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誰よりも軽やかな風  作者: 雪原たかし
第2章 『高楼大陸にて』
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第10話 「蒼帆の町」

 準備が終わったら操舵室に集合するよう言われたけれど、僕にはあまり装備の類が割り振られていなくて、操舵室に着いたのは僕が最初だった。

「ふぅ……」

 疲れたわけでもないのに、ため息が出る。

 きのうと同じような空。

「おまたせ……って、チエがまだか」

 アラシが登ってくる。チエとアラシは居室を共有しているというのに、一緒には来ないのか。

 あ、そうだ――――

「なあアラシ、訊きたいことがあるんだ」

「ん? なあに?」

「“サイト”というのはなんだ?」

「ああ、知らなかったの?」

 アラシが船首のほうへ移動し、港湾に面する斜面の縁を指す。

「あの尾根の向こうにはね、ソーモン荒原っていうひたすらに広い平原があるんだよ。それで、ソーモン荒原に点在してる無人管理の宿泊拠点のことをサイトって呼ぶんだよ」

「そこは風旅で立ち寄るのか?」

「立ち寄るよ。というか、サイトをたどりながらチェルまで向かう予定なんだよ。途中まで歩きでね」

「えっ、徒歩なのか?」

 チェルは高楼大陸の中央部に位置しているから、大陸の周縁部に位置しているソーハンからだと、それなりに距離があるはずだ。

「うん。『風の空白』でも書いてたでしょ? 空路を使えばすぐに行けるんだけどね」

 確かに、『風の空白』では風旅の移動方法のほとんどが徒歩だと書かれていた。レイメトゥーラの掟では“自然の力が主たる原動力として作用しないものを移動手段にしてはならない”と定めているらしい。

 けれど、それなら――――

「レイメバナンは掟に反しているんじゃないのか?」

 レイメバナンの原動力を担うエタニウム機関は自然の力じゃないはずだ。

「あっ、気づいた? まあ、レイメトゥーラの掟って、守ってたらなんにもできないんじゃないかってくらい堅いし、いくらかは破るくらいでちょうどいいんだよ」

「……いいのか?」

「いいんだよ。私だってレイメトゥーラなんだから」

 その言葉を信用しようと思えないような表情をしていることに、アラシは気づいているんだろうか?

「徒歩に限るという掟は破らないのか?」

「前にも少し破ったことはあるけど、そもそもわたしは歩くことが好きなんだよ。あと、べつに移動手段は徒歩に限られてるわけじゃないよ」

「そうなのか?」

「自然の力には人の力も含まれるから、たとえば自転車を使ってもいいんだよ。あっ、そういえばカームは自転車に乗れるの?」

「確かに分からない」

 単純な構造の原動機を持つ二輪車なら、『箱』で見かけたことも使ったこともあるけれど、おそらく勝手がいくらか違うはずだ。

「えっなに、あんた自転車乗れないの? 本気?」

 チエが前触れ無くハッチから現れた。

「あっ、暴走少女」

「やめてよそのアホっぽいあだ名。あいつら思い出しちゃう」

「たぶんあの子たちはまだ忘れられてないと思うよ」

 チエは操舵室の床面に飛び乗るようにして梯子を登り、ハッチをつま先で器用に引っ掛けて勢いよく閉めた。音と床面の振動とが、身体を軽く震わせる。

「ちょっとチエ、それやめてっていつも言ってるでしょ」

 アラシが肩をそびやかす。

「『いつも』って、この船に乗ってハッチ閉めた回数なんて、両手使ったら余っちゃうくらいでしょ」

「あっ、知ってる? 両手って――――」

「一〇よりはるかに大きい数を表せる、でしょ?」

「あれっ?」

「何度も聞かされたってえのよ」

「あっはは……まっ、まあ揃ったし、出発しようよ」

 ガチッと施錠音。今回はアラシではなくチエが操作していた。

 アラシの話から推測するに、これからシャンゴンに着くまでは、レイメバナンに戻らないようだ。ということは、せっかく慣れたと思えた空間が遠くなり、慣れは消えてゆくんだろう。それを思うと、近い過去の感覚が呼び起こされた。

 そうだ。言葉は突き上がる。

 さみしい。そうか、今は、さみしいんだな。




 港湾区画を出て、町内区画を進んでゆく。時刻は一一時辺りで、おそらくは人々の活動が最も活発な時間帯だろう。現に通りは人が多くすれ違い、そして誰もがなにかを目的にして道を選んでいる。

 僕たちだって目的を持ってこの通りを進んでいる。ただ通り抜けようとしているというのも、目的と呼べるはずだ。軌跡はソーモン荒原のある尾根向こうへと伸びてゆく。視線だけがあちこちへ動き、きのうとは違って市場に鮮魚が見られることや、中心部から外れた区画に家具工房がたくさん並んでいるのを見取る。

「ねえアラシぃ」

 前を歩くチエは、アラシの腕に抱きついている。とは言っても、身体の小さいチエは装備のリュックサックに隠れがちだ。それでも振る舞いが分かるのは、経験が少し積まれたからなんだろう。

