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誰よりも軽やかな風  作者: 雪原たかし
第1章 『北方大陸にて』
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第4話  「出会いふたつ」

「ほっと! さあ座って」

 彼女がベッドに腰掛け、右側をボンボンッと叩く。

「椅子があるのにか?」

 記憶が正しいなら、ベッドは眠るための道具のはずだ。

「ベッドに並んで腰掛けてお話をするのが好きなんだよ」

 まあ、座ってもいいのなら、そうしようか。

 彼女から少し離れて座る。けれど、彼女は間隔を詰めてきた。

「近いぞ」

「君が話をしやすいように隣にしたんだから、その代わりだよ」

 彼女なりの配慮と対価ということか。

「大丈夫。難しいことは聞かないつもりだし、答えられなかったり、答えたくなかったりするならそう言ってもいいし、なんなら黙っていてもいいから」

 黙ってしまうとなにも分からなくなってしまうんじゃないか?

 けれど、彼女はあっさりと言ってのけた。理解はできないけれど、とりあえず頷く。

「君の名前は?」

「カームだ。カーム・ウェストロイズ」

「何歳なの?」

「一〇代半ばだ……と思っている。確証は無いが」

「確かに外見は一〇代ちょっとってところだね。雰囲気もそんなに大人びてるわけじゃないし……そっかそっか、私は二十一歳だから、そんなに離れてないね」

 外見と雰囲気とで年齢を推定したのか。

 身長は彼女のほうが高い。雰囲気は……僕には理解できないな。

「出身は分かる?」

「『箱』だ。『果ての箱』と言ったほうが分かるか?」

 外界で『箱』がどれくらい知られているのかは分からないから、補足をしてみる。

「うーん、そっか……」

 会話が消え入る。隣を見やると、彼女が手を口元に当てて俯いている。

「なにか問題があるんだな」

「いやいや、そうじゃなくてね……」

 また会話が消え入る。

 これは……迷いだろうか。伝わってくる。

「僕からは質問できないのか?」

「えっ?」

 彼女がこちらを向く気配を感じ、とっさに視線を外す。

「あっ、そっか、君も訊きたいことがあったんだね。じゃあどうぞ」

 頬の辺りに視線を感じる。

「お前は何者なんだ? なぜ僕を助けた?」

「それは……あれ? 意外と答えづらいなぁ」

 彼女は少し思案して――――

「ふたつめのほうから答えると、まあ単純に、倒れている君を発見した時の私に、君を助けられるだけの余力があったからだね」

「余力が無ければ助けなかったんだな」

「そうだよ。どう思う?」

 どう思う……彼女の行動指針に対する意見を訊いているのか?

「理に適っていると思う」

「へぇ……そっかそっか」

 どうやら推測は正しかったようだ。

「ひとつめのほうは……君の知らないものだと思うけど、それでもいいの?」

「それでもいい」

 知らないもののほうが多いんだから。

「そっか。じゃあえっとね……私は様々な風を探す“風旅”というものをしているんだよ」

 知らな……えっ?

「『何者か』って訊かれたら、冒険家ってことになるのかな。まあ、いきなり“レイメトゥーラ”って言われても分からないよね」

「お前……」

 思考がひとつの可能性に到り、手が震える。

「ん? なにかまずかった?」

「そうじゃない……そうじゃないんだ」

 彼女を仰ぎ見る。あっ、目が合って――――いや、そんなことは問題じゃない。

「お前の名前、アラシだけじゃないだろう?」

「えっ、ああ、全名のことかな? アラシ・ハミル・キトスだよ」

 可能性が真実へと確定してゆく。もう、あとはたったひとつ。

「それがなにか――――」


「お前……『風の空白』の著者か?」


「えっ、そうだけど、まさか君……知ってるの?」

 驚きが僕から彼女へと移っている。

「ああ、知っている。知っているんだ」

 彼女の記した世界と言葉たちは、今や意識でいくつも映えている。

「『箱』の底で見つけたお前の本が、僕に風を教えてくれたんだ」

 あれから経ったのは……五日か。そんなにも短い時間で『箱』を出ようとさえ思えて……いや、短いのか?

「うわぁ……そっかぁ。まあ確かに『この星に生きるすべての人に届きますように』って思ってたけど、まさか『箱』にまで届くとは思ってなかったよ」

「僕はお前の記した風を求めて『箱』を出ようと決めた。だから、お前が僕を『箱』の外へ連れ出してくれたんだ」

「えっ、そんなに大層なことはできないと思うよ?」

「僕は今、お前の隣にいる」

 彼女から抵抗が穏やかに消えてゆく。薄く開いていた口が閉まり、しばらく経ってからまたゆっくりと開いた。

「そっか……君は風を知るために『箱』から出てきたんだね」

 さらに柔らかくなった彼女の声。それを聴いて、思い出す。

 あの延々と続く階段を登って、僕は外界にたどり着いた。けれど、初めて触れた外界にあったのは、僕の求めていた風じゃなかった。

「風を知っても、なにも変わらなかった……」

「おっと、そこまで飛んじゃったか。でもまあ……いっか、元からその話をするつもりだったし」

 困り笑いをしながら、彼女は深紅の上着の内側に手を入れた。

「君が倒れているのを見つけた時、最初はどうして倒れているのか分からなかったんだよ。でもね、それは私が北方大陸の風を知っていて、似たような厳しい風を受けたことがあって、そしてなにより、いつも風が吹いていることが当たり前だったから。君の足跡が狭い範囲を何度も強く踏み固めているのを見てようやく、私は『箱』がどういうところなのかを知ったんだよ」

