第5話 「第一歩」
「どうする? もう一度、外に出てみる?」
「いや、今日はもう……」
身体に疲労が重く溜まっているのを感じる。
「そっか。じゃあもう寝ようかっ!」
アラシは履いていた茶色の靴を蹴り捨て――――
「うわっ」
ベッドへ倒れざまに腕を僕の肩口に掛け、勢いよく引き倒した。
「なにをするんだ!」
「なにって、ベッドがひとつしかないからね」
答えになっていな――――
「んっ?」
アラシの腕は僕の胴をがっちりと捕まえている。
先ほどの攻撃が思い出される。似たようなことになるという予感。
「ううっ!」
なんとか抜け出そうとするけれど――――
「あっ、こらっ、おとなしく寝なよぅ」
ダメだ。うまく力が入らない。
「僕はベッドじゃなくていい!」
「私はなにか抱いてないと寝られないんだよ。いつもはこれ抱いて寝てるよ」
アラシは足元に蹴りやられている毛布を見やった。
「じゃあそれで済ませればいいじゃないか」
「いやいや、せっかく人肌のぬくもりがあるんだから――――」
アラシは毛布を足に引っ掛けて蹴り上げると、それを僕の背面へ縦長にあてがい、自分と毛布との間に僕を挟んで抱きしめてきた。
「んっ」
顔がアラシの胸に押し付けられて息が苦しい。
「やっぱりいいね、この感じ。カームもいいと思うでしょ?」
顔をずらして呼吸を確保する。
「こんな仕打ちのどこが――――」
トクッ……
頭に、拍動が伝わった。
「…………」
トクッ……
またひとつ。
「ねっ、いいでしょ?」
「…………」
今にも聴こえなくなりそうなほどに小さい拍動が、アラシの腕の中へと僕の意識を誘う。
「おやすみ、カーム……」
抗おうとする意思は、どこかへ去ってしまった――――――――
「おはよう、カーム」
かつてないほどに穏やかな寝起き。慣れそうにない感覚だ。
部屋の奥の窓ガラスは赤紫色。ベッドのそばの窓ガラスは群青色。夜明けの境界がこの部屋に存在して――――
「ちゃんと『おはよう』って返せっ!」
「ほあっ」
両頬を掴まれ、引っ張られる。
「えはぇえはぇ! はあへぇ!」
「ほい」
放されてもまだ頬が痛い。身体の軽やかさが消えてしまった。
「で、『離せ』って言ったってことは、言ってくれるんだよね?」
そもそも拒んだわけじゃない。
「ああ、おはようアラシ」
「うんうん、それでいいんだよ」
アラシが満足げに頷く。
「さっさと言っておけば、そんなほっぺにならずに……あっ」
とっさに言葉を切っても手遅れだ。
「僕の頬はどうなっているんだ?」
「えっと……あっ、あぁ残念だなぁ、ここには鏡が無いんだよ」
返事が終わるのを待たず、後ろを振り返って、群青の窓ガラスに薄く映る自分の顔を確認する。
「……これは消えるのか?」
「う、うん……しばらくすればね」
まるでどこかへの所属を表す印のように、アラシの指の痕が頬にくっきりと赤く残っている。ただ、消えるということは、アラシはそのような意図を持っていなかったということなんだろう。
「それなら問題は無い」
とりあえずさすろうか。そうすれば早く治るような気がする。
「えっと……じゃあ朝ごはんにしようか。もうカームは私の同行者なんだし、質素な食事にも慣れてもらうからね」
「食事の質なんて無いようなものだったから、問題は無い」
こういうことはきっと『箱』での経験が生きてくるんだろう。
「あっ、ごめんね。その……」
なぜかアラシがひどく動揺している。
「なにに対して謝っているんだ?」
「その……配慮が足りなかったなって」
「んん?」
なにが言いたいのかは分からないけれど――――
「僕は『箱』で生きてきたんだから、食べ物の心配はしなくていい。僕が言いたかったのはそれだけだ」
アラシは目を見開き、それからそっと僕の頭へと手を伸ばした。
やたらと撫でたがるのはアラシの性質なのか?
