第3話 「食事のぬくもり」
どこまでも静かだ。
黒の小世界にはなにも無い。
望むものは無い。望まないものも無い。
それでも、いつかまた、僕はこの世界を必要とする。
理由なんてこんなもので十分だ。
さあ、目を覚ませ。
僕の生きる世界は、もうここじゃないんだから――――――――
感覚が戻ってゆく。とても穏やかだ。なにも強いられていない。
目をゆっくりと開く。微音が耳に届く。柔らかい感触に気づく。
薄明かりの部屋。氷原じゃない。風は無く、静かだ。白い毛布にくるまっている。とても暖かい。
「いいかい。落ち着いて、ゆっくりこの部屋を見渡してごらん」
深みのある声に従って身体を起こす。毛布をのけ、左から、少し上を通りつつ右へと視線を移して――――声の主を見つけた。
「やあ、はじめまして」
つややかな黒髪。細い眉。小さな鼻。薄桃色の唇。白い肌。女性なんだろう。柔らかい輪郭から、そう思って――――
あっ、目が合ってしまった。
明度が高い茶の瞳。目尻が少し下がっている大きな目。とっさに視線を逸らす。彼女の着ている深紅の上着に目が留まる。
「『箱』……じゃないのか?」
いつの間にか、僕の服が黒い前開きのものに替わっている。僕の装備にこんな服は無かった。くるまっていた毛布もそうだ。
そういえば、装備はどこだろう?
「そうだよ。よかった、意識のほうは大丈夫そうだね」
彼女がにこりと微笑み、僕の額に手を伸ばして――――
「なっ」
バチッ。
「痛っ!」
打ち払った彼女の手はしばらく動きを止め、腿へと下りた。
「ごめん、いきなりだったね。倒れていた時には熱があったから、大丈夫かなって思ったんだけど、こういうのに慣れてないのかな?」
僕をこの平和な空間まで運んだのはおそらく彼女だろう。害意を予想するのは理に適っていなかったな。
前髪を押し上げ、額を彼女に差し出す。けれど、彼女は驚いて、それから「ふふっ」と笑った。
「じゃあ、失礼するよ」
彼女がゆっくりと手を上げ――――
「……熱を測るのは失礼なのか?」
「えっ? あっ、ああ、そうじゃなくて……ふふっ。そっか、君はそういう感じに受け取るんだね」
彼女の手が再び僕の額に伸び――――指先が触れる。冷たくて、肩が小さく飛び上がる。それでも指先は離れない。指は額を滑り、今度は手のひらが額を覆うようにして触れる。
「うん……きれいに下がってるね。頭から来てたのかな」
彼女の手が僕の額から離れる。
「身体はどう? 重い? 痛む?」
肩を回し、腰をひねる。重みも痛みも感じない。
「身体に問題は無い」
「そっか。じゃあ、なにか食べようか。おなかすいてるでしょ?」
確かに、腹の内側が空いているような感覚がある。
「ああ」
彼女はどうやってこの感覚を予想したんだろう?
「じゃあ、お湯は沸かしてあるから、簡易のものにするね」
彼女は立ち上がり、違う部屋へ去っていった。それを見送って、改めて部屋を見渡してみる。
部屋は僕の右側に長い。ここから見えている時計が正しければ、今は日の入り頃らしい。ベッドの左にある磨ガラスの窓は鮮やかな朱を映していて、部屋の反対側にある窓は青暗い。東西方向に長い部屋なんだとすれば、ベッド側が西ということになるのか。
中央には高足の円卓が一台と、椅子が四脚ある。北側の壁際には橙色の暖かな光をやんわりと放つ薄い箱のようなものが置いてある。確か“温熱機”という名前だったはずだ。
南側の壁の中央には彼女が去っていった扉があり、その両側にはたくさんの額縁が掛けられている。ベッドからは見えにくいけれど、飾られているのはおそらく写真だろう。
そうやって眺めていると、彼女が木の盆を手に載せて戻ってきた。
「小屋の備蓄が無いから手持ちを切って……あっ、立てる?」
ベッドの横に揃えられている靴を履き、立ち上がってみせる。
「やっぱり心因性かな……」
彼女は盆を円卓の上に置きながら少し思案したけれど――――
「まあいっか。さあ食べよう。そっちに座って」
そう言われるままに、僕は椅子を引いて座った。彼女も向かいの椅子を引いて座った。
盆の上に並んでいるのは、甘い匂いが立ち昇る、黄色い半透明のスープ。赤いソースのかかる、手のひらくらいの大きさのブレッド。それと、小さな皿に盛られたドライフルーツ。
形のはっきりとした、名前の分かる食べ物ばかりが並んでいる。なんでもあるとすら思えていた『箱』で、見たことがのない光景だ。
そうだ。僕はもう『箱』にいるんじゃない。
「なにかダメだった?」
彼女のほうへ視線を向けると、彼女は僕を見据えていた。
「いや、違うんだ、その……」
言葉が途切れる。対話の経験が乏しいことを思い知る。
「慣れていないんだ……僕はこういうものに慣れていないんだよ。お前に分かるか? お前にこの……っ……」
どうして彼女にこんなことを語っているんだ?
