第28話 「知識の箱へ」
チェルは、リウキン大盆地の底にある、高楼大陸最大の都市だ。周縁部にあるサンセンとの標高差は一千メートルを超え、季節毎に異なる方角から吹き降りる風はチェルにあらゆるものを運んでくる。一年のほとんどで風溜まりとなることから“抱え込む地”と称され、数多の産物の集積地として発達したらしい。
「今の時期も風だまりのはずだから、外に出てみれば実感できるんじゃないかな。開けた場所から見る夕方の空と合わせれば、これぞまさに“抱え込む”って感じだからね」
チエ、僕、アラシの順に列をなして、一〇人ほど並べそうな幅の通路を進んでいる。時刻は一〇時で、日没は一九時頃だろうから、かなりの時間が残っているはずだ。
「こいつにあんな夕方を見せて、それが普通だって感覚になったらどうすんのよ」
「それはそれでいいじゃない。悪いわけじゃないんだし」
「いやいや、焼けない夕日なんておかしいってえのよ」
列車を降りてから建物の中を歩き続けている。壁は赤系統がやや多く、表面はあまりなめらかそうじゃない。ソーモン荒原の土肌がそのまま張り付いたらこうなるかもしれないな。
「で、今回の拠点はどっちのほう? この通路だと北か東でしょ?」
「東地区の二番街。前よりも三部屋多いから、楽しみにしてなよ」
声が前へ後ろへと掠めてゆく。
「東の二番……まあ前よりは便利なんでしょ?」
「前だって便利だったよ?」
「チイは食料品じゃなくて薬品を揃えたいのよ。わかってるくせに」
「あっ、そこ右ね。三〇番」
「はいはい」
チエに続いて曲がると、天井が遠くなった。薄青いのは、ガラス越しに空が見えているからだろうか。エスカレーターが四列あって、チエは右端の列へと進む。
「まずはカームのぶんの架空表示装置を買って、それから……」
架空表示装置……ソーモン荒原でアラシとチエが使っていた架空画面の本体のことだな。『果ての箱』には損壊したものしかなくて持ち出せなかった。
「えっ、チイのはお下がりなのに、こいつには買うの?」
ほんの少しだけ上から、チエがアラシに振り返る。
「うん」
「なにそれぇ!」
チエがアラシに正対し、右足で段を踏みつける。僕の段も揺れたけれど、良い行為ではないはずだ。
「最後まで聞いてよ。チエのは買い替えだよ」
もう一度踏もうとした足が静かに下りる。チエは半身になると、手すりに背中を預けた。
「……当然よ。てか先に言ってよ」
「でもさ、古いものを持っているほうが、なんだか先輩って感じがしない?」
「いや別に? ただ古いからってだけで思ったりはしないわよ」
チエがまた前に向き直る。エスカレーターがもう終わろうとしていた。段が面へと戻り、送り出されるようにして、チェルの中へと踏み出す。まずは前方に――――
「あぁ、そういや三〇番って“外側”だったわね」
「やっぱりセキレン大門は見せとかないとね」
赤茶の土が立ちはだかっている。いや、土壁だ。ほとんど真上を向かなければ上端が見えない。レイメバナンを五台は並べられそうな幅の道が正面の半円筒を通っている。出口が遠くに見えるということは、この壁はかなり厚いんだろう。土塊を中身の詰まった箱に形どったもの、と表すほうが近いかもしれない。
チエが眉を軽く寄せる。
「もしかして、東にしたのってこのため――――」
「ちょっとでも東のほうが桜風に慣れやすいでしょ」
「……まあそんなわけないか。はいはい合理的合理的」
アラシがセキレン大門に背を向けて歩き出す。さっきまでと逆の並びになった。
「あんたは後ろ……いや、いい」
チエが僕の腕をわずかに引いたけれど、すぐに離す。そのままの並びでいろということか。
ひとまずの目的地に着いても、それで目的が生まれなくなるわけじゃない。これからの目的に、チエの協力は必要となるんだろう。定まった結果をもたらさんとする道具とは違って、チエは人間だ。協力……といっても、まだ目的が定まっていない現状で、どうするとも決まっていないそれを求めても、チエはきっとあの顔をする。それは今でもわかる。
「チエは、僕の興味を見つけてくれるのか?」
「えっなに? 酔った?」
振り返った僕の顔を、また眉を寄せて見てくる。
「酔ってはいない」
「ふぅん。駅とかでもそうだったけど、あんた他人がたくさんいるのは平気なのね」
