第6話 「科学遺跡を発つ」
極寒の風に、追われ、あるいは向かわれながら、黙々と一歩ずつ進んでゆく。アラシがくれた防寒着には、右腕の内側に時刻を表示する窓のようなものが備わっている。少しずつ前方に近づいている羽根の構造体までの距離と時刻とを、思い立つ度に照らし合わせているんだけれど、この様子だとそう長い時間はかからな……あれ?
アラシが立ち止まっている。
「どうしたんだ?」
「うん、そろそろ来る頃だと思ってね」
どうやら時刻を確認しているようだ。
「なにが来るんだ?」
「北方大陸最強の暴風だよ」
そう言うと、アラシはその場に伏せた。
「カームも伏せて」
「えっ、あっ、ああ……」
言われたとおりに身体を伏せた瞬間――――前方に白い壁が出現した。
白壁は瞬く間にはるか上空まで広がり、凄まじい速度で僕たちのほうへと向かって来る。つい先ほどまで見えていた目的地が、瞬く間に白璧の向こうへと紛れてしまった。
そして、無数の氷の粒が礫となって襲ってきた。
「うぐっ」
とっさにフードの上から腕で頭を覆い、顔を伏せる。何度も走る痛み。歯を食いしばって耐える。
やがて、痛みが走った回数を覚えておけなくなるのと代わるかのように、氷礫の壁は過ぎ去った。
「ふう……さっきのは一段ときつかったぁ……」
アラシが起き上がり、フードや袖に付いた氷を払い落とす。
「そう……なのか?」
「あれ? カームはさっきのブリザード、きつくなかったの?」
「いや、きつかった。とても痛かった」
アラシが「ははっ、そっかそっか」と愉快そうに笑う。
「北方大陸のブリザードには周期があってね、およそ九〇分に一度、さっきみたいな凄まじい風が氷礫を巻き起こすんだよ。でもまあ、南方大陸だと、あれくらいの暴風は絶え間なく起こっているけどね」
「それだと、南方大陸では前に進めないんじゃないのか?」
「南方大陸のブリザードは方向が一定なんだよ。南極点に向かって、まるで誘い込むよう吹いてるの。だから行きはまだ進めるんだよ。帰りは自力じゃ無理だから、行きで杭を打ち込んでおいて、あとはウィンチの力を借りるんだよ」
アラシはリュックの側面に挿してある杭に親指を向けた。
「まあ、行きも帰りもかなり体力を削られるのは間違いないかな。トレーニングに半年かけても危なかったくらいだからね。カームも南方大陸に行く時にはきっとトレーニング漬けになるよ」
その言葉には、南方大陸へ行く未来と、そこまでの長い道のりを共にする未来とが示されている。
これは……そうか、うれしいんだ。喜ばしいんだな。
「さてと、ようやくあと一時間くらいで着くってところだね」
アラシが前方の構造体群を見やる。
「名前はあるのか?」
「名前? ああ、うん、あれは“科学遺跡コワシュルテ”だよ」
「コワシュルテ……」
僕にとっての、風旅における最初の目的地。言葉にしてみると、身体が浮つくような感覚が起こった。
本当にきっかり一時間で、僕たちはコワシュルテにたどり着いた。
思っていたよりもはるかに巨大な構造物だ。暗灰色の外面には、白い筋が細くいくつも走っている。羽根はほとんどが止まっているけれど、軋みながらゆっくりと回っているものもある。
「これはいったいどういう構造物なんだ?」
「人類が電気エネルギーに依存していた頃に建造された、筒型風力発電施設群だね。あっ、風力発電って分かる?」
「ああ、分かるぞ」
けれど、電気エネルギーが主幹エネルギーだったのはかなり昔のことだ。かつての発電施設のほとんどは解体されているらしいし、現存しているものも、そのほとんどが利用されていないという。
ただ、『箱』の中には電気エネルギーを用いる物体が存在した。多くはなかったけれど、見ないことのほうが珍しかったな。