「ん?」

「やっぱさぁ、航空機で行こうよ。すぐ近くに空港もあるんだし」

「いや」

 アラシが頭を反らし、つむじが見える。

「サイトって“旅が人生です!”って言いそうなやつばっか集まるじゃん。もう絡まれんのはうんざりなんだけど」

「チエはそこまで絡まれてなかったでしょ」

「頻度とか相手がどうこうじゃなくて、まず絡まれたくないのよ。そもそもレイメトゥーラだってことを隠せばいいのにさぁ」

「それも風旅だよ」

「あっ、嘘だ」

 ああ、確かに嘘だな。

「えっ、なんで?」

「だってアラシより前のレイメトゥーラたちって正体を隠しながら風旅してたって言ってたでしょ」

 それは僕も『風の空白』を読んで知っている。

「いや、確かにそうだけど、レイメトゥーラということを隠してただけで、風を研究してるってことくらいは明かしてたらしいよ」

「えっ、じゃあ不思議な人扱いされてたってこと?」

「たぶんそうなんだろうね。“風の感情を調べてるんです”なんて言われてもわけが分からないだろうし」

「今でも変人扱いする人はいるけどね」

「それでもきっと昔よりは自由で楽な旅路になってるよ、きっとね」

 赤練の家屋がまばらになってきた。通りの傾斜が大きくなる。

「今日あんまり寒くないんじゃない?」

 チエが右手を挙げて握ったり開いたりする。手袋をしていない。

「どうだろうね。まあ、少なくとも北方大陸よりは寒くないかな。カームはどう思う?」

 アラシの顔がこちらへと振り返る。チエはアラシの顔を見上げた。

「……あっ、えっと、確かにきつくはないな」

 危うく訊かれているんだということを忘れるところだった。

「なに? これってチイへの当てつけ?」

 どうしてそう思うんだ?

「カームが“どうしてそう思うんだ”って顔してるよ」

「……面倒だから教えてやんない」

「意地悪だなぁ」

「アラシがね」

 自分ひとりで答えを出せそうにはないけれど、考える時間なら、たぶんたくさんあるはずだ。

 尾根線はほとんど見上げなくてもいいくらいまで近づいている。

「よし、この辺りかな」

 アラシは唐突に後方へと振り返った。チエもつられてこちらへと身体を向ける。なにをしているんだ?

「カームも振り返ってみて」

 言われたとおりに振り返って――――

「あっ……」

「どう? こういう景色って『箱』には無かったんじゃない?」

 確かに、そのとおりだ。

 斜面からソーハンを見下ろす。船上や港湾区画、町内区画で見た姿とはまったく異なっている。すべてが遠く、小さい。あの人並みさえもがささやかなものに思えてしまう。見つめるほどに、自分が斜面に立っていることを忘れそうになり、身体が引かれて思い出す。

 距離をとり、登り、見下ろす。とても簡単にできてしまう行為だ。けれど、こんなことをできる場所は『箱』に無かった。あの階段は視界を狭く限っていたし、物体は高く積み上がる前に消えてしまうのが常だった。

「ただの小さい町でしょ」

「ソーハンはそれなりに大きい町だよ。高楼大陸の北部で行政府がある町ってソーハン以外にふたつしかないんだから」

「町の広さは大したことないじゃん」

「それは……まあそうだけど」

 それがなんだというんだろう。

 僕はあそこにいた。あそこには未知があった。未知に満ちていた。それが今やあんなにも小さい。指を揃えて目前にかざせばたちまち隠れてしまう。重力に身体を引かれて、光景に心を惹かれている。風がもたらすものじゃなくても、僕はこんなにも満ちている。

「いいな」

 短く出た言葉。

「あっそ」

 チエの言葉に否定は無い。今までの言葉の中では、もしかするといちばん優しげかもしれない。

 アラシは無言だ。認めているということは雰囲気が伝えている。

 力むつま先。それに気づいて、自分がこの誘引に抗っているんだということを知る。その理由は、もう知っている。

 くるりと振り返り、アラシとチエの横を抜けて、ほんの数歩ほど。

 そうだ。僕は向こうへ、先へと進みたがっているんだ。

「これがソーモン荒原か」

 尾根線をまたいだ向こうは、先ほどまでよりもゆるやかな斜面が下方へ伸び、境界も曖昧に荒原が始まっている。ただ広く、彩度に乏しく、動きも無い。まさに荒れた原だ。

「ソーモンは木白語で“蒼い門”という意味なんだよ。ソーハンは“蒼い帆”という意味なんだけど、でもまあ――――」

「“どこに青があんの?”って言いたくなるってえもんよね」

 アラシとチエが追いついて、僕の右側に並ぶ。

「空は青いじゃないか」

 ……あれ? 言葉が返ってこないな――――

「ん?」

 右を向くと、アラシとチエがじいっと僕を見つめていた。

「なんだ? どうした?」

「いや、あんたってそういうこと言えるんだっていうか、あんたに言われるなんてっていうか……」

 チエの口調から鋭さが失せている。

 これは……なんだ? どういう状況なんだ?

「なにかまずいことをしたのか?」

 ようやくアラシが我に返る。

「あっ、いや、そうじゃないよ。むしろ、とっさにそういうことが言えるなんてすごいなって思っただけだから」

 確かに、なにかの意図を持って出した言葉じゃなかった。けれど、なにがすごいのかは分からない。それと、チエの言った“あんたに言われるなんて”というのもよく分からない。

「そっか、空のことだったのかもね……」

 そんなことを呟きながらアラシが再び歩き始める。チエも曖昧な表情のままでそれについていく。遠ざかるアラシたちの背を見やり、一瞬だけ空も見やってから、僕もそのあとを追って斜面を下る。

 こうして、僕たちはソーハンを発ち、地平の彼方にあるチェルを目指して、新たな風旅を始めた。

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