「他人……」
言われた瞬間に、僕たち以外の人たちと、その多さに気づいた。
「人に興味が無いってえなら、まあ……モノ? とかになるんじゃないの?」
「なにが?」
「だから、あんたの興味の対象」
「物は……」
思いに『箱』の底面が描かれる。あそこには――――
「……最初は、お前だと思った」
「えっ、なにやめて」
「でも、お前なんかじゃない」
「だからそういうのやめ……って、ちょっと待って“なんか”って言ったわね? 言ったわね!」
「ああ、言った」
「確かめた……ああもうやだ!」
チエが僕の腕を後ろへと強く引き、アラシとの間に生じた空間に入り込んだ。並びを変えろ、ということか。
壊れていない“物”ならば、僕の興味の対象になるかもしれない。その考えを共有するのは、協力……ということにはならないらしい。なにをしても、チエをあの顔にさせるだけなのかもしれないな。
「ねえ聞いた? チイさすがに自分を軽んじてくるやつとは一緒にいたくないってえのよ!」
チエがアラシの腕に取りつく。アラシは前を向いたままだ。
「聞いてたけどさ、そういうのじゃないよ。表現がうまくなかったってだけだね」
「……だとしたら致命的に下手でしょこいつ」
「それも教えてあげなよ大先輩」
「……チイのほうが小さい」
肩をすくめたのは、小さく見せようとしているからか。
「普段それ言ったらすんごい怒るのにまあ……そこまでかあ……」
「あぁ……いや、やっぱこっちのがダメだわ。投げない投げない。自分のためだけじゃないから」
また肩を張る。
「カーム!」
チエが呼ぶ……えっ、チエが?
「あんたの興味とやら、見つけるわよ」
「それは、協力するということか?」
「協力は同じ利益があってこそのものでしょ。チイのは助力なの。あんたを助けるのよ」
「そうか。ありがとう」
言い終わって前に向き直ろうとしていたチエがすぐに振り返る。今度は目を見開いて、出す寸前の言葉を失ったかのように口を薄く開けている。
「……いや、えっと、だっ、だいたい、協力だなんてえらそうに。自力で助かるようになってから言えってえのよ」
目を見開いたまま、視線を逸らし、また前に向き直ってしまう。
「ふふっ、やっぱりね」
アラシだけは穏やかなままだった。
歩くこと約一〇分。やけに白く、ガラス面の多い店へと入った。巻くための帯が付いた小さな平箱型の端末がいくつか並んでいる。
「いらっしゃいませ」
僕よりも頭ひとつぶん背の高い男が声をかけてくる。
「こんにちは。この子たちの架空表示装置を買いたいんですけど」
「それでは、機種一覧をご覧になって少々お待ちください」
「あぁいえ、機種は決まっているんです。これの新型を」
アラシが自分の端末を見せる。自分のものは新しくしないんだな。
「確認しました。二台でよろしいですか?」
「はい」
「では、手続きをいたしますので、こちらでお待ちください」
手続き……と言われても、ソーハンと同じようにアラシがやってしまうだろう。じゃあ他にすることは――――
「あっそうだ、ここにいてもやることないし、ふたりとも出かけてきたらどう?」
チエが止まる。こちらを向こうとして、それも止まる。
「いや出かけるって……まあ確かにないけど、なんでカームと?」
「助力、するんでしょ?」
チエの顔が少し上を向いて、まっすぐ落ち、また上がる。
いや、それよりもチエが――――
「……カームが行くって言ってない」
「カーム、どうする?」
助けられる。ということは、僕が願望を示す立場なんだろう。
いや、だからそれよりもチエが僕を――――
「行く。でも、僕はここになにがあるのかまったく知らない」
「じゃあそこはチエにおまかせだね」
「カームが行きたそうなところ……わっかんないわね」
チエが振り向く。あの顔……じゃない。もっとなにかが定まったような顔だ。
違う、それよりもチエが――――
「適当にうろついてるから、全部終わったら呼んで」
「なんなら先に拠点に行っててもいいよ。荷物はもう運ばれてあるはずだから、やることが見つからなかったら荷解きをお願い」
「はいはい。所在情報、チイのに送っといて。カーム、行くわよ」
「……あっ、ああ、わかった」
それよりも……なんだ?