「あっ、この向こう側にはメルクレイムの名残が吹いているんだよ。羽根のせいで意思が完全に打ち消されてしまうから、こちら側ではメルクレイムじゃなくなってるんだけどね」
見た目にも障害物で、メルクレイムにとってもそうということか。
「どうして解体されていないんだ? 稼働しなくなってからだいぶ経つんだろう?」
その質問を待ちかまえていたかのように、アラシが振り向く。
「それこそが北方大陸の三不思議のひとつなんだよ。有名な推測はいくつかあるんだけど、どれが本当なのかは風でも知らないんだ」
理由は分からないということか。少し残念だ。
風の意思を消す、棄てられた存在。羽根の間を抜けてくる風には、錆の匂いと、よく分からない匂いとが混ざり込んでいる。風鳴りと軋みを立てながらそびえ立つ姿に感じるのは――――脅威だな。
「一八〇番……あった、あれだ。あのユニットの内部を降りるよ」
一八〇番ユニットはすぐ近くにあった。入口はあの小屋と同じ、機械の扉だ。アラシが扉のそばにある画面のかすれたパネルを操作すると、扉はパシュッという音とともに中央で割れて上下に開いた。
「しばらくはひたすらまっすぐ進むよ」
開ききった瞬間に光源が点灯し、青白い光の列が、奥へと伸びる薄緑の通路を寒々しく照らした。“遺跡”と呼ばれるくらいだから劣化や損壊があるのかと思っていたけれど、内部は整然としている。
アラシが先に内部へ入る。通路は幅も高さも十分なゆとりがあるけれど、それが気にならなくなってしまうほどに、長い。
いくつもの扉と曲がり角があるけれど、ただひたすらにまっすぐ進んでゆく。靴のスパイクが立てる音だけが前後へと響き抜ける。
無言の直進は、アラシが唐突に角を曲がってようやく終わった。今度は数歩先に扉があって、そのそばには操作パネルらしき機器が据え付けられている。
アラシがパネルを操作すると、唸るような音が立ち始めた。その音はゆっくりと高くなってゆき、しばらくすると低くなっていった。
音がやみ、左右に開いた扉の向こうにあったのは、小空間だった。アラシのあとに続いてその中に入る。同じようなパネル型の機器があって、アラシが操作すると、扉が閉まった。
そして――――
「うわっ!?」
突然の浮遊感。
「エレベーターは初めて?」
「エレベーター……そうか、これがエレベーターか」
視界は変化していない。けれど、移動している。確かに初めての体験だ。エレベーターには窓が無いものもあるんだな。
やがて浮遊感は消えて、移動の終了を身体に教えた。
アラシがパネルを操作して扉を開ける。先ほどと同じような通路。数十歩ほど先で丁字路になっている。右のほうは暗く、左のほうは淡い青の光が射している。
行き先は左のほうだろう。導かれなくても分かる。
期待に引っ張られるようにしてアラシを追い越す。突き当たりを左へ曲がると、確かに開口部があった。
僕はそのまま飛び出して――――眼前の光景に息を呑んだ。
「こんなものが……」
アラシが歩いて追いつく。
「ドック一八〇っていうんだ。これも前時代の遺物なんだよ」
そこにあったのは、北方大陸の氷を掘り抜いた、巨大な港だった。
壁面には氷が露出していて、まるで青く佇む水面に取り囲まれているかのように思える。上層で嗅いだあの不思議な香りがいっそう強まっている。上層との違いは……そうか、この香りは海水のものなんだな。
アラシは近くの桟橋を進み、港に停泊している唯一の船のそばで立ち止まった。
「これが私の船――――『レイメバナン』だよ」
アラシが船腹に手をかざす。
初めて見る、あるべき姿の船だ。『箱』にも船はあったけれど、水面に浮かんではいなかった。
それにしても――――
「大きすぎないか?」
喫水上だけでも圧を感じるほどの大きさに、思わずそんな感想が出てきた。