「その優しさは誰がくれたんだろうね……」
アラシはそう言って僕の頭に手を置いた。僕は優しさを理解していないというのに。
わざわざ質素だと予告するくらいだから、どれほどのものが出てくるのかと思った。けれど、出されたのは、缶入りのビスケットのようなものと、半固形の乳製品だった。
「もうカンパンには飽きてるんだけど、省空間のことを考えたら、やっぱりこれが一番いい携行食になるんだよね」
なるほど、このビスケットはカンパンという名前なのか。
「これはなんだ?」
乳製品のほうを指して尋ねる。
「ああ、名前? コメトだよ。ヨーグルトだね」
「これがヨーグルト……」
純粋な本物は初めて見る。
カンパンもコメトも量は多くなくて、アラシがちょっかいを出す前に食べてしまうことができた。
「いいねぇその早さ。たまに早食いが必要になることがあるんだよ。カームは私みたいに過酷な特訓が要らないんだね。いいなぁ……」
眉が下がっている。どうもいい思い出ではないらしい。
「先にお皿と缶を向こうへ片付けに……あっ、やっぱり缶はいいや、ここに置いといて」
アラシの言葉に従い、皿をもうひとつの部屋へと運ぶ。箱の中に皿を入れ、蓋を閉じてスイッチを――――いや、まだアラシの皿を入れていないから、そのままにしておこう。
戻ってみれば、ちょうどアラシが「頂きました」と言いながら、盆の上に円を描いていた。確か昨晩も同じことをしていたな。
「あっそうそう、食べ終わったあとはあいさつをしなきゃダメだよ」
指をそのまま僕のほうへ向けて、アラシが僕をたしなめる。必要なのだろうとは思っていたから、すぐに頷く。
「食べる前はあいさつをしなくていいのか?」
「私の故郷だと、食べる前にあいさつをするのは、食べ物の尊厳を貶める行為らしくてね。なんでそう考えられるようになったのかは分からないんだけど、まあ習慣だからね」
理由の理由を訊くのは……やめておいたほうがいいか。
「あっ、もう器洗機のスイッチ入れちゃった?」
アラシが皿を持って立ち上がりながら訊いてくる。器洗機とは、あの箱型の機器の名前だろうか。
「いや、皿を入れただけだ」
「よかったぁ、待ってくれたんだね」
やっぱりスイッチを入れなくてよかったようだ。
「そういや、カームはけっこう思考が早いほうだよね」
「そうなのか?」
「うん。そんな気がする」
アラシはもうひとつの部屋へ行って、すぐに戻ってきた。
「さてと……出発しようか」
「もう出発するのか?」
「だってここですることなんてもう無いからね。あっ、そうそう、防寒着はそこに掛けてあるやつを着てね」
アラシが指す北側の壁のフックに真っ白な服が掛けられている。着てみると、僕が着ていたものよりもかなり分厚いのにとても軽い。
あっ、そういえば――――
「僕の装備はどこにやったんだ?」
アラシにも装備があるはずなのに、どこにも見当たらない。
「ああそっか、ちょっと待ってね」
アラシは白と灰色のまだら模様の防寒着を着ると、部屋の東端に行って、床の一点を靴のかかとでグッと踏み込んだ。すると、床の一角がカチリという音とともに浮き上がってきた。
「おりゃっ」
浮き上がった床の角を持ち上げると、その下に小空間が現れた。中にはリュックサックがふたつ入っている。片方は僕のものだ
「わっ、やっぱり軽いね」
アラシが僕のリュックサックを出して渡す。
「よいしょっ……私の装備もちょっと分けて持ってもらおうかな」
残っていた大きなリュックサックを出しながら、アラシが呟く。
「重いのか?」
「その装備なんかポケット一つ分くらいだよ。ほら」
持ち上げるよう促される。上部の持ち手を掴んで――――
「えっ、あれっ?」
腕の力だけでは持ち上がらない。
「なにを入れてるんだ?」
「食べ物」
「……えっ?」
耳を疑ってみたけれど、異常はないようだ。
「昔に比べたら装備もだいぶ軽く小さくなってきてるらしいけど、たとえ嵩張るとしても、食べ物だけは質を重視したいんだよ」
アラシがリュックサックを開ける。中を覗くと、確かに食料しか見えない。奥のほうには別の装備が入っているんだろう。けれど、このリュックサックが世界最高の冒険家のものだとは信じがたい。
「どのくらい入りそう?」
アラシが僕のリュックサックを開ける。
「わっ、少ないね。必要最小限……いや、一人を想定してたなら、それより少し足りないくらいかな」
「やっぱり少ないのか」
「まあね。これだとかなり危険な行程になるかな」
あの時に感じた物足りなさは正しかったようだ。
「とりあえず、リュックの三分の二は埋めておくよ。軽すぎると、今は逆に困るからね」
