第2話 「しるべの果てに」
探し物をしている。
特別なことじゃない。なにかを探したことは今までにもあった。けれど、ひとつの目的のもとでいくつもの探し物をするというのは、おそらく初めてのことだ。
探し物は、冒険用の装備一式。それを探すのは、“この『箱』を出て、風と出会いに行くため”だ。
『風の空白』には、この星の様々な土地に吹く多種多様な風と、そのあらゆる性質が記されていた。そのどれもが未知で満ちていた。久しぶりの未知だった。何度も読んだら、知識や現象としての風はいくらか理解することができたけれど、感覚は理解できないままで置き去りにされた。
そして、知った。世界には“感情と意思を持つ風”が吹いているということを。その風は、空白へ、疎へ向かって吹くということを。
自分がそういう風を求めているんだと確信したのは、最初にその記述を読んだ時じゃなくて、何度も読んでようやくのことだった。
願望が、欲が、生まれていた。生まれたものが、繋がっていった。
始まりは、風を自分の感覚に呼び込むこと。
それから、風に満たされる感覚を得ること。
そして、そのために外界へ行きたいと思った。
この『箱』から出たいと思ったのは初めてだ。
「……これでいいか」
胴と同じくらいの大きさのリュックサック。装備を運搬するのはこれを使うのが一般的らしい。
冒険の知識や必要な装備などは『風の空白』を参考に揃えている。ただ、『風の空白』には創作物語の要素がいくらか込められている、と著者は後書きに記していた。だから、できるだけ新しくて現実に沿っている情報を得るために、他の記録物も併せて参考にしている。
準備に関しては、『風の空白』がそれほど役に立っていないのは確かだけれど、だからといって『風の空白』を不要だとは思わない。記録物を捨てなければいけなくなっても、最後にまわすつもりだ。大事に守りたい。大事に守らなければいけない。今ではそう思っている。『箱』から持ち出して、物体ではなくなったら、僕のそばに置きたい。もう一度……いや、何度でもまた読みたい。ただ、今はもしかすると消えてしまうかもしれない。
だから、早くここを出よう。
「少ない……」
探し集めてリュックサックに入れていた装備を改めて確認して、率直にそう思った。これで必要なすべてが揃ったはずなんだけれど、予想よりもはるかに嵩が小さくて、とても軽い。乱雑に入れていたというのに、リュックの中には大きな空間が残っている。
前時代の記録では、冒険家の装備は自身の身体に匹敵するほどの嵩と重さになることが当たり前だということになっていた。今では装備の小型化や軽量化がかなり進んでいるらしいけれど、それでも『風の空白』には、装備の総重量が著者の体重の四割ほどだったと記されていた。著者は途方もない距離を踏破してきたそうだから、そのための装備なら量も嵩も増えるのかもしれない。冒険の目的によって変わるのなら、僕の装備は少なくないのかもしれない。
きっと、持ち運ぶものは軽いほうがいいんだろう。労力は少ないほうがいいと、歴史はずっとそう記してきている。けれど、なぜか僕自身はどうしてもそれをいいことだと思えず、もっと重いほうがいいと、なぜかそう思っている。
防寒着は考えうる限りの厚さのものを選んでいる。温度と湿度が寒暑湿乾のいずれでもない『箱』で、北方大陸の極寒を感覚として知ることはできない。想像だけを頼らなければいけないからこそ、極端にしたほうがより安全なんだろう。
「暑い……」
着てみて実感する。熱を逃がさないんだから当然だ。
それでも、これを着ていれば熱を失わない。熱が身体を満たしてくれる。熱を得てゆく感覚がある。僕はまさにそれを求めていた。
なんでもいいんだ。空白を満たしてくれるのなら、なんでもいい。その満足がもっと重く、強くなってくれたらなおいいというだけだ。
そんな欲や願望を叶えるためになにかを我慢することは、きっと美しくはないんだろう。けれど、だからといって醜いとは思えない。
外界へ出たい。『箱』から脱出したい。風を感じて満たされたい。重みが欲しい。熱を持ち続けていたい。どれもが欲と願望だ。僕は、つい最近に知ったそんな感情を、もう失いたくない。
「んっと……」
リュックサックを背負い上げる。出発しよう。そうしよう。
無数の物語に、幾度となく記された言葉。『箱』で生きる限り、必要とされることのない言葉。それを、今こそ言おう。
「行ってきます」
誰に向けるでもなく、返るものがあるわけでもない。
けれど、無駄じゃない。
僕が満たされるんだから、それでいいんだ。
数多の記録物によると、『果ての箱』の外形は途方もなく大きな立方体なんだそうだ。
伝聞になってしまうのは、僕が今まで一度も『箱』の側面を見たことがないからだ。底面から上面を見ることができるから、本当は立方体じゃないのかもしれない。ただ、『箱』では上下方向の視界こそ明瞭だけれど、縦横方向の視界は霧状の物質で遮られている。立方体である可能性は否定できない。
脱出するには、側面を登ることになるんだろうか。側面の材質と上面までの距離次第では、おそらくは最も可能性の高い方法だろう。登攀の練習は必要になるかもしれないけれど、なんらかの浮遊機を製作あるいは捜索したり、その使用方法を勉強するよりかは、短い期間で事が済むはずだ。
ようやく側面らしき灰色の巨大な壁が見えてきた。正面と右方に一面ずつだ。
「あ……えっ?」
けれど、次第にはっきりと見えてきた壁は、どうやらなめらかな面というわけではなく――――
「……段?」
正面に見えている側面に、右下の角から左上へと描かれている、段状の白線。最初は平面的で、まるで絵か模様のように見えていた。けれど、階段の始点に着くと、それが立体的な階段だということが分かった。
こんなものがあるとは知らなかった。投下されたら最後、決して出られないようにしているものとばかり思っていた。
なんのためにこんなものがあるんだろう?
いや、それ以前に――――
「どうして気づかなかったのか分からない、という顔をしておるな」
唐突な声に思わず振り向く。警戒するには弱々しさが過ぎるその声の主は、階段のそばでうずくまって揺れる、見知らぬ老翁だった。
「どうしてお前はここにいるんだ?」
階段は明らかに『箱』の上面へと向かっている。
「わしは遅すぎたのだ、カームよ」
「……どこで聞いたんだ?」
誰にも教えたことがないはずの名前。老翁を視界に捉えながら、ベルトに差しているナイフのケースに手をあてがう。
「名前を知られていることを気にする余裕があるなら、まだ時間は足りておろうよ。ほれ、お主の疑問、わしに訊けばよかろうて」
老翁は瞬きほどの間さえも目を逸らさない。
「これはずっとあったのか?」
逃避の感覚を無視しつつ、視線を階段に沿って斜めに走らせる。
「おそらくはな」
階段の行き先はすぐに見えなくなっている。
「だったら、お前と僕以外にもこれがあることを知っている人間がいるのか?」
「おらんな。少なくともわしが見つけてからは誰もこの階段に目もくれんかったよ」
くすみがほとんど無い白の階段は、側面が見えれば併せて見えるはずだ。それに目もくれないなんてことがあるんだろうか?
「どうして誰も知らないんだ?」
「それは分からんよ」
「まさか……見えてすらいないのか?」
「おそらくはな」
どういう理屈なのか、推測すらもできないけれど――――
「じゃあ、どうして僕はこれが見えているんだ?」
沈黙。唐突で、長く、長く。自分が老翁に尋ね続けていたということを気づかされ、途端になぜか後ろめたくなる。
そんな感情を悟っているかのように、老翁は低く短い笑いのあと、ほんの少しだけ表情に和やかさを見せた。
「お主はここを出るつもりなのだろう?」
「……ああ」
どうして知って……ああそうか、この冒険の装備と厚い防寒着を見れば無理なく推定できるな。
「もし出ることが叶うのならば、その程度の答えはお主の自力でも見つけられるようになるだろうよ。わしから答えをもろうたとして、それはお主が正解と思えないものかもしれん」
あぁ、なんだ、結局はそういうことなのか。
質問を促しておきながら回答を放棄するなんて――――
「……もうお前にくれてやる時間はないようだ」
「左様か」
その言葉を最後に、老翁はただ揺れるばかりになった。
老翁を見限り、階段に足をかける。コォン、と乾いた音が響いた。
段上にうっすらと積もる白い粉が、靴の周りで起こったわずかな気流にふわっと舞い上がる。この粉が階段を白く見せていたようだ。ほのかにだけれど、光っているように見える。照らすほどの明度はないけれど、階段の縁を示すくらいのことはしてくれるようだ。
それにしても……本当に旅立ちの一歩を踏んだんだろうか?
感傷めいたものがあるのかと思っていたけれど、そうでもない。記憶の始まりからずっと『箱』が僕の生きる空間だったからこそ、旅立ちの一歩は感情を揺すってくれるんだろうと思っていたのに。
まだなにかが変わったわけじゃないからだろうか?
見つけたのは道だけで、まだ目的地が見えないからだろうか?
なんにせよ、今はただ登ることしかできない。見える限りでは、段がまだ続いているんだから。
もしもどこかで段が終わっているとしても、そこへたどり着いた時に次の手段を考えればいい。登っている限りは、上面へ、そして外界へと近づいてゆける。
今の僕にとっては、この階段こそが願望だ。
「ハァ……ハァ……」
吐く息が白く見えてきた。上面へと近づいている証拠だけれど、点のように見えている投下口は、まだ白くて明るい。時間はあまり経っていないようだ。
もしかすると、実はまだそれほど登っていないのかもしれない。
立ち止まり、下方を見やる。
側面の灰色。段に積もる粉の白。あとは黒しか見えない。上方と同じように、数十段ほど下から向こうは見えなくなっている。その消失の境界の内側には、僕以外になにも無い。
たとえ意識することは無くても、底面では近くに物体がいくつも存在していた。だからなのかもしれないけれど、『箱』を意識したことがほとんど無かった。世界の外郭まで意識が及ぶようになっているのは、求めるものがあるからなんだろう。
再び上方に目を向ける。下方と違うのは、投下口が白点を打っているところだ。まるで僕のナビゲーターであるかのように、向かう先で白点は小さな光を見せ続けている。
冷えてきた空気を大きめに吸い込み――――
「んしょっと……」
リュックサックを揺すり上げて、また登り始める。
ナビゲーターがいる限りは、登り続けていられると思う。時間が経てば、あれらは次第に赤くなり、それから暗くなって、最後には小世界の外郭と同化してしまうはずだ。今はその時が来るまで一段ずつを積み重ねて、少しでも上面へ、外界へと近づいてゆこう。
小世界の暗遠な境界へと、靴音だけが響きゆく。もしもこの音があの境界を越えて『箱』の上面まで届くんだとしたら、僕の訪れは外界に告げられるんだろうか?
段に強く足を下ろしてみても、聴こえるのは足元から突き上がる音だけだ。去っていった音が返って来ないと、距離は分からない。もしも返って来たとしても曖昧にしか分からないんだろう。けれど、それでもまったく分からないよりかはいくらか好ましいと思う。
コォン……コォン……
静寂の世界だからこそ、音の輪郭が際立つんだな。
コォン……コォン……
ずっと聴いていたというのに、知らなかった。
「ハァ……んっ、ハァ……」
最後に立ち止まってから、どれくらい経ったんだろうか?
ナビゲーターは今にも消えてしまいそうで、身体は疲労に縛られようとしていて――――視線が足元に落ちた。
やってしまった。ナビゲーターから目を離してしまった。
すぐに視線を上げた。けれど――――
「…………」
ナビゲーターが消えてしまっている。視線を落としたあの一瞬は、ナビゲーターが姿を消すまさにその瞬間だったんだろう。
完全な黒の境界面を目の当たりにして、足が止まる。
さあ、これからどうしようか。
そう考え始めるはずだったけれど――――
「あ……っ……」
足が力を失い、側面に身体を擦りながら座り込んでしまう。
ナビゲーターの不在を理由にして、立ち止まるつもりではあった。けれど、これほど疲れているというのは想定していなかった。
リュックサックのベルトを肩から外して、背中を側面に預ける。次第に全身が力を失ってゆくなかで、リュックの中から茶けた毛布をなんとか引き出して、肩までくるまる。
眠りから逃れるのは、どうやらここまでらしい――――――――
「ん……つっ……」
右の腕と肩に、腰も痛い。背中は側面に預けたままだ。寝返りをしなかったようだな。
リュックから給水器を取り出し、口内に水を叩き込む。
「んはっ……ハァ……」
口元にこぼれた水を腕で拭い、ナビゲーターは見えるだろうかと見上げた視線の先で――――階段の終点が外界に消えている。
「っ!?」
眠る前には気配すらも無かったはずだ。けれど、そう遠くはない距離に、それは確かに存在している。
眠気はたちまちに消え去った。リュックを掴み、再び階段を登り始める。駆けながら毛布をしまい、リュックの口を閉める。
足が軽い。装備も軽い。今は軽いほうがありがたい。
「ハッ……ハッ……」
心臓が拍動を速めてゆく。渇きを感じる。身体が重たくなる。
けれど、今この瞬間は、外界を夢見た時の高揚感を超えてゆく。
「はっ……ははっ……ははははっ!」
抑えきれなくなった笑い声が、苦しみにもがく肺を痛めつける。もう呼吸ができているのかすらも分からない。
けれど、大丈夫だ。
かすかに朱の差す夜明けの空が、こんなにも大きく見えているんだから。
駆ける勢いそのままに、僕は『箱』を脱出した。
「あ……あぁ……」
夜明けの大氷原で出した嘆息が、よろこびを一片も宿さない。
風が初めて肌に触れた瞬間に――――思い知る。
自分が本当に風を知らないということを。その、冷厳な意味を。
「あっ、ああっ、うああっ、ああぁ……」
冷たさと鋭さが、僕の想像をはるかに超えて、感覚をすり潰す。
あらゆる方向へと身体は煽られ、寒さを叩きつけられる。
まるで敵意が氷の矢となって僕を貫こうとしているように思える。
寒い。苦しい。痛い。痛い……
やって来て、やって来て、やって来る。奪い、煽り、刺し貫く。絶え間は無い。安楽の気配も無い。期待も圧し潰される。
「ああぁぁ……ぁ……」
望んだ世界は、確かに存在した。
けれど、望んだものは存在していない。
意識が厳寒の暴風に吹き消されてゆく。抗おうにも、その方法を知らない。抗っても苦しむだけ……あぁ……そうだったのか。
向かい来る未知の脅威に立ち向かう勇気を、備えておかなければいけなかったのか――――――――