「え、そう? ちゃんと波に乗れるから適正サイズだけど」
「そうなのか……じゃなくて、一人で使うには大きいだろう?」
「カームを合わせたら二人でしょ」
「それでも大きすぎるように見えるぞ?」
アラシがそっぽを向く。
「『大は小を兼ねる』って高楼大陸のことわざがあるんだよ」
どうやらあまり触れてほしくないことのようだ。
「まあ、乗ってみれば、そんなに大きいとは感じないと思うよ」
アラシが桟橋から甲板へ飛び移る。僕もそのあとに続いた。
無機質な甲板。船央には船橋があって、船尾側にある出入口から中に入る。
アラシは靴裏のスパイクを取り外すと、出入口の扉の内側にあるフックに掛けた。僕もそれに倣う。
船橋は、出入口のある面を除いて、上部に四角窓、下部にパネル画面という構造になっている。中央には操舵席らしき座席があって、その周囲にはパネル型端末がいくつか取り付けられている。操作用だろうか。
「こっちこっち」
振り向くと、アラシが右舷側にあるハッチを開けて待っていた。梯子が下へと伸びている。
「昇降する時に頭を打たないよう気をつけてね」
アラシに続いて梯子を降りると、狭い通路があって、その両側に六枚の扉があった。どの扉にも小さなプレートが付いている。最も近くにある右側手前の扉には『寝室A』と書かれてある。
「この階は居室だけね。私のはそこだから」
アラシが寝室Aを見やりながら言った。
「カームのも決めておこうか。残りは五部屋あるけど、全部見る?」
「いや、Bでいい」
アラシがニヤリと笑う。
「へえ、私のすぐ隣がいいと」
「ああ」
なぜかアラシの眉尻が下がる。
「んん……なんだか調子狂うなぁ」
「どうした? 身体の具合がよくないのか?」
「ううん、大丈夫。そういうことじゃないよ」
アラシの言葉に含まれている、僕がまだ知らない意図。いつかはそれを理解できるようになるんだろうか?
「まあ、とりあえず寝室Bがどんなふうなのかは見ておいたほうがいいでしょ。本当に決めるなら、装備も降ろせるしね」
アラシは寝室Bの扉を開けた。
「まあ、どの部屋でも右舷か左舷かくらいしか違わないんだけどね」
高さは通路と変わらないけれど、十分な広さがある。丸窓の下にベッドが一台、通路側の壁に据え付け型の机と収納コンテナがある。
「ここでいい」
一目で決まった。
「そっか。だったら装備をしまうといいよ。私も片付けてくるから、終わったら下も案内するね」
そう言ってアラシは部屋から出ていった。
装備を解き、防寒着を脱ぎながら、初めて得る自分だけの空間に自分を慣らしてゆく。大きくないんだとしても、今の僕にとっては未知で異質な空間だ。
衣服や食料を収納する度に、目につく場所を触ってみる。形状を捉えて、すでに認識したものとの位置関係を確認する。繰り返して、自分の感覚で部屋の姿を描いてゆく。
少ない装備と食料とを収納し終える頃には、目を閉じても部屋が見えるような感覚を掴んでいた。自分が部屋のどこにいるのかも、壁や扉との距離がどのくらいなのかも分かる。
これからは新しい場所へ何度も赴くことになるんだろう。時にはどこかを自分の場所にしなければならないこともあるかもしれない。これはきっとその時に助けとなってくれるはずだ。
「終わった?」
「おわっ」
前触れなくアラシが扉を開けてきて、飛び上がってしまった。
「わっ、どうしたの?」
アラシが部屋に入る。アラシも防寒着を脱いでいる。
「考え事をしていた」
「おおぅ……それはごめんね。ノックぐらいするべきだったね」
「ノック?」
「扉を軽く叩いて、中に人がいるかを確かめたり、入ってもいいか伺いを立てることだよ」
アラシが僕のほうに手を差し出す。
「さあ、次は私の生命線に案内しよう」
この手をとればいいのか?