確かに、チエからの僕の呼び方は変わった。だから……なんだ?
「手、出してよ」
「えっ、あぁ……」
言われるままに出した左手の手首辺りを掴まれる。僕のほうからチエの手を掴むことはできない。どこかへ連行される形だな。
「行ってらっしゃい」
チエが返事をせずに歩き出す。僕も返事をしないでおこうか。
呼び方のことは……もういいか。きっと、名前で呼ばれるほうがいい。僕を、呼んでいるんだから。
店から出ると、チエは架空画面を開いた。
「東は前の時にあんまり来てないのよね。なにがあんのかな……」
地図を表示して、そこに枠を次々に加えてゆく。枠内には文字が書かれているようだけれど、すぐに流れてしまうから読めない。
「行動範囲が限られるような、大きくない施設がいいんだろうけど、そんなの……なんだいいのがあるじゃない」
チエが目的に適うなにかを見つけたらしく、顔だけ振り返る。
「カーム、あんた普通に本は読めるわよね?」
「ああ」
「じゃあ決まり。図書館へ行くわよ」
「図書館……そうか、あるのか」
数多の“書き残されたもの”を収蔵する施設。そうだ、それらは収められるべきものだ。誰にも手に取られずに散り消えるものじゃない。そうか、あるんだ。行けるんだな。
「楽しみだ」
少し柔らかく突き上がってきた。
「ほらやっぱり。思いついた時に、なんだかあんたらしいとこって感じがしたのよ。今ならなに読んでも得るものだけだろうし、早く知識だけでもチイたちに追いつきたいでしょ」
そこまでは思っていなかったけれど、なるほど、それもいいな。
「だが、アラシの頼みはどうするんだ?」
「頼み……ああ、荷解きのことね。やることが見つかったんだからそっち優先でいいのよ」
「そうか。なら、早く行きたい」
「はいはい。焦らなくてもすぐよ。もう見えてるし」
「どれだ?」
チエの見ているほうか?