目が熱くなる。じんわりと流れ出た雫が胸まで伝ってくる。
これは……得たからなのか? それとも、もらったから?
「あのね、君の前にある食べ物は、君のものなんだよ。君に食べてほしくて、私が持ってきたものなんだ。だから、私と一緒に食べてくれないかな?」
彼女が微笑みながら言う。
「違う……違うんだ……」
「違っていても、それだけでいいんだ。それだけでいいんだよ」
彼女が立ち上がり、椅子を僕の隣へ持ってきて座り直す。
「私と同じものを食べようか。そうだなぁ……最初はスープかな?」
彼女は僕の前に置いていたスプーンを取ると、スープをすくって僕の前に差し出した。
「君からだ」
「…………」
「なんで逆にきつく閉じちゃうかなぁ……」
そうか、口を開ければいいのか。
ゆっくりと口を開く。彼女は僕の口にスプーンを差し入れ、僕はスープを舌に受け止めた。
「ん……」
甘くてしっとりとした舌触り。温もりがゆったりと下りてゆく。全身が解けてゆくような感覚に、思わず震えてしまう。
「じゃあ私も」
彼女は自分の盆を引き寄せると、スープをすくって飲んだ。
「ふぅ……やっぱりタリエグレインのスープはおいしいなぁ」
息をつく彼女。その顔を見つめてしまい、よく分からない気分になって、盆の上に並ぶ食べ物たちに視線を落とした。
「次はなにがいい?」
彼女が僕の顔を覗きこんでくる。
「どうしてだ……」
「ん?」
いつの間にか涙は止まっている。
「こんな簡単なことを、どうして僕は……」
言葉が消え入る。けれど、彼女は微笑んだ。
「食べられたんだから、そんなことなんかどうだっていいよ」
「そんなこと――――おむっ!?」
言い返そうとした僕の口にスプーンが差し込まれる。
「ほら食べろ食べろぉ」
彼女の雰囲気が先ほどまでと違う。
「むあっ、ちょっ、待て――――」
「慣れればいいんだよ慣れれば」
「無茶言うなあむむ……」
スプーンが休み無く口に差し込まれる。むせないようにスープを飲み込んでゆく。抵抗しようにも、言葉を出す暇は無い。そのうえ、なぜかスプーンが口の前に来る度にどうしても口をわずかに開けてしまう。
かなりの早さでスープが減ってゆく。もう三すくい。二すくい。一すくい――――
「んく……んはっ……」
ようやく彼女の攻撃は終わった。
「そんなにスープが好きだったなんて、ひとつ発見だね」
「お前が……無理矢理……はぁ……あぁ……」
どうして摂食で苦しむことになるんだ?
「さて、次はなにかな?」
まずい、まだやる気だ。
「おいやめろ……もう自分で食べ――――」
「ブレッドか、そっかそっか」
いつの間にか、彼女は椅子に足を掛けて逃げを封じている。
「こういうのは楽しくないとね」
彼女の微笑みが、先ほどまでと違って見える。ブレッドを小さくちぎり分ける手が、なぜか恐ろしい。
「楽しいのはお前だけあむむ……」
先制したはずの反論さえも封じられ、彼女に敵いはしないということを思い知らされる。
「ほらもうひっとつ、さあもうひっとつ」
今は噛んで飲み込むことだけを考えるしかない。
盆上の食べ物が尽き、彼女の攻撃はようやく終わった。あれほど苦しかった摂食も、終わる頃には慣れて、今はもうほとんど呼吸を乱していない。疲労は重く残っているけれど。
「なにがしたいんだ……」
「ん? 食事だけど?」
彼女は自分の皿に手をつけている。
まだ外界のことをほとんど知らないけれど、『箱』のほうがまだ平和だったと確信できる。少なくとも、摂食は強いられなかった。読書で形作った外界の理想像が無残に崩れようとしている。
「強いられたせいか味が分からなくなってしまったんだが、食事は味を感じ取るための行為じゃないのか?」
彼女がブレッドをちぎる手を止める。
「あははは……ごめんね、ちょっとうれしくなっちゃったんだよ。満ちてゆく人って、見ていて美しいからね」
「『満ちてゆく』……」
その言葉を、経験を、体感を、僕は望んで、求めていた。
「ひとくちめのスープを飲んだ時の君は、そんな表情をしていたよ。ただおいしいってだけなら、あんな顔はできないだろうね」
確かに空腹感は消えているけれど、そのことではないんだろう。あるいはそれだけじゃないということなのかもしれない。
「どんな顔だったんだ?」
「教えられないよ。とても言い表せそうにないからね」
彼女が食事を再開する。
つい先ほどのことだというのに、感覚の記憶が曖昧だ。自分から望んだはずのものを得ていたというのに、僕は機会を逃したのか。
外界の未知に、感情と意思を持つ風に出会えたとして、その時に僕はそれを見つけることができるのか?