「生命線……」
「ああ、例えね例え。この下は食料と生理関連の階なんだよ」
手を乗せるとアラシは驚いたけれど、すぐに手を握って微笑んだ。
操舵室から降りている梯子のそばまで行くと、アラシはそのすぐ近くにある別のハッチを開けた。同じように梯子が降りている。
下の階も同じように狭い通路があった。扉は四枚だけだ。
「右側の手前が食堂。左側の手前がシャワールームね。奥ふたつは食料庫と水タンクだよ」
「シャワールームは必要なのか?」
「あれ? カームはCR派なの? 私は昔ながらの洗い流す方法で身体を清潔にする派なんだよ。まあ、環境が許せばの話だけどね」
CR。確かコンディショニングルームのことだったか。
「『箱』自体が巨大なCRみたいなものだからな。それにしても、シャワーをそんなふうに使うのか?」
液体の広域散布以外にシャワーの用途があるとは知らなかった。アラシの言う“身体を清潔にする”というのがどういうことなのか、まったく分からない。
「おおっと、これはおもしろいね。とりあえず入ってみようか」
左手前の扉を引き開けると、白基調の小さな部屋があった。横に長い鏡と、確か洗面台といったか、それらが左側に据え付けられている。右側にはくもり加工の縦窓を持つ扉がもうひとつある。
「えっとね、CRみたいに入って待ってれば勝手に洗浄除菌その他諸々をやってくれるような設備は、この船にはないんだよ。だから、ご飯を食べてから歯を掃除しておかないと虫歯ってものになるし、身体を洗わないと体表で雑菌が殖えて不快になったりするんだよ」
わざわざ手間を増やしているということか?
「どうしてお前は科学技術をあまり活用していないんだ?」
「そりゃあ、あまり使いたくないからだよ」
「手間が減るのは好ましいことじゃないのか?」
「これはそもそも手間じゃないよ。私にとっては食べることや眠ることと同じなんだよ」
アラシがもうひとつの扉を開ける。
「それに、身体を洗うって、なかなか気持ちいいよ? 一度やってみたら、きっと良さが分かるよ」
さらに小さい部屋へと入る。天井にはシャワーノズルが、壁にはいくつかのボタンと小さなノズルが付いている。それぞれに色分けされているけれど、どれがなんのボタンなのかは分からない。
「『やってみたら』と言われても、どうすればいいんだ?」
「ああそっか。でも一緒にはできないしなぁ……」
「これを押せばいいのか?」
手近なところにある赤いボタンに手を伸ばす。
「ちょっ、待って!」
ボタンを押すと、シャワーノズルから水が勢いよく噴射された。そして、その水は――――僕の前にいたアラシだけを襲った。
シャワーは数秒ほど噴射し、キュッという音とともに止まった。
「…………」
「す、すまなかった……」
アラシが着ている薄手の服が、水を大量に吸ってしまっている。
「…………」
アラシはつややかな黒髪から雫を滴らせるまま、顔を伏せている。その無言が、僕の緊張を高めてゆく。
「……カーム」
「はいっ」
思わず堅くなってしまった。アラシが笑いをこらえる。
「ちょっ……もう! わざとでしょそれっ……ふふっ……」
「いや違う……」
アラシが顔を上げる、心から愉快そうだった。
「あぁ、もういいや。ついでだから、シャワーでの身体の洗い方を教えておくよ」
そう言うなりアラシは僕の服に手をかけて一気に脱がせてきた。
「ちょっ、ぐあっ、なにをするんだ!」
「どうせ今の私の状態になんにも思ってないんでしょ? だったら私だけ恥じらってるなんてバカみたいっ!」
今度はズボンを狙ってきた。とっさに押さえようとしたけれど、アラシのほうが速かった。バランスを崩した僕の身体を腕で支え、浮いた脚からズボンを抜いてしまうほどの余裕がある。
「恥じらうって、なにに対してだ?」
「ほらきた、やっぱりだよ。腹立つなぁ!」
「だからどうして……おわっ!」
いきなり手をノズルの下に引かれ、そこからねたつく白い液体を垂らされた。
「なんだこれっ」
「これを身体にこすれば、汚れが取れて除菌もできるんだよ。さあこすれこすれぇ!」
アラシも手に白い液体を広げている。これは……逃げられないな。
「おりゃりゃりゃあっ!」
「うわああああぁぁぁぁ」
アラシの手がぬるぬると身体をこする。くすぐったさに耐えつつ、自分でも身体をこすってみる。けれど、いいものだとは思えない。ただひたすらにくすぐったいだけだ。
「よしよし、もういいでしょ。じゃあ流すよ」
アラシが赤いボタンを押した。ノズルから水が噴射される。
「あっ……」
シャワーから出てくる水は、先ほどと違って温かくなっている。それが身体を伝っては、白い液体をつるりと流し落としてゆく。
「身体も気分もさっぱりするでしょ? こういうのって、CRじゃ味わえない感覚だからね」
確かに、身体が軽くなったような気分だ。そうか、アラシはここまでを含めてこれをいいものだと言っていた……のか?