「あっこら! 頭越しするな!」
顎の真下からチエの抗議が聞こえる。跳ばれたら強く打ちそうだ。すぐに下がっておこう。
「まったく……あそこよ。道向かいの、赤い看板があるとこ」
赤い看板……あった。少し奥に三層ほどの建物も見える。
「道を渡らなきゃいけないから、絶対に勝手なことしないでよ?」
そう言いながら、チエはなぜか図書館から離れてゆく。
「遠ざかっているぞ?」
「渡るための場所があんのよ。いいからついてきて」
前方で、僕たちが沿っている道と別の道とが交わっている。そういえば、ある方向の車両だけ進んだり、さっきまで歩いていた人が進まなくなったりする地点がここまでにもいくつかあったな。確か“交差点”だったか。表示に従って進んだり止まったりしなければいけないはずだけれど、表示がなにを指示しているのか僕にはまだわからない。ここまでのところで自分たちの動作と表示とを照らし合わせておけばよかったな。
交差点に着き、道を渡ろうとする。でも、止まる。向かいの少し高めの位置にある表示は、よく見ると円の中で横棒が点滅している。あっ、今度は上下に対向する矢印が点灯した。チエも進み始める。
「今なら僕だけでも交差点を通ることができるぞ」
「え、なに? いや、そのくらいできなきゃ困るんだけど……」
チエの視線が少し外れて、すぐに戻される。
「えっ、もしかして今まではひとりで渡れなかったとか?」
「そうだ」
「うっわぁ、予想外すぎてもう……あれ? でもここまでちゃんと渡ってたじゃない」
「お前とアラシの動きに合わせていた」
「ああそういうこと。じゃあ他にもこういうのがあるってえことね。はぁ……先が思いやられるって、こういう気分なのね」
交差点を通りきって、先ほどまでとは反対の方向へと進む。赤い看板が近づいてきて、『シェンシン図書館』と銘じられているのが見える。
「二つ区切れの音の名前が多いのは気のせいなのか?」
「区切れ……言われてみたらそうね。まあ、ムーハック語の文字はたいてい二音だし、自然とそうなるってことじゃないの?」
ムーハック語……高楼大陸の旧言語だったか。統一語とは異なり、膨大な数の文字それぞれに意味を持たせているらしい。
「旧言語は今も使われているんだな」
「そうね。どこの国でも旧言語が第二言語になってるわよ」
「チエも旧言語を知っているのか?」
「うん。チイはヨーファン語。ちなみにアラシはキトン語ね」
看板の前まで来る。白い石敷きの道が奥の建物へと続いている。
「あんたはなんでか統一語のほうは問題なさそうだけど、そういや旧言語は無いのよね?」
「他の言語は存在だけ知っているが、使えるわけじゃない」
「こう、『箱』だけの旧言語とか無いの?」
「僕の知る限りだが、そういうものは無かった。そもそもほとんど人間がいない」
「ほとんど……てか、そうね、いないって決まってなかったわね」
言葉を交わす機会など無かった。『箱』で出会った人間は、もう言葉が消えてしまっていたり、なにもしなくなっていたりした。
「ひとりだけ、『箱』を出る時に会話をした人間がいる。老翁で、誰にも見えない階段が見えていた。僕はそこを登って出てきたんだ」
チエが僕の手を離す。熱の名残を手首に感じる。
「階段……意外と現実的ね。『気づいたらいきなり外だった』とかなのかなって勝手に思ってたのに。てかさあ、誰にも見えない階段って、それ本当に見えてなかったの?」
「わからない。その老翁以外に訊いたわけじゃないんだ」
「あっそうだ。館内では会話は必要最低限ね。もし話す時も小さい声にして。いい?」
いつの間にか図書館の建物内に入っていたのか。三層分の吹抜に、広い階段が伸びている。出入口のそばにマナジンがあって、チエはもう荷物を収めている。持ち物は不要のようだ。僕も収めよう。
「わかった。他に注意しておくべきことはあるか?」
「あるけど、とにかく静かにすることと、大事に扱うこと。それが基本。それさえ守ってたら、まあ壊滅的なことは起きないはずよ」
吹抜に出る。僕とチエの靴音が響きわたる。
「今日ここでだけはあんたの気ままに付き合ってあげる。あんたを置いて読書に集中なんてできないからね。チイは後ろにいるから、なにか訊きたかったら静かに呼んで。いい?」
「わっ……と、わかった」
普通の声でもかなり響くんだな。
「じゃあ、まずは二階から。ほら、行って」
促されて階段を登り始める。チエは三歩くらい後ろにいる。ここからは手をとって導いてくれるわけじゃないらしい。
僕自身の知りたいことを、自分から知りに行く場所。図書館とはそういう場所なんだろう。列車で観たような物語。旅行家の紀行文。もっと厳しいものも、やさしいものも、きっとある。
でも、最初に探すものはもう決めてある。
「チエ、『風の空白』はどこにあるんだ?」




