているチエが、呆れるように目を細めて呟く。

「なあ、これはどういう理由なんだ?」

「はあ?」

 そろそろチエの目が線になってしまいそうだ。

「セイヒョウガツオは一度ハシで切られたら固くなるのか?」

「いや、そんなわけないでしょ」

「じゃあどういう理屈で掴めているんだ?」

 すると、アラシが急に「くっ、ふふっ」と笑いだした。

「あのね、カーム。断面を見てごらん」

 言われたとおりにハシで掴んだ身の断面を見る。表面にかかっていた焦げ色の液体が、やや青みのある白い断面に細く垂れている。そうして描かれる茶けた筋が、細かな筋を横に走らせて――――

「これは……“繊維”か?」

「なるほど、繊維ね。イメージとしては正解かな」

 どうやら、偶然にも身にある繊維の方向に対して垂直気味になるようにハシを向けて掴んでいたから、身を崩さずに済んだようだ。切った時にはきっと繊維と並行気味にハシを入れていたんだろう。

 掴んでいた身を皿の上に置き、試しに繊維の方向に対して垂直になるようにハシを当てて切ろうとしてみれば――――

「やっぱりだ」

 ハシを下ろすにつれて身が潰れ、不格好な断面になった。感触も固い。食べ物に潜む“方向”に気を配らなければ、ハシでの食事はうまく進まないんだろう。それは“相手を見る”ということだ。

 少し、慣れてきたのかもしれない。

 香ばしい匂いの身をもう一度ハシで掴んで口元に持ってくると、匂いが急に濃くなり、少しくらりとした。食欲を直に突き上げた、とでも言おうか。なんにせよ、そこから口の中に入れるまでは一瞬だった。

 舌に触れた瞬間、表面の液体とセイヒョウガツオの身からにじみ出た液体とが、その濃厚な甘みと苦味とを味覚に塗りこんできた。とんでもなく強烈だ。口の中に風味が収まりきっている気がしない。

「おいしい……」

 飲み込んだ直後に、思わずそう呟いた。まだ口内に身が存在しているかのような幻覚を感じる。

「すごく濃いでしょ」

 アラシはもう食べ終えていた。

「そうだな」

「でもね、またほんのしばらくすると、その濃い風味が――――」

「あっ……」

 消えた。突然に。完全に。

「ここの沖合定食はね、セイヒョウガツオが身にほんの少し含んでいるすっごく濃厚な脂を、ソーハンの漁港に古くから伝わる秘伝のタレで、風味がすうっと消えてしまう、魔法みたいな液体に変えているんだよ。だからこんなに濃いのに……って聞いてないか」

 ハシへの慣れなど、もう構わない。

 食べたい……おいしい……

 食べたい! おいしい!

「うっわ、さっきまでのきっちりした所作が見る影ないじゃん」

 あぁ、もう無くなってしまうのか……

 惜しいけれど、仕方がない。

「食べ始めてからは一瞬だったね」

 最後のひとくちを飲み込んで、ハシを盆の上に置く。

「えっと……」

 アラシがやっていたように、盆の上に指で円を描く。

「頂きました」

「おっ、そうそう。いいよカーム」

 食事をこれほどうれしいと思ったことなど、今までは無かった。

 そうか、僕はいま、満ちているんだな。これなんだな。

「さてと、時間もいい具合だし、出るとしようか」

 ふわふわとした気分のまま時刻窓を見やる。一三時の一〇分前だ。

「で、これからどこに行くの?」

 チエがテーブルの下から足を出しながらアラシに訊く。

「ああ、レイメバナンに戻るよ」

「……へ?」

 呆気にとられるチエ。なにがそんなに意外なんだろう?

「バンホウさんは場所にこだわらないからね」

 僕の疑問をよそに、アラシは面白がっている。

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