「これは……何度でもやっていいのか?」
「水タンクや浄化設備の容量に限りがあるからやりすぎはダメだよ。けどまあ、一日一回くらいなら大丈夫かな。気に入ったの?」
「ああ。これはいいな」
「うんうん、カームは良さが分かる子だね」
アラシが頷く。
そういえば、アラシはずぶ濡れのままだな。
「アラシもシャワーを浴びたらいいんじゃないか? なんなら僕があの液体でアラシの身体をこすろうか?」
「えっ!?」
大慌てになるアラシ。
「いやいやいや、それとこれとは話が違うよ。私はカームと違って羞恥心があるんだから」
「シュウチシン?」
アラシは呆気にとられ、ややあって僕の両肩に手を置いた。
「……あのねカーム。今のこの状況はね、恥ずかしいものなんだよ」
「えっと……シュウチシンというのは、恥ずかしいと感じることを指すのか?」
「うん、簡単に言えばそういうこと。今の状況だと、私が下着まで透けて見えちゃうほどにびしょ濡れになっていることも、カームがアンダーウェアだけになっていることも、恥ずかしいことなんだよ」
「そうだったのか……」
恥じらいがどうこう言っていた理屈はそういうことだったのか。基準は分かりかねるけれど、どうやら服が透けて下着や肌が他人に見えるのは恥ずかしいことらしい。
そう考えると、なんだか身体が熱くなってきた……
「まあ、カーム相手なら下着だけになっても――――」
「いや、やめておこう」
アラシが拍子抜けしたような顔になる。
「どうして? いや、どうしてって言うのもおかしな話なんだけど」
「そう、おかしなことなんだろ? だったらしないほうがいい」
「そ、そう? そういうことならまあ……」
シャワールームから出る。身体を拭こうと思っていたんだけれど、タオルが見当たらない。
「だったらタオルを……って、そういえばどこにしまっているのか言ってなかったね。洗面台の下を触ってみて」
言われたとおりにすると、洗面台の下の板がシュッと横に滑った。中に白いタオルが積まれてある。
「一枚こっちにちょうだい。私はここで拭くから、カームはそこで身体を拭いて、服を着たら、そこの通路でちょっと待ってて」
「分かった」
アラシは僕が差し出したタオルを受け取り、扉を閉めた。
僕は素早く身体を拭き、服を着て通路に出た。
狭い通路。薄暗いと感じるのは光源の明度が低いせいだろうか。船体の揺れは、こうしてじっとしていないと感じられない。
この船が外海に出る時になってようやく、僕はこの船をきちんと船だと感じられるようになるんだろう。それとも、この船は大きく揺れたりしないんだろうか?