いや、そもそもそんなものがあるのかすらも分からない。
おそらくここは外界のどこかなんだろう。けれど、もしかするとここも『箱』の中なのかもしれない。今まで知らなかっただけなのかもしれない。外界には風が吹いているということさえも、もはや確かなことじゃなくなってしまっている。なにを頼りにこの世界を見ればいいのか、それを考えるための頼りさえも。
彼女は食事を終えると、盆の上に指で円を描いて「頂きました」と言った。
鮮やかな朱だった窓はすっかり青暗くなっている。階段で眠りに入ったのはこのくらいの時刻だったか。
きのうのことだ。けれど、つい先ほどのことのように思える。
「んしょっとぉ」
彼女が立ち上がり、皿を積み重ね始める。
「なにをしているんだ?」
「なにって、片付けだけど?」
彼女が盆を持ち上げながら当然のことのように答える。
「ここでは放置すればいつの間にか消えていたりはしないんだな?」
これも彼女にとっては当然のことなんだろう。表情が語っている。
「まあ、ここはそうだね。けっこう古い施設だから、使う人が整備するってのが基本かな」
「そうか」
ここは、やはり『箱』じゃない。外界なんだ。
彼女の答えを彼女とは少し異なる視点で捉えて、断定した。
ようやくだ。確かなことが、ようやくひとつ。
「したことない?」
「……なにをだ?」
「いや、だから片付けをね、したことがないのかなって思ってさ」
「経験は無いな」
物体を規則的に積み上げたり、用途や使用頻度に応じて整理する。そのような行為は必要じゃなかった。使うものは探せば見つかり、使い終われば放り捨てていた。
「そっか。じゃあ、私が教えてあげよう」
彼女が胸を張り、それから南側の扉のほうへと向かう。僕も盆を持って立ち上がり、彼女に続く。
扉の先には別の部屋があった。南北方向に長く、突き当たりにはまた別の扉がある。無機的でかなり重そうだ。
右側の壁際には腰辺りの高さの台があり、手前にいくつか機器が置かれている。下部は収納棚というものだろうか。
「まあ、教えるって言っても、これに入れたら、あとはスイッチを押してしばらく待つだけなんだけどね」
彼女が蓋の開いた箱のような機器に手を置く。名前は分からないけれど、なにかの画像録で見たような記憶がある。
箱のような機器の中に盆の上の皿をそうっと置いて、蓋を閉める。スイッチは……ひとつしかないから、これを押せばいいんだろう。
「そうそう。なんだ、教えること自体が無かったね」
ふと、部屋の南の扉に目が向く。
向こうにはなにがあるんだろう?
「さてと、戻ろうか」
そもそも、もしも『箱』じゃないなら、ここはどこなんだ?
「君と話をしたいなってずっと思ってたんだよ。だいたいの見当は付くけど、だいたい止まりだからね」
あの扉の向こうにあるのは、違う部屋か、それとも――――
「その扉の向こうは、私とお話をしてから教えてあげるよ」
思わず彼女のほうへと振り返る。
彼女は背後の扉を右手で押さえている。待っているようだ。その相手は……僕しかいないな。
もう一度、南の扉を見やる。向こう側の気配すらも感じられない。
「分かった。話をする」
「うん。じゃあほら、おいで」
南の扉に背を向けて、彼女のほうへと向かう。
老翁との会話では時間を無意味に奪われて、目を覚ました直後に彼女とした会話は……いや、あれは途中から会話じゃなかったな。
けれど、今度こそは会話をしよう。きちんと会話にしよう。僕はもう、外界にいるんだから。