第1話 「青氷航路」
「私は降りるけど、ほんとにここにいるの?」
振り返ると、アラシがハッチを開けてこちらを見ていた。
「降りたほうがいいのか?」
「機器類に触らないならここにいてもいいよ」
「だったら降りない。ここにいたい」
「そっか。じゃあなにかあったら言ってね」
アラシは滑るように梯子を降りていった。
波がある。こちらへやってくるものと、あちらへ遠ざかるもの。どこを見ても動きがある。潰れては隆起し、衝突してまた潰れる。おそらく外に出れば波飛沫を浴びることになるんだろう。これほど大きく揺れているんだから、外に出るのは危険だというのは分かる。
雲がほとんど無い空。じっと見つめていても、動いているように見えない。北大洋には暖流域と寒流域とが存在して、寒流域であるレッケンストン海流域は、その別名を青氷航路というそうだ。その特徴として、南北幅の狭さと海面蒸発量の少なさが挙げられ、雲の少なさの要因となっているという。ということは、レイメバナンが航行しているのは青氷航路だろう。
船は揺れる。主に縦方向に。たまに鋭い波が船腹を激しく打って横に揺れることもある。周りの海面に意識を張り巡らせると、船がこれからどのように揺れるのかが次第に分かるようになってきた。揺れに合わせるというよりは、揺れと合わさるような感覚だ。自分よりもはるかに巨大なレイメバナンが、まるで自分自身であるかのように思えてくる。
機器類に触らないように気をつけながら操舵席に座ってみると、そんな感覚がさらに強まる。パネルでは様々な数値が変動し続けている。それぞれがなにを表しているのかはよく分からないけれど、それでも構わない。
向かう先は、知らない大地。まだ見えてこない。時計を見やると、出港から二時間が経っている。アラシの言った航行時間によれば、まだ道のりの半分だ。
「……降りようかな」
操舵席から降り、ハッチのほうへ向かい――――船の後方を臨む。
北方大陸が見えなくなったのはかなり前のことだけれど、なぜか水平線を見つめてしまう。白波が船尾から水平線へ向かうけれど、そのはるか手前で他の波に打ち消され――――
コンコンッ。
「おわっ」
足元からの音に不意を衝かれて飛び上がる。外を眺めながら歩くうちにハッチの上に立ってしまっていた。
ということは、さっきの音は――――
「ふう。閉じ込められたかと思ったよ」
ハッチを開けて操舵室へ登ってきたのは、やっぱりアラシだった。
「あんまりハッチの上に乗らないでね。一応はデッキにもハッチがあるんだけど、これだけ揺れてると危なくて使えないんだよ」
「ああ。すまなかった」
アラシが僕の顔を覗きこむ。
「どうしたの?」
「ん? なにがだ?」
「いや……なんだかそう訊かなきゃいけないような気がしたんだよ」
アラシが僕の背中をポンッと叩く。理由は無いということか。
「下に行くの?」
「えっ、ああ……そうだな」
返事を聞くなり、アラシは真剣な顔になった。
「ちょっと眠ったらどう?」
「……どうしてだ?」
「カームが自分で思ってるよりも疲れてるはずだからだよ」
「疲れてる? 僕が?」
あんなにぐっすり眠って、しかもまだ真昼だというのに?
でも、アラシの言うことだ。眠っていいなら、そうしておこうか。
「私がいないと眠れない?」
あっ、この笑顔は危険だ。
「いないほうが安心して眠れるだろ。襲われる心配がないんだから」
「大人しくすればそんなことしないよ。まあなんだろ……とにかく休みなよ。休まらなくてもいいからさ」
「あ、ああ……」
とりあえず降りよう。捕まる前に。
寝室Bに入ってベッドに腰掛け――――
「あっ……」
急に身体が重くなり、仰向けに倒れてしまった。
「ハァ……」
とても深いため息。こんなにも疲れていたのか。
横になると、なぜか揺れが気にならなくなって、むしろ心地よいような気がしてきた。アラシはこれも意図していたんだろうか?