アラシが食料を次々に僕のリュックサックへと入れてゆく。
「どうして困るんだ?」
「重い荷物を背負って進むよりも、軽い装備で強風に煽られながら進むほうが、体力と気力とを余計に削るからだよ。あの風の強さはカームも体感したでしょ?」
北方大陸のチメルレイムの厳しさを思い出す。
「よし、これならちょうどいいくらいかな。“少し重いけど普通に進める”が理想なんだけど、どう?」
リュックサックを背負い、何度か揺すってみる。
「余裕だ」
アラシのリュックサックの嵩はほとんど減っていない。アラシにとっては、あの重さが“少し重い”なんだろうか。
そうなんだとしたら、僕はとても非力だ。
防寒装備を着込んで、氷原歩行用の靴を履き、リュックサックを背負い上げる。
準備は整った。
「さあ、この扉の向こうからは北方大陸のチメルレイムの世界だ。心の準備はいいかい?」
きのう見た、向こう側を知らない扉の前に、アラシと並び立つ。
「あ、ああ……」
本当は全身が退こうとしている。誰も引いていないというのに。
「今から自分の意識まで奪ったものを相手にするんだから、そんな意志じゃすぐに負けちゃうよ」
アラシが手袋越しに僕の手を握る。見抜かれずには済まなかったようだ。隠す余裕など無かったから、それも当然か。
「カームがしなきゃいけないのは、きちんと心を準備することだよ。これから進み続けてゆくためにね」
意識にアラシの言葉を残して、扉を見据える。
この向こうでは意思のない風が吹いている。けれど、ここにいる限りは、そんな恐ろしさとは無縁だ。窓も壁もびくともしないし、風鳴りもすきま風もないんだから。
けれど、僕が『果ての箱』から脱出したのは、風から逃げるためじゃない。風に会いに行くために、あの長い階段を登ったんだ。
僕はまだ、自力で風を知ることができていない。『風の空白』を読んで、アラシに教えられただけだ。
「今度はいつ、メルクレイムに出会えるんだ?」
未来に希望を求めたくなって、言葉が声を放つ。
「そうだなぁ……早くて五日くらいかな。今日で次の目的地がある高楼大陸には着くだろうし、着いてからの手続き次第ではあるけど、まあ一〇日かかったりはしないだろうね」
「そうか」
パスツルがくれたあの感覚が、僕の身体を巡ってゆく。ある本に書かれていたように勇気を灯火に例えるなら、その灯火は今、強く、けれど荒れることなく、燃えている。この感覚があるなら、きっと大丈夫だ。メルクレイムを、ただ求めればいい。
「もう大丈夫だ。行ける」
アラシが頷く。
「よし。さあ! 行くよ、カーム!」
アラシが扉のスイッチを押す。扉が右へシュッとなめらかに滑り、世界が向こう側へと一気に広がった。
扉の枠の中に、白と青の世界がある。まだ風は当たってこない。中には風が来ないようだ。風鳴りの低い音だけが届く。
アラシが扉のレールをまたいで外へ出る。その途端に、防寒着のフードがアラシの頬に押し付けられる。向こうでは風が強く吹いているんだろうと、目に見えて分かる。
けれど、準備はできている。その準備はひとりでしたんじゃない。だったら、きっとなにかが変わっているはずだ。
蘇る恐怖に、希望と願望が勝ってゆくのを感じながら――――
僕は“外界への第一歩”を踏み出した。
靴の歯が雪面に突き立ち、しっかりとした感触を足に返す。
「おめでとう。ここからが、今からが、君の知らない新しい世界だ」
その声は、強風に流されることなく僕の耳へ届いた。
白銀の氷原。極寒の大気。眩しい太陽。強烈な風。世界の姿が、ありのままの姿で捉えられてゆく。
ただ美しいと、そう感じる。
なにに対してかは考えられない。興味も無い。世界にだろうと、風にだろうと、氷原にだろうと、空にだろうと、太陽にだろうと、アラシにだろうと、どうだっていい。ただ美しいと感じていることだけが、僕の今を満たしている。
「歩ける?」
靴の歯をガキッと氷に打ち込んでみせて返事をする。
「あそこに建物があるのが見える?」
アラシが指すほうを見つめると、円筒型の構造体が小さく延々と並んでいるのが見える。
「ああ、見えるぞ」
円筒の中で羽根がゆっくりと回転しているのも見える。
「あの向こうに船を係留してあるから、まずはあそこまで行くよ」
アラシが歩き始める。その後を、遅れないように追う。雪氷用の靴は初めて履いたけれど、しっかりと歩けている。
すでに見えている目的地までの距離など、『果ての箱』で終点が見えないまま進み続けた時間を思えば、短いとさえ感じる。前方のナビゲーターは、今やなによりも心強い。