第16話 「さみしさの桜風」
南下を始めてからすぐに気づいたのは、見渡す限りに続いていたソーモン荒原の平坦な地平上に、少しずつではあるけれど、斜面や短草が増えてきているということだ。
雪塊も小さくなり、数を減らしている。その代わりに薄く延びて雪面となっているらしく、足音が粒立つ頻度は増えている。
「ねえアラシ」
「ん?」
「次のサイトって第一四?」
「そうだよ」
「うわぁ……やっぱたどり直すの?」
「変わりが無いならいいんだけど、この辺りはけっこう記録時期の違いと関連しているらしい変化が見られるからね。というか、これ確か前にも言ったよね?」
「言ってたけど、嘘だったらいいのにって思って」
「嘘で記録は取れないよ。こういうのは正確さと標本数が大事だし」
サイトは公私を合わせれば三〇〇以上ある。第一から第一四へと移るようだから、つまりソーモン荒原を抜けるのはおよそ二〇日後になるのかもしれない。
「……長いな」
「ん? なにが?」
アラシが反応し、チエもこちらを向く。
「この調子で進むとしたら、ソーモン荒原を抜けるのに一〇日以上かかるんじゃないのか?」
「えっ、いやいや、かからないよ。途中からは徒歩じゃないし」
「えっ」
「そうなのか」
チエも初耳だったのか、目を丸くしてアラシの顔を見上げている。
「あれ? 言ってなかった?」
「途中からってさぁ……だったら最初からでもいいじゃん……」
「だからダメだって。予定だと、第一四、第六二、第一七五まではきちんと観測しながら進むことになるんだから」
「えぇ……」
不満げなのは声色だけで、チエの表情はすでに諦めているように見える。
「その途中からはなにか別の移動手段を使うということか?」
「うん。ホンチョワン鉄道っていうのを使う……あっ、そういえばカームは初めて鉄道に乗ることになるのかな?」
「そういうことになるな」
僕の記憶の限りで、『箱』には鉄道が無かった。誰も軌道を用意しないから当然のことではあるけれど。
「チイどうせ乗るならソーハンからロウケン鉄道に乗りたかった」
「ロウケンはずっと地下を走るからダメだよ」
「ダメなのは分かってるわよ」
チエが目を閉じてわずかに頭を後ろへ逸らす。
「ソーハンのどこに鉄道駅があったんだ?」
「中央広場の地下にあるんだけど、地上部分はあんまり目立たないから見つけづらいよね」
「中央広場……」
「チイと一緒の時には中央広場に行ってないわよこいつ」
「あれっ、そうなの? じゃあ見つけるどうこう以前の話か」
アラシの言った予定から推測するに、今日を含めればあと四日でホンチョワン鉄道に乗るようだ。
「スーコンからホンチョワン鉄道でサンセンを経由して、メイユウ駅に着くまでがだいたい四〇時間と少しだね。だからまあ、チェルまでは五日か六日くらいで行けるよ」
地名らしき名詞がいくつか出てきたけれど――――
「アラシさぁ、いきなり地名を言って、地図も無しにパッと位置を把握できると思ってんの?」
「ん? チエは地図を覚えてるでしょ?」
「そうじゃなくて、ほら……そこのそいつが……」
チエがこちらから顔を背けて僕を指してくる。
「……あっ、そっか、そうだそうだ」
アラシが架空画面を起動して僕たちの前方に移動させ、なにやら操作をすると、画面に地図らしき画像が表示された。上部では青い領域と薄茶色の領域が曲がりくねった境界をなしていて、下部には巨大な砂色の領域が広がっている。下縁へと近づくにつれて砂色は赤みを増してゆき、少し太い帯状の境界でその濃さを極めてから、またわずかに薄らいだ色の領域が現れ、画面の下縁に到っている。
アラシは砂色の領域に打ってある数多の赤点のうち、最上にあるものを指した。
「ここがソーハンね」
アラシの指が下へと移り、ソーハンを表す点の近傍の点を指す。
「で、ここがさっきまでいた第一サイト。これが私たちの現在地ね」
“これ”と言ってアラシは第一サイトから少しだけ離れた場所にある青い三角形を指した。底辺の短い二等辺三角形で、底辺の対頂は画面の下方へと向いている。
「それで、これからたどってゆくのが……」
アラシが画面の手前に別画面を表示して操作すると、現在地より下方にある点のうち、三点が強調された。どれもほぼ進行方向上にある。
「この三つのサイトね。上から、第一四、第六二、第一七五」
アラシがまた別画面を操作する。今度は第一七五サイトから少し離れた場所に白点が現れた。
「スーコンはここにあって、第一七五サイトからはその日のうちにじゅうぶん行ける距離だから、サイト泊まりはここまでになるね。ここからチェルに着くまでは車中泊になるよ」
今度の操作で現れたのは、スーコンを表す点から下方へと伸びてゆく白黒の二重線で、ソーハンからスーコンまでをはるかに超える距離を伸び、帯状の境界近くで白点をひとつ打ち、さらにいくらか伸びてから、画面の下縁近くで終点を打った。
「それで、このホンチョワン鉄道に乗って、サンセンで乗り換えて、チェルにあるメイユウ駅に着く。これが今後の道程だよ」
説明が終わると同時に、各点の横に都市名や施設名が表示された。
「あれっ、いま表示するんだ……不具合なのかと思ってたのに」
「名前も出さないで点だけ見せても覚えらんないでしょ。アラシは相変わらずこういう操作だけはいくつか抜けるわよね」
チエが別画面に手を伸ばしている。どうやら名前を表示するよう操作したのはチエだったようだ。
「まあ、チエやカームの補助の余地を残してあげてるってことで」
「チイはともかく、今のこいつに補助ができるとは思えないわよ」
胸の辺りを細く突かれたような、幻覚。
「まあ、チエほどたくさんのことはできないよね」
確かにそうだ。これまでの振る舞いだけでも、チエがたくさんの知識と技能を持っているということは分かる。この世界で僕が担うことのできるものなんて、そう多くはないはずだ。
なにかを、もっと多くを、できるようになりたい。ならなければいけない。風旅をするために。その一員であるために。
「でもねチエ、私にとってはチエとカームの二人がいてくれることだけで、とっても大きな支えになってるんだよ」
アラシが僕とチエの肩に手を置く。チエはわずかに目を見開いた。
「私はもう、独りで歩くことはできても、独りで進み続けることはできない。でも、誰かがいれば、きっと続けられる。それが二人もいれば、またさらに進んでゆける」
「誰か?」
チエが不安げな目になる。
「そう、誰か」
言葉は冷たくて、けれど芯まで冷えきってはいない。そう感じる。
「最初だけは本当に誰でもいい。どんな出会い方でも、出会いさえすればいい。そうやって出会った人のうち、一緒に歩いて、進んでくれるようになる人は、私の及ばない力が決めるから。風旅に同行したいって言ってくれた人は今までにもたくさんいたけど、結局はこうしてチエとカームの二人だけなの。それって運命的で、だから今の私は二人ともが大切なんだよ」
並んで歩きながら、語られる言葉。やっぱり冷たくて、やっぱり冷たいんじゃない。
アラシの目を見た。わずかに見上げた。見たのもわずかだった。
それでも、確信できた。
「今は……大切なのよね……?」
チエはアラシから顔を背けて俯いている。
「うん。改めて言うのはちょっと照れるけどね、あはは」
「そう……だったらいい」
刹那、風が強まる。風の冷たさでは、チエがその刹那にまとった暗さを隠しきることができなかった。
いくつかの地点で記録を行い、カンパンと栄養液の昼食を挟んで時刻が一四時を過ぎた時――――
「あれって……コロソモンドッグじゃない?」
チエの指す先では、白毛の小さな物体が雪面をぞぞと動いている。
「あっ、ほんとだ。もうそんな時期かぁ」
カシャッという音が立って、アラシのほうを向くと、小型端末を物体のほうへと向けてなにやら操作をしていた。端末の画面に指が触れる度に、カシャッという音が立っている。先ほどの音もそれのものだったようだ。
「コロソモンドッグ……といったか。あれはなんだ?」
チエに訊いてみる。
「なにって……小動物?」
そうか、あれも動物なのか。
手足が短く、胴は丸々としている。俊敏そうには見えない。実際、這うように進んでいる様子などもかなりゆっくりとしている。
動物といえば、『箱』ではあまり遭遇しないものだったし、遭遇したくもないものだった。特に落ちたばかりのものはたいてい暴れまわっていたし、もしも見つかってしまえばたいてい襲いかかってきた。体格の大きいものが多かったし、動きも俊敏で、相手にするのはとても難しかったから、あのように無害そうな動物がいることには驚いてしまう。
ただ、僕にとってはこの世界で見る初めての動物だ。ここまででまったく見かけなかったというのは、今にして思えば意外に思う。けれど、かつて種類数も個体数も激減した時期があったらしいから、大昔の物語のようにたくさんの動植物を目にするのは難しいのかもしれないし、あるいは北方大陸や高楼大陸のこの辺りは少ないだけなのかもしれないか。
「近づいてみる?」
「……いや、僕はやめておく」
コロソモンドッグのことはよく知らないし、今ならまだ遠いから、できればこのまま通り過ぎたいところだ。
「そっかぁ、残念。かわいいんだよ? のぺーっとしてて」
コロソモンドッグはどこかへ向かってゆっくり進んでいる。仲間らしきものは見当たらない。
「それに、野生動物ってこの辺りにはなかなかいないんだよ」
「どうしてだ?」
「えっとね、この辺りは気温の年較差……一年の間での気温の差のことなんだけど、それが大きくて、しかも冬の寒さが厳しいんだよ」
「要するに冬は生き物がいなくなるってことよ」
生き物が、いなくなる。
こんなにも広い場所なのに。
「けどまあ、もうそろそろ寒季も終わる頃だし、越冬で南下してた動物たちが見られるようになってくるだろうね」
「冬眠……というのをする動物はいないのか?」
「多くはないかな。それに、そういう動物たちが出てくるのはまだなんだよ。ほとんどは今月の終わり頃で、遅いと来月だね」
ということは――――
「あのコロソモンドッグは、これから半月以上を自分だけで生きるのか」
「たぶんそうだろうね」
「そう考えると……なんだかちょっとさみしいわね」
あのコロソモンドッグがさみしさを感じるとは思えない。けれど、見ている人間にさみしさを感じさせている。
由来の無い関係だ。不思議な関係だとも思う。
「カーム」
「なんだ?」
「今、なにかこう……さみしさに近いものを感じてない?」
「いや……いや、いや?」
「なにをいやいや言ってんの?」
さみしさを感じているのはチエで、僕じゃないはずだ。僕はただ、チエやアラシが感じているかもしれない感情を推測していただけだ。もしさみしいと思っても、それは僕のものじゃないはずだ。
けれど、否定の言葉がこんなにも連なるというのに、定まらない。出てゆかない。
言葉が、突き上がってこない。
「うーん……じゃあ、えっと、『肌の表面に意識を集中する』ってきのう言ってたよね? それを今、やってみてくれる?」
「あ、ああ……」
きのうと同じように、集中を深めて――――
「あっ……」
「分かった?」
「ああ、分かった」
間違いない。風の感情がまた濃くなっている。それがなんなのか分かるほどまでに。
「チエなんかは昔から受けてたから慣れてるんだけど、それが桜風に溶け込んでいる感情のひとつだよ。まあ、まだ弱っちいけどね」
これは……さみしさだ。それも、離れ去る時に感じるものだ。
そう理解することができるのは、まさに今朝、それを感じていたからだ。第一サイトを発つ前に、ソーロに頷いてみせた時のことだ。
風は僕に感情を教えた。僕はそれをすでに知っていた。
いつの間にか、コロソモンドッグが雪面に紛れて見えなくなっている。