どちらにせよ、それが明らかになるまでそう長くはない。
しばらく待つと、アラシがシャワールームから出てきた。
「さっきと同じものか?」
入る前と同じ服だ。さっき濡れてしまったはずなのに。
「ああ、乾燥させたんだよ。けっこう新しい技術らしくて、ここに来る直前に導入したんだよ。使い方はまた今度教えるね」
アラシは案内を再開しようとしたけれど、すぐに立ち止まった。
「どうする? 食料庫とかは見ておく?」
「……いや、見なくてもなんとなくどうなっているのかは分かる」
「えっ、どうして?」
「装備に占める食料の割合と、食料について話すときの表情とで」
「あはは……じゃあ食堂を見ようか」
向かいの扉を開けると、他の部屋よりもかなり広い部屋があった。長机が二列並び、その下に椅子が収納されている。机と椅子は棒でつながっているようだ。
「調理スペースは奥の壁に収納してあるよ。あっ、調理を覚えたら自分でおいしいものを作れるようになるよ。どうする?」
「覚えておくほうがいいのか?」
「まあ、覚えておいて損になることではないかな」
「それなら覚える」
「そっかそっか。また今度、色々と整えてから教えるね」
なぜかとてもうれしそうだ。
「ここが操舵室の次に広い場所だから、広いスペースが必要な時はここを使うといいよ」
アラシは食堂を出ようとしたけれど――――
「おっと、あれを決めなくちゃ」
引き返し、調理スペースがあるという奥の壁に向かう。その壁の一角に手をかざすと、把手が突き出てきて、それを掴んで引くと、細長い棚が出てきた。
様々な皿が収納されている。どうやら食器棚のようだ。
アラシはナイフとフォークを数本ずつと、様々な形状のコップを数個、棚から取り出して長机の上に置いた。
「さて、どれにする?」
「どれにするって、なんのことだ?」
「自分の食器だよ。好きなものを選ぶといい」
「自分の……」
ナイフとフォークは、どれも形状はそれほど違わない。違うのは柄の模様くらいだろうか。
それでも、順に眺めていくと、ある一組に目が留まった。
「これは……」
「その模様は確か……コリソフ地方発祥の“砂紋”だね」
素地に散る細かな黒点。不規則に散っているようにも、なにかの決まりごとがあるようにも見える、その絶妙な間隔と配置。
「これにする」
「はーい」
僕の指したひと組を、アラシが取り分ける。
理由が分からなくても、なぜか自分の中に抵抗なく入り込んで、よく馴染むもの。そんなものを見つけることが、こんなにも面白いなんて……
「あとはコップだね」
コップはどれも他とは違っているから、どうも目移りしてしまう。高さ、底面の形、把手の有無、表面の模様、果ては内側と外側とで模様が違っているものまである。
それにしても――――
「コップがとても多いのは僕の感覚の問題か?」
ナイフやフォークよりも多いのは確かだろう。
「多すぎて悩む?」
「そうだな。さっきはそれぞれの違いもそれほど大きくはなかったけれど、これはどうも……」
「そっか。じゃあ私が選ぼうか?」
「……いや、自分で選ぶ」
「そっかそっか」
難しいからこそ、見つけた時の面白さはもっと大きいはずだ。
とはいえ、どうやって選ぼうか……
「カームはお酒とか飲む?」
「酒? いや、そんなものを飲んだら頭がおかしくなる」
酒を飲んだ者が溺れるような振る舞いをしていたことを思い出す。酒にそういう力があることは、観察と考察を経た知識だ。
「あひゃあ、かなり強く否定するね。まあ、飲み物で絞るのもありかなって思ったんだけど、そうかぁ……」
飲み物から絞る……なるほど、そういう方法があるのか。
「じゃあ、水だとどう絞れるんだ?」
「えっ、水? えっと……本気で言ってる?」
アラシが困り顔になる。
「ん? なにかまずいのか?」
「いや、別にまずくはないし、むしろおいしかったりするけどさ、もっと味とか口当たりとかのいい飲み物があるでしょ?」
「たとえば?」
「たとえばって……」
「水を得て飲めるようにするだけでも手間なのに、さらにそういう飲み物のための手間をかける気にはならなかったんだ」
「あぁ、そういうことだったんだね」
アラシの困り顔が、ようやく解けた。
「じゃあ、スープが飲めそうな、口の広いもので絞ってみたら?」