「『思ってるより』……」
僕の考えは、きっとこの世界の現実からはるか遠いところにある。これからはアラシの言うことになるべく従っておくことにしよう。
それがいい……うん……それがいい…………
「カーム、もうすぐ高楼大陸が見えてくるよ」
その言葉が意識に現れた瞬間、僕は一気に目を覚ました。素早く起き上がると、目と鼻の先にアラシの顔が――――
「「うわっ」」
次の瞬間には互いに驚いて後ろに飛び退いていた。
「そんなに慌てて起きなくても……ふふっ」
アラシが少し呆れ混じりに笑う。
「どこで見られるんだ?」
「操舵室に上がればよく見えるよ。上陸までは三〇分ほどかな」
心なしか、窓の外に見える海面の青色が淡くなっている。深度が小さくなっているんだろうか?
「まだ寝ていたかった?」
「そんなことはない」
短い眠りだったはずなのに、身体は活気に満ちている。
「それにしてもさぁ、カームって本当に寝起きがいいんだね」
「そうなのか?」
「うん。私だってけっこう寝起きはいいほうなんだけどね。まあ、そんなことより早く上がろう」
アラシに続いて寝室を出ようと立ち上がる。ああ、いつの間にか船の揺れが小さくなっているな。
操舵室に上がると、太陽の高度が上がっていて、波間で反射する光が鋭さを増していた。太陽の光が強いというのは『箱』で体感ができないことだった。けれど、もう明るさや眩しさには慣れている。
アラシがパネルを確認する。
「二時の方向に高楼大陸最北端のメイホン岬が見えてくるよ」
二時の方向。簡単なことのはずなのに、分からなくなってしまいそうだ。
「メイホン岬を見てから東にしばらく進めば、上陸港のソーハンに着くよ。そこでちょっとやることを済ませてから……」
説明を聞いて理解しているのかは不確かだったけれど、アラシが言葉を切ったのには気づいた。
「どうしたんだ?」
「えっとね……忘れ物というか……忘れ事というか……」
どうもはっきりしない。
「今の風旅にはね、カーム、『風の空白』を出した時と違うことがあるんだよ」
不安にさせるような口調に、意識が引き寄せられる。
「あのね、風旅には今、カーム以外にひとり、同伴者がいるんだよ」
「そうか」
「うん」
「…………」
「…………」
「それで?」
「あれっ?」
そんな間の抜けた顔をされても、僕はただ話の続きを待っているだけだ。
「えっと……だからね、私とカーム以外で、一緒に風旅をする人がいるんだよってことで……」
「それは分かっているぞ」
「あれぇ……」
おそらくは、僕の反応がなにかおかしいんだろう。でも、どこがおかしいのかは、まるで分からない。
「カームと同じくらいの歳の女の子なんだよ」
「うん」
「で、わけあって私が預かってるの」
「そうか」
「……もういいや!」
アラシがなにかを振り切るように頭を反らす。
「そういうわけで、ソーハンで待機してるその子とこれから一緒に旅することになるから、着いたら紹介するね」
「そいつの名前は?」
「ああそうだった。名前はチエっていうの。チエ・ナカタが全名」
チエ・ナカタ。不思議な名前だな。
「あっ、もう陸が……」
「えっ」
いつの間にか、前方に海岸線と陸地が姿を現している。
「えっと……どうかな?」
「どうって、なにがだ?」
「そのぅ……初めての高楼大陸だから、なにかこう、感じるものがあるかなって思って……」
感じるもの。おそらく、残念さを挙げてはいけないんだろう。
改めて見据えてみる。メイホン岬の先端部に、巨大な灯台がある。崖が連なっていて、白い波しぶきが海の縁を描いている。
ただ――――
「……無いな」
確かに実物は初めて見るけれど、想像からは大きく外れていない。
「ごめんね」
「まあ……大丈夫だ」
なんだか微妙な気分だけれど、こんなものなんだろう。
「ここからソーハンまでは、あとどれくらいあるんだ?」
「あ、もう見えてるよ。一〇時の方向」
一〇時の方向を振り向いた。確かに港湾らしきものが見えてきている。