第4話 「未知であるから」
アラシが老翁に食事の代金を払い――――それを見るまで、僕は金銭の存在を失念していた――――僕たちは店を出た。
アラシが小型端末を取り出して、どこかと連絡を取り始める。
「はい……はい、そうです……あっ、もうそちらに通知が……それなら大丈夫です……はい、ありがとうございます……そうですね、そのように変更しておいてください……はい、到着港はシャンゴンのままで……はい、それでは……」
連絡を終えると、アラシは僕のほうへと振り向いた。
「カーム、これからレイメバナンで面会するバンホウという人は、さっきまでのチエよりも相当冷たい態度で接してくるはずだから、無理はしないこと。いいね?」
「ちょっ、チイをそんな比較に使わないでよ!」
チエが肩を尖らせる。
「ああ、分かった」
チエよりも冷たいとは、どれほどのものなんだろう?
ただ、どうもアラシは心配をしていなさそうだ。
レイメバナンに戻ると、時刻は一三時ちょうどになっていた。
「で、府長のオヤジはいつ来るの?」
「ここにいるのだが?」
「チエ、後ろ」
チエと同時に僕も後ろを見ると――――
「あっ……」
「やあナカタ。『府長のオヤジ』とは私のことか?」
チエの背丈を複製して、身体に厚みを加え、性別を変え、機嫌の悪い時に表情を固めてしまったんじゃないかと思ってしまうような男がいた。
彼がバンホウだろう。確かにチエといい勝負になりそうだ。
「私は三一歳だ。オヤジと呼ばれるような年齢ではない」
「えっと……ごめん」
チエが意外にも謝る。バンホウのほうが立場は上のようだ。
「さて、彼が面会予定変更の原因となった者か?」
バンホウは僕のほうを見ながらアラシに訊いた。やや下方からの視線が緊張を煽る。
「それも含めての報告であると認識しておりますよ」
アラシは鍵を解いてハッチを開けた。
食堂まで降りると、アラシはバンホウを奥のほうの席へ案内し、僕とチエをその向かいに座るよう促した。僕がバンホウの正面で、僕の右側にチエ、左側にアラシが座る。
バンホウは短くため息をついてから、切り出した。
「さて、貴殿からの要請で、一応はこちらでも彼のことを調べたのだが、カーム・ウェストロイズは記録上に存在しない人間だという結論が出た。そこで訊くが、ハミル氏は彼が何者であるのかを把握しておるのか?」
三人の目が向けられる中で、アラシが口を開く。
「カームは人間です」
アラシは澄まし顔だ。
「それだけか?」
「『果ての箱』から自発的に出てきた唯一の人間です」
「……冗談はよしてくれないか」
バンホウは少しも笑わない。
「北方大陸への進入は、合法・違法を問わずにすべて記録されるのですから、記録上に存在しないのであれば、最も可能性が高いのは“未開の領域”であると、そう考えたまでのことです」
「…………」
バンホウは右手を左肩に当てながら考え込んだ。
「これ、チイがいる意味無いよね?」
チエが長机の上に顔を寝かせる。
「いや、チエにも関係のある話になるよ」
チエの表情は晴れない。信じていないようだ。
「『果ての箱』への進入も彼を理由にするということか?」
バンホウの問いに、アラシが視線を戻す。
「それについてはただの直感でした」
「……直感と言ったのか?」
「はい、直感です」
バンホウの表情はすでに不機嫌が極まっている。雰囲気にさえも行き場がないほどに。
どうも悪い気配を感じるけれど、大丈夫なんだろうか?
「ハミル氏よ、いくら貴殿が高名な冒険家であろうとも、『箱』へ踏み入る許可を持たぬ以上、立ち入りは禁じられるのだ。貴殿とて理解しておろう」
「はい。前回と違って、今回は行政府側のご配慮によって単独での調査を認めていただきながら、このような不義理を働いてしまい、深く反省しております」
アラシが立場を落としている状況は初めてだな。
「ただ、私に働いた直感は、こうして人類の英知の及ばない存在を見出しました。これは間違いなく風の導きです」
アラシが僕の肩に手を置いて……ん?
