第9話 「思考の深みに」
「ほんとに起こさなくていいのこれ……」
そんなささやきを聴くのと同時に目を覚ます。まぶた越しに差す白い光が眩しい。
「てか、そもそも今日はいつ出発するのかも決めてないじゃない。どうなってんのよまったく……」
目を開けると、チエが背を向けて扉を開けようとしていた。
そういえば、起きた時にもあいさつがあったな。
「おはよう」
「きゃっ」
チエが飛び跳ねる。半身になってこちらを窺い、僕と目が合うと背筋をまっすぐに直した。
「ちょっと、起きてるならさっき言いなさいよさっき」
目つきが鋭い。
「起きてすぐに言った」
「じゃあ黙っててよ」
そこまで細かく場合を分けられても対応できない。
というか――――
「昨晩のお前は……お前だったのか?」
「昨晩? えっ、なに?」
「昨晩は、その、なんというか……」
「なによ?」
この反応は……どういうわけだ?
「……なんでもないのに気まぐれで呼び止めないでよ。ていうかね、あんた寝すぎ。一〇時まで寝てるとか幼児じゃないんだから」
「一〇……えっ」
時刻窓を確認すると、確かに一〇時一三分を示している。
「もうチイたちは先に朝ごはん食べたけど、あんたはどうすんの?」
「どうするって――――」
「まあ食べるでしょ。ちょっとここで待ってて」
「えっ、どうして――――」
「あっ、あんたって朝ごはんたくさん食べるほう?」
「えっ、いや――――」
「あっそ。じゃあそういうことで」
チエが背を向ける。
「おいちょっと――――」
バタンッ。
チエは勢いよく扉を閉めて去っていった。
「早いな……」
言葉の意味がひとつに定まらない。
数分ほどで戻ってきたチエは、左脇に盆を抱え、その上に小箱と丸皿とを載せていた。小箱のほうは食料庫で見かけた気がする。
「朝ごはんのメニュー教えてあげるから、ちゃんと覚えてよ」
チエが机の上に盆を置く。食料選びがままならないとアラシから聞いたんだろうか?
「統一系の言葉と文字は普通に使えるみたいだし、名前くらいなら読んで分かるでしょ?」
「ああ。その小箱は……“カルノック”か」
「そうそう。食感とかは軽くて、でも栄養的には十分っていう万能糧食よ。箱にミルクを入れるのが本当の食べ方なんだけど、意外とそのままでもいけて……ってまあ、これはそのまま食べるんだけど」
チエがポケットから小さなナイフを取り出し、小箱の上面と側面との繋ぎ目に突き刺す。見た目よりも柔らかいようで、すんなりとナイフの刃が入ってゆく。
「こうやって上を切って開けて、中に入ってる小さいスプーンだけ出しといてからミルク……って、だからこれはミルク入れないやつだってえのよ」
声に苛立ちが混じる。どうやら僕に向けたものじゃないようだ。チエ自身に向けたのか?
「まあとりあえず、今日はお皿の上に出しとくから、適当に食べて」
チエが小箱の上面を切り抜いて、丸皿の上で傾けると、大麦色の薄い小片がこぼれ出てきた。これがカルノックのようだ。
「それくらいなら自分でもできそうだな」
「ひとっつも調理してないんだから当然でしょ」
チエが丸皿を持って僕の前に突き出す。
「チエは調理ができるのか?」
丸皿を受け取りながら訊くと、チエは表情を曇らせた。
「うーん……凝ったものはできないけど、それなりにはまあ」
「アラシはどうなんだ?」
チエの表情に明るさが戻る。
「めちゃくちゃ手際がいいわよ。あとはね、すっごくうれしそうに調理するかな」
「うれしそうに……というのは?」
「あっ、スプーン渡すの忘れてた。えっと、これで合ってる?」
チエは唐突にそう切り出すと、盆の上からスプーンを取って差し出した。砂紋の柄。確かにきのう選んだ僕の食器だ。
「ああ、これで合っている」
「えらく地味なやつ選んだのね」
アラシに訊いたんだろうか?
「……って、なに訊いたんだっけ?」
「アラシがうれしそうに調理するというのがどういう様子なのか」
「ああそうだった。えっとね……ああ、食べてていいわよ」
チエが僕の手元を指す。食べながら聞いてもいいということか。効率が良さそうだし、そうしよう。
「食材を選ぶときからしてもう楽しそうなのよ。『君は新鮮だね』とか『おいしい。間違いなくおいしいよ』とか言いながら買うから、けっこう白い目で見られんのよね」
“白い目”……直視しないということか?