 彼女は細長い透明の容器をひとつ取り出した。口部には金属栓がついていて、その中では、キラキラと光る微粒子が渦巻いている。

「今のままだと、君はまた『箱』に戻ることになるよ」

 わずかに低められた声。なにかが刺さるような幻覚。

「……僕は自分の意思で『箱』から出たんだ。それなら、『箱』に戻ろうと考えることもありえるだろう?」

 違うというのは分かっている。案の定、彼女は目を閉じて否定の仕草を見せた。

「違う、違うんだよカーム。君はそんなことを考えなくていいんだ。君はただ、風を知らないだけ、理解してないだけなんだよ。知ってしまえば、理解してしまえば、あんな恐ろしい場所に戻ろうなんて思わなくてもいいんだよ」

 彼女が容器の栓に指をかける。

「おい待て……なにをするつもりだ」

 彼女は答えない。指をかけたまま。

「どうして答えてくれないんだ?」

 彼女は答えない。ゆっくり息を吐く。

「なあ、どうして――――」

 そして、彼女はポンッと栓を開けた。

 その瞬間、容器の中で渦巻いていたものがふわっと飛び上がった。そして、それは彼女の手のひらの上にふうっと舞い降りた。

「これがなにか分かる?」

「分からない……」

 こんなものは『箱』で見たことがない。

「これはね、君が恐ろしいものだと思っている、外の世界の風だよ」

 容器に入っていた時と同じように、きらめきながら渦巻いている。

「私はたくさんの風と出会ってきて、時にはこんなふうにして風を集めてきたんだよ。思い出せるようにね」

 レイメトゥーラの能力に“風をすくい取り、操る”というものがあると、『風の空白』で紹介されていた。とても想像しづらかったけれど、こういうことだったのか。

 彼女が僕の前に手を、風だと言ったものを差し出す。

「触ってごらん」

「……どうして?」

「触ってみれば分かる。今の君と、この風ならね」

 見ているだけに留めておけば、ただ綺麗なだけだ。

 本当に触れなければならないんだろうか?

 彼女はなにも分かっていないのかもしれない。僕が風を知らないということを、本当には理解できていないのかもしれない。彼女は僕の世界では夢の人だった。僕は夢を見ているのかもしれない。

 それでも彼女は……「それでも」と言うんだろうか?

 誘われるようにして、手が上がってしまう。

「そう、まずは周りからでいいよ」

 彼女の声が限りなく優しい。音を立てずに近づくようで、けれど不気味でも恐ろしげでもない。ただ、柔らかく、やわらかく。

「君が『箱』から出てすぐに触れた風の話をしようか。あっ、まだ触れなくていいよ」

 手のひらをかざしたところで、止める。

「少し冷たいのが分かるでしょ? その冷たさで、あの時のことを思い出してみて」

 手のひらに伝わる冷たさは、あの時のものと似ている気がする。

「君が触れた風はね、温度の高低だけで吹く風だったんだよ。あの本を読んでくれたんだったら“チメルレイム”は分かるね?」

 黙って頷いてみせる。確か科学の法則に従う風のことだったか。

「でもね、この辺りには“メルクレイム”が吹いてないんだ」

「あっ……」

 そうだ、思い出した。北方大陸にはメルクレイムが存在しない。確かに『風の空白』にはそう書かれていた。

「君が体感したのはチメルレイムだったんだよ」

「…………」

「意思のない風の寒さや激しさなんて、そりゃあ怖いよ。でもね、この風は違う」

 彼女の手の上の風が、淡い緑へ、鮮やかな赤へ、深い青へと色を変え始める。

「これは……」

「どう? 美しい?」

「ああ……」

 緊張を融かしてゆく美しさ。呼吸が曖昧になってゆく。

「これがメルクレイムなんだよ。世界の様々な場所で吹く、意思を持つ風の、まあこれは名残だね」

 僕の手の前にはあるのは、僕の望んだものだ。本当にすぐそこにあるんだと、彼女は言う。

 飛び出そうとする気持ちを抑え、彼女の言葉を聞く。ただの知識だったものが、彼女の言葉になれば、本当に僕のものになってゆく。そういう感覚を感じたいと思っているから、待つ。待とうと思える。

「風を知りたいって願う君になら、きっと彼らは教えてくれるよ。自分がどういう存在で、どうやって感じてゆくべきなのかをね」

 もう触れてもいい。そう言ったような幻聴は、きっと幻じゃない。

 今の僕は、欲と願望を追い求めるひとりの人間だ。

 今の僕は、そんな人間でいてもいいんだ。


 ふわっと包み込むようにして、僕はメルクレイムに触れた。


 彼女が手を引き、メルクレイムが僕の手の中に残される。

 くすぐったい。強く握りそうになると、グッと押し戻してくる。

 冷たい。ゆっくりではあるけれど、僕の手も冷たくなってゆく。

 とても鮮やかで眩しい。彼女の手の中の時ほどじゃないけれど、僕の手の中でも色を様々に変えてゆく。

 そして、身体中を駆けめぐる、身震いをしてしまうほどの強烈な感覚。激しい波が、手のひらから腕を経て背中や腰を伝わってゆき、互いに打ち消しあいながら、穏やかに末端へと到達する。何度も、いつまでも、僕の身体をどこまでも。

 風を感じる僕の身体から、純白の流れが世界へ向かって勢いよく溢れ出す。幻視だと分かってはいる。けれど、どこまでも現実で、途切れることがないように思える。

『それはかつてお前の中にあって、停滞し、失われたものだ』

 メルクレイムの言葉だと、分かる。

『世界は美しさに満ちている』

 穏やかな囁きが、感覚を飛び越えて意識に届く。

『お前はもう、そんな世界に在るひとつの生命だ』

 そうか……これだったのか。メルクレイムを知ったあの時から、僕はこんな祝福を求め続けていたのか。

 なんて……なんてうれしいんだろう……

 僕の望んだ世界は、確かに存在していたんだ。

 どこにでもあるわけじゃない。けれど、どこかには確かにある。

 近くかも、遠くかもしれない。けれど、きっと待っていてくれる。

 偽りじゃなかった。真実だった。なによりも、それがうれしい。

「どうだった? メルクレイムは君になにを教えてくれた?」

 僕の手からメルクレイムを引き受けながら、彼女は僕に尋ねる。

「僕を……教えてくれた」

 こんな言葉を考えたことなど、今まで無かった。

「恐ろしい?」

「……いや、そんな存在じゃないと思った」

 容器の中でメルクレイムが再びきらめき始める。

「このメルクレイムの名前はパスツルっていうんだけど、パスツルみたいに冷たい風、逆にとても熱い風、水や砂をたくさん含む風、逆になにも含まない風もある。それらはみんな、風というひとつの存在なんだよ。どんなに親しげに見えても、敵のように見えても、なにも無いように見えても、風はこの世界で生まれ持った意味から絶対に外れない」

「風の意味……?」

「風旅を続けて、私もようやく分かり始めてきたんだよ。かつてのレイメトゥーラたちは、もう大昔にそれを発見して書き残してた。でも、これはやっぱり自分で感じないとダメなことなんだよ。まあ、実は簡単なことなんだけどね。君にもきっと、そう遠くないうちに分かる日が来るよ」

 彼女は容器の栓を閉め、上着の内側にしまった。

「アラシ、ひとつ聞いてもいいか?」

「おっ、初めて私の名前を呼んでくれたね。なあに?」

 一瞬、彼女の顔が明るくなったように見えた。気のせいだろうか?

 いや、今はそれよりも先にやるべきことがある。

「お前はまだ風旅を続けているのか?」

「うん。まだ見つけてない風があるからね」

 さあ、ここからだ。

「僕も同行させてくれないか」

「うん、いいよ」

「荷物持ちでもなんでも……えっ、いいのか?」

 交渉が必要になるんじゃなかったのか?

「むしろ私から君にお願いしたかったくらいだよ」

「えっ、あっ、えぇ……」

 彼女が愉快そうに笑う。きっと僕の緊張も察知していたんだろう。

「私の知る限りで、君は『箱』から自力で出た唯一の人間なんだよ。だから君のことをもっと知りたい。レイメトゥーラとしても、君に風のことをもっと深く知ってもらいたいんだよ」

 言葉に込められた意思を理解してゆくにつれて、緊張が穏やかに消えてゆく。

 彼女は僕の知らない風の姿を教えてくれた。そして、これからも教えてくれるという。そうでなくとも、彼女は僕を救ってくれた。

「ありがとう……」

 感謝の言葉は知っている。ただ、その感情はただの知識だった。

 なのに、どうしてこうも言い慣れた言葉のように言えるんだろう?

「助けてくれたことも、食べ物をくれたことも、風を教えてくれたことも……っ……本当に……」

 こみ上げてきた涙は、初めて彼女に見せた時とは違って、流れるままにはならない。僕の手に拭われては、また溢れてくる。

「どういたしまして」

 泣いている僕の姿は、きっと美しくないはずだ。それでも、僕は身体が求めるままに泣きたい。わがままに、泣いていたい。

 絶えることなく、けれど逸ることもなく、彼女の手が僕の背中をさする。そんな彼女の行為が、美しいと思えた。

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