口の広いもの。その条件だけでもいくらか絞れた。
「カームは飲み物の知識は持ってるんだよね?」
「ああ。物語の本だとかなりの頻度で飲み物の描写があったからな」
「へぇ、物語とか読んでたんだ……って、それはともかく、なにかパッと思い浮かぶ飲み物ってある?」
「えっと……」
「深く考えずにパッとね」
「……ルミルといったか、確かそんな名前の飲み物があったな」
「ルミル……あっ、レミルか! へぇ、レミルが思い浮かぶなんて珍しいね。伝統的な発酵飲料なのに」
「ルソフを題材にした物語を読むことが多かったせいかもしれない」
「ああ……確かに『ルソフは物語』だからね。レミルなら広口でも合うし、ちょうどいいや。だったら中の色は暗めの色がいいかな。レミルの白さがよく映えるからね」
暗めの色。これでかなり絞れた。その中には、さっき目をつけていたものがある。
「だったらこれだ」
把手がついていて、表面は白砂色、内側は紺のものだ。
「おおっ、これもコリソフ由来だね。まだ高楼大陸の次の目的地は決めてなかったんだけど、こうなったらコリソフに行くべきかな。それにしても合わせてくるなぁ。砂紋もそうだし、ルソフとレミルから絞ってこれを選ぶなんて、カームはよっぽどコリソフが琴線に触れるんだね」
コリソフ地方はカッスル海の南側に位置する大陸全体の呼称だ。世界五大陸に数えられる大陸なんだけれど、北方大陸、南方大陸、高楼大陸、ケンネル大陸、コリソフ地方と並ぶ中で、なぜか呼称に『大陸』が使われていない唯一の大陸だ。かつてはケンネル大陸と高楼大陸だけに高度文明が発達していて、コリソフは謎の多い土地だったらしい。大陸であることが明らかになった時にはすでに今の呼称が定着していたそうだ。
高楼大陸からコリソフ地方へ向かうのなら、南下することになる。南半球にあるから、北方大陸からはかなり遠いはずだ。本当に次の目的地になるとしても、行けるのはかなり先の話だろう。
「それじゃあ、これからはそれを自分で使って、自分で洗ってね。ちなみにこの船にも器洗機があるから、洗うのに使うといいよ」
アラシは僕の食器を机の上の小さなラックに掛けた。すでにもう二組の食器とコップが掛かっている。片方はアラシのものだろう。もう片方は予備か?
「よし、じゃあ行こっか。次が最下層だよ」
どんなものなのかをもっとよく見たいけれど、アラシはもう食堂から出ようとしている。
また同じように梯子を降りると、今度は部屋が無くて、代わりに低く重い音を響かせる機械類が立ち並んでいた。足元は金属格子で、下にも機械類があるのが見える。見た目の広さは船全体の三分の一ほどだ。実際でもそのくらいの大きさだろう。
「ここが動力機関室だよ。あとは航行管理システム……自動航行を制御するシステムのことね。それもここにあるんだよ」
確かに、これだけの体積を機械で占めるなら、この船は予想よりいくらか狭いのかもしれない。
「ちなみに、レイメバナンの推進機関はあの部分だけなんだよ」
僕と同じほどの大きさの、箱型の機械を指して――――
「……えっ、あれだけか?」
幻視や錯覚ではなくて、本当に僕の身体ほどの大きさだ。透明のタンクには動力源らしき物質が貯蔵されているのが見えるけれど、容積が明らかに小さい。
「推進機関といったら、船の最も重要な機関じゃないのか?」
「ああ、大丈夫だよ。これで十分だからね」
「こんなに小さいのにか?」
「うん。実験型だけど、エタニウム機関だからね。高出力で低消費なんだよ」
「そうか……これがエタニウム機関なのか……」
「へえ、エタニウムのことは知ってるんだね」
アラシが目を見張る。
「エタニウムが残っている物体は無かったから、稼働しているのは初めて見る」
「まあ、エタニウム機関は高度管理対象物だからね」
エタニウムは、あらゆる環境下で流体として存在し、他物質との吸着と遊離とを可逆的かつ永遠に繰り返す。既知のエネルギーとの変換効率が極めて高く、特定の触媒の存在下でのみエネルギー放出が行われることから、エタニウムを動力源とするエタニウム機関は安全に出力を確保できる理想的な動力機関とされているらしい。