「……具体的には彼をどういう存在であると認識しているのだ?」
「お答えする前に尋ねますが、バンホウ氏は『北方大陸未確認物体調査隊報告書』をお読みになったことはありますか?」
「ああ。原物を読んだこともある」
「それなら話が続きます」
知らないものだ。様子を窺う限りでは、チエも知らないようだ。
「内部に進入した調査隊員のすべてが“脱出する意思さえも滞る”という絶対的な停滞の世界が『箱』の内部に存在している。結論はそのようになっています。報告書の発行以降にも、非公式で調査が行われた形跡がありますが、例外無く“内部に進入した人間は自力での脱出が不可能となる”という結論に到ります」
「貴殿は独力でその結論に到ったのか?」
バンホウの目が見開かれる。
「はい。ですが、それは重要ではなく、『果ての箱』の発見以降、つい数十時間前まで『果ての箱』の底部から自力で脱出した人間が存在しなかった、ということのほうが重要です」
「ウェストロイズがそうであると?」
「はい。だからこそ、カームは極めて特殊な存在で、私にとってはこの上なく貴重な標本なのです。その貴重さは、なにも私においてのみ当てはまるものではないと、そう考えています」
少しだけ、目前で進行しているアラシの論の運び方が分かった。僕の存在の特異性を強調して、規則違反の罪を少しでも軽くしようとしているんだろう。
「ねえ、やっぱりチイがいる意味ないでしょ」
チエはもはや長机に張り付いてしまっている。チエの言うとおり、話がチエに関係してくる兆しは無かった気がする。
「いやいや、ちゃんとあるんだってば」
「だったらさっさとそうしてよぉ……」
チエは天板と同化してしまいそうだ。
「貴殿はウェストロイズを預かるつもりか?」
「はい」
どこまでも潔い返事。
けれど、バンホウの表情は和らぐ気配が無い。
「貴殿はすでに“準式保護士資格”を保有しているが、準式で認可されるのは一名のみだ。仮にウェストロイズが重要保護対象に指定されたとして、現時点では貴殿にナカタとウェストロイズの二名を保護することはできない。これは理解しておろう」
「はい、把握しております」
「ならば――――」
「ですから、カームの重要保護対象指定に要する数日間で、必要となる“正式保護士資格”を取得する予定です」
「そのようなこと――――」
「社会的実績は要件を満たしていますので、あとはそちらが試験等によって私の適性を判断するだけです。数日内での正式資格取得は可能であると、私は確信しています」
「うむ……」
アラシが立場を落としている、というのはどうやら勘違いだったようだ。むしろ本当はアラシのほうがいくらか上で、アラシは言葉遣いによってバンホウと対等になるよう配慮していたんだろう。
だからといって、バンホウが非力なのかというと、そういうわけではないはずだ。きっと僕よりも強く正しい人間だろうから、軽く見てはいけない。
「ハミル氏、それにナカタ、五分ほど外してもらえないだろうか」
ややあって、バンホウはそう切り出した。
「承りましたが、カームに過度の負担を強いないよう、お気をつけください」
アラシが席を立ちながらバンホウを見据える。
「ああ、留意しよう」
チエも「結局チイがいる意味無かったじゃん……」と呟きながら席を立ち、二人は食堂から去っていった。
バンホウが咳払いをする。それだけのことでも身体が強ばる。
「さて、ウェストロイズよ、君にはいくつか尋ねたいことがある」
差し向かいの尋問。誰の手も借りることができない状況だ。
「ひとつは、君が『箱』で生活するようになる以前の記憶を持っているかどうかだ。これは君の出自に関する手がかりとなる可能性のある事項なのだが、どうかね?」
「無い」
「思い出そうとしたことは?」
「何度かはある」
過去の記憶を探そうとする度に、その遡行は不意に断ち切られてしまう。何度も断絶を繰り返すうち、過去は僕の中で意味を失った。それは、自分の出自や、性質の由来に対する興味を失うということでもあった。
今もそれは変わらない。無くて元々だと思っている。
「ではもうひとつだが、君は自身を人間であると認識しているか?」
「ああ」
「それをはっきりと認識するようになったのはいつから?」
「数日前か。『箱』の底で、外界へ出ようと決めた時に」
そうだ。僕はあの時に欲を知って、だからこそ人間であることを明確に認識できた。
今の僕の欲。それは、風を知ること。風を感じること。
じゃあ、そんな欲にとって、この尋問はどんな存在なんだろう?