「それで買ったら買ったで帰り道でも食材に話しかけるし、帰ってからでもまだ話しかけてるから、もしかしてそのまま調理しないで置いとくんじゃないかって思っちゃうんだけど、いつも急に調理を始めるのよ。話しかけ続けてね」
「とてもたくさん喋るんだな」
「調理中以外だと普通なのに、調理中だと倍くらい喋ってるわね。食材を褒めまくって、ついでに調理がうまくいったら自分のことも褒めてる」
「自分を?」
「そう。『さすがのアラシ! 見事な焼き上がり!』とかね」
自分を褒めるという感覚自体は理解できない。けれど、アラシがそんなことを言う様子は、なんとなく想像できる。
「食べる時にもうれしそうというかおいしそうというか……って、もう食べ終わったのね」
「えっ、ああ」
いつの間にかカルノックを食べ尽くしていたようだ。
「味わうって考えは無いわけ?」
「味ならしっかりと感じていたぞ。それと、お前が言っていた軽さとやらを理解できた」
甘かったけれど、カラリとしていたからすんなり食べ進めることができた。なんとなくだけれど、カルノックらしきものを『箱』で食べたような気がする。覚えのない味という感じがしない。
そういえば、昨晩の夕食の味が思い出せない。確かに摂ったはずなんだけれど。あの混乱のせいなんだろうか。
「あっそ。まあ、ちゃんと味わうならアラシはなにも言わないか」
「味わわなかったら、なんて言うんだ?」
「言うというか、無理強いされるわね」
チエの目が遠くなる。あの小屋であったようなものなんだろうか。もしそうなんだとしたら、あの時は味が分からなくなってしまっていたから、逆効果な気がするけれど。
ただ、味わうということに関しては、以前からやっていたことだ。単独では足りないにしても、食料の危険度を推測する要素のひとつだったからだ。
「さてと、じゃあ次は器洗機の使い方ね」
「それは知っているぞ」
「あ、そうなの? じゃあとりあえずそれ片しに行くわよ」
チエが盆を持ち、僕のほうへと突き出す。持てということか。
「あっ、持つのね」
盆を受け取ると、チエが意外そうにそう言った。
「えっ?」
「いやさ、別にお皿だけ載せればよかったのにお盆ごと持ったから」
反応を見る限りでは、どうやら悪いことではないようだ。
「あっ、食堂に入ったらできるだけ静かにするのよ」
「それはどうしてだ?」
チエが背を向けながら扉の把手に手をかける。
「今は集中してるからよ」
ほんのわずかに見える横顔だけでも、チエの表情が明るくないということが感じられた。
食堂へ入ってすぐに、チエの言っていたことの意味を知った。
きのうの比ではない量の紙と資料を長机の上に広げ、一心不乱に紙へなにかを書き連ねては、払い捨てるようにして脇へと追いやる。目線は紙上だけに向き、せわしなく動きまわっている。
「あと数分ってとこだから、器洗機のスイッチを入れるのは待って」
声を潜めるチエに、「分かった」と僕も声を潜めて返す。靴音は消しようがないけれど、それでもできるだけ小さな音で済むようにゆっくりと歩いて、調理スペースのほうにある器洗機へと近づいてゆく。
ただ、どうしても目線がアラシのほうへと向いてしまう。
思考は紙上に集中していて、さらに深まってゆく。ペンの走る音は不規則だけれど、なんだか心地よい。整っていない字体さえも、なぜか美しいように思えて――――
「ちょっ、前見て! 前!」
抑えながらも強く飛んだ声。とっさに向いたのは――――背後にいるチエのほうだった。
「危なっ!」
その声を聞いて、チエが駆け寄ろうとしているのを視界に捉えた瞬間――――ゴンッと左肩に重い衝撃が伝わった。
「うっ!?」
崩れる体勢。けれど、一瞬早くチエの支えが間に合った。
「ちょっ、軽っ! えっ、あんた……えぇ?」
軽々と押し戻しながらチエが困惑する。どうやら壁から突き出ている機器のひとつにぶつかったようだ。
「てか、前を見なさいよ前を。なんでもないところでぶつかるとか、外でやられたらバカみたいに見えるでしょ」
「すまない」
「ほんっともう……」
ひと呼吸を置いて、チエと同時にアラシのほうを見た。変わらず集中している。邪魔にはならなかったようだ。
とりあえず、丸皿を器洗機に――――
「っ……」
動きが、止まる。
刺々しいチエと幼いチエは見てきた。けれど、いま目の前にいるチエはそのどちらとも違って、恐ろしくなるほどに暗い。
これは……きっと欲だ。それも、負に寄ってしまったものだ。
チエは本当にひとりの人間なんだろうか?
この暗さ、この欲を生み出しているのは、いったいなんだ?
けれど、ほんの数秒でそんなチエは名残ごと消え失せ、気づけば刺々しくも明るいチエになっていた。
「なにぼうっとしてんの?」
「えっ、ああ……」
ふとした瞬間に忘れてしまいそうなほどに、一瞬だったあの表情。けれど、忘れてはいけないような気がする。僕があの表情に感じたものは、きっとそういう類のものだ。
「とりあえずそれ入れて」
チエが僕の持つ盆を指し、器洗機のほうへクイッと指先を向ける。言われたとおりにして、スイッチ……はまだ入れないんだったな。
「たぶんもう一分と保たないから、ちょっと待つわよ」
「あ、ああ……」
そして確かに、アラシは数十秒ほどで集中を解いた。
落とすようにしてペンを手放し、長机にバンッと手をつく。
「ふうぅ……」
大きなため息をつくと、僕とチエのほうを見やって微笑んだ。
「おはようカーム。早くないけどね」
「おはよう」
アラシが机上の紙を手早くまとめてゆく。
「チエにはありがとうだね」
「えっ、なんで?」
「カームに教えてあげてたんでしょ?」
「ちょっ、集中してる時って周りのこと見てないんじゃないの?」
「うん、見てないよ。だからさっきのは誘導」
「うっわ、そういうことする?」
アラシが面白そうに笑う。チエは苦い顔だ。
「まあ、それはさておいて」
「さておかないでよ、ねえ――――」
「予定どおり、サイト経由でチェルに行くから、シャンゴンに着くまで不要なもの以外の荷物をまとめてくること。いい?」
「『予定どおり』って、そんな予定聞いてないんだけどぉ!」
チエが驚嘆するのを見て、アラシがまた面白そうに笑う。
シャンゴンは高楼大陸の南端にある都市、チェルは中央部にある大陸最大の都市だったか。けれど、“サイト”がなにを指すのかは分からない。“経由”と言っていたから、地名の類だろうか。
「カーム」
「なんだ?」
振り向くと、アラシはまたまた面白そうに笑っていた。
「ぼうっとしてたらチエのほうが先に準備終わっちゃうよ」
いつの間にかチエが食堂から消えていた。