「レイメバナンは私が風旅を始めてすぐに買ったんだけど、当時はエタニウム機関が一般使用での安全性を保証されてすぐだったから高かったんだよ。旧来の燃焼機関でも私は構わなかったんだけど、技師さんの熱い説得と尋常じゃない値引きに負けたんだよね」
「値引きに負けたのか……」
「そこだけ抜き取らないでよぅ……」
苦笑いになるアラシ。
「ここに来る必要は、たぶんほとんど無いね。自動航行システムは自己修復をしてくれるし、もしエタニウム機関に異常が起きても、膨大な実験データのおかげで対処法がちゃんと確立しているからね。というか、来る必要があったら大問題なんだけどね」
アラシが左手を腰に当てる。
「さてと、これでレイメバナンの中は全部紹介したんだけど、まだなにか訊きたいことはある?」
「いや、ない」
むしろ一度に聞かされすぎたような気がする。どれくらい覚えているのか、覚えていられるのか、見当もつかない。
「そっか。じゃあとりあえず操舵室まで登ろうか」
そう言って、アラシは梯子をするりと登っていった。
僕も梯子に手をかけたけれど、なぜか振り返った。
ここは、明らかに異質な空間だ。広さや形状のことではなくて、おそらくは“性質が異なる”という表現が合っているんだと思う。確信は持てないけれど。
僕はこの空間に惹かれているんだろうか。
操舵室まで登ると、アラシは操舵席に座っていた。
「さて、いよいよ北方大陸に別れを告げるわけなんだけど、どんな気持ち?」
アラシがパネルを操作し始める。
「どんな気持ち……」
パネルの操作音。推進機関のアイドリングで振動を始めた船が、船腹を打つ穏やかな波を尖らせて送り返す。
「言葉にするのは難しい?」
「そう……だな」
「そういう時は少し待ってみるといいよ。思いがけないきっかけが言葉を突き上げてきたりすることがあるからね。それに――――」
アラシの操作するパネルに『発進』の文字が映る。
「発つのは今からなんだから」
船が発進した瞬間、身体を真後ろに引かれたように感じて、少しよろめいた。速度を表示する画面の数値が緩やかに上昇し始めて、ドック一八〇の氷壁が後方へと流れてゆく。
「ドックのすぐ外からはもう北大洋で、波が高くなるから、ここで加速して、波の上を飛び移るように航行するんだよ。他にも航法はあるんだけど、私はこの航法が好きだから、ちょっと付き合ってね」
「航法について言うつもりはないけれど、僕の座席はあるか?」
「あっ」
ドックの出口は目前に迫っている。
「えっと……とりあえず床にしゃがんで、壁際にしがみついてて」
「……分かった」
後方の壁際へ跳び移り、しゃがみこむしかない。
「出るよ!」
アラシがそう叫んだ直後――――船内が一気に明るくなった。
「うわっ! おわっ!?」
最初の声は急に明るくなったことに、次の声は小刻みだった揺れに大きな縦揺れが加わったことに対してのものだった。
「ぐっ……んん……っ!」
初めての海だとか、そんな感傷に浸る余裕はまったく無い。今は踏ん張ることに集中しないと、この揺れの餌食になってしまう。
「全速で進むけど、それでも高楼大陸までは四時間ほどかかるから、頃合いをみて降りて、居室の椅子にでも――――」
「いや、ここでいい」
「えっ、なんで!?」
「きっと慣れてくるはずだからだ」
そんな予想どおり、跳ね飛ぶように揺れる船の動きに身体が同調するにつれて、周囲の景色がよく見えるようになってきた。
途方もなく分厚い氷壁。その上に並ぶ、コワシュルテのユニット。氷壁を穿つ、ドック一八〇の開口部。船の後方に見えるそれらは、次第に遠ざかり、見えなくなってゆく。
「……さみしいんだな」
アラシの言ったとおりだった。“突き上げてくる”という表現がしっくりくるような気がするのは、船の揺れのせいだろうか。
ただ自分の生きた場所を去って未知の世界へと向かうことだけを想い、それが“さみしい”という言葉になったんだろう。正しいかどうかなんて、きっとどうでもいいことだ。
正確な時間は測っていなかったけれど、体感としては瞬く間に、北方大陸とコワシュルテは見えなくなった。もはや四方は波の立つ海だけ。陸はどこにも見えない。
快晴の北大洋をレイメバナンは進む。その向かう先は、高楼大陸。そこにはメルクレイムがあるんだと思うと、また言葉が突き上がる気がした。