「では最後に、君はひとりの人間として、この世界でなにを願う?」
「それは……自分の願いを言えということか?」
「そうだ」
その答えはすでに存在している。つい先ほど考えに浮かんでいたものなんだから。
言えばいい。目の前で僕の瞳の中心を射抜くように見据えているバンホウに向かって、僕の欲を晒し、突き出し、掲げればいい。
「それは――――」
けれど、言葉にしようとする前から、どこかで感じていた。
理由の見えない、拒絶を。
「っ……」
閉じ込めようとする力の正体が、どうにも分からない。他力ではないということだけは確かで、あとはすべてが曖昧だ。
「ウェストロイズよ」
ただ名前を呼ばれただけなのに、緊張が身体と思考を縛りつける。射抜かれた瞳の底が、存在しないはずの圧に痛み、まばたきさえもできなくなる。
そんな僕に、バンホウが語り始める。
「仮に君が願いを持たない者だとしても、私は特段なにかをするというわけではないのだ。世界には無数の二元論と、匹敵する無限論とが併存している。私が君を“願いを持たざる者”と見なそうとも、君は君だけの論を臆することなく掲げてみせればよいのだ。世界は君が思っている以上に、限界をはるか遠くに持っているのだよ」
理解するのが難しい言葉を使われた。それでも、どういうわけか理解できてしまった。“私は君の願いを拒まない”という意思を、感じることができた。
だから、圧をきちんと幻にする。ゆっくりとまぶたを下ろせば、黒い世界はやっぱりまた現れた。けれど、まぶたを上げた時には、そのわずかな空虚は消えていた。
「僕には、願いがあるぞ」
バンホウはわずかに目を見開き、すぐに元に戻した。
「……ほう。それは私に向けて言えることか?」
「ああ、言える」
目前の欲を、見据えて、掴む。
「僕はメルクレイムを自分自身で感じたい。そのために『箱』から出てきて、アラシに助けられて、風旅に同行することになったんだ」
あの出会いは奇跡だったんだと、改めて理解する。
先ほどの拒絶の理由は、もう理解しない。探さない。
今はただ、欲を失いたくない。遠ざけたくないんだ。
「そうか……ならばよし」
バンホウが軽く頷く。
「なにが『よし』なんだ?」
「万事が、だ」
バンホウが笑う。ソーハン港の波のように穏やかな笑いだ。
「さて、時間も五分以内に収まったか」
その言葉で時間の存在を思い出す。時刻窓を覗くと、確かに四分程度の時間が経っていた。
「ひとつ訊いてもいいか?」
「なにかね?」
「お前は僕を……人間だと思うか?」
その問いの奇妙さに自分で気づくのと同時に、バンホウが今度は明朗に笑った。
「私ではなくハミル氏に訊くほうが君のためになるのではないか?」
「すまない、そのとおりだ」
バンホウがなおも笑う。
「潔さが反発を封じる、か。なるほど、とても面白い」
バンホウの笑いの理由を正確には理解できない。ただ、この笑いには敵意がない。それだけは分かる。
「さて、時間だ」
バンホウがそう言うと同時に、食堂の扉を開けてアラシとチエが戻ってきた。退屈そうなチエはさておいて、アラシが険しい表情になっている。
「お済みですか?」
声も低まっていて、なんだか圧を感じる。
「ああ。協力に感謝する」
バンホウはまるで動じていない。表情も厳しいものに戻っている。
「それで、どうするつもりですか?」
「処遇のことかね?」
「はい」
バンホウは少しだけ表情を緩めた。
「彼を“第一種重要保護対象”に認定する手続きをすぐに開始する。また、ハミル氏に対する正式保護士資格の件だが、“北方大陸進入以前の面会を考慮する場合においては”適性要件を満たしていると判断し、今日付での認定と明日付での交付を行う。以上が、行政府としての対応だ」
アラシは険しさをゆるやかに解いていった。
「やっぱチイはおまけじゃんか……」
チエが不機嫌そうに呟く。
「どういうことだ?」
僕が尋ねるなり、チエはさらに不機嫌そうな表情になったけれど、ややあって口を開いた。
「あんたが世界にとって保護すべき重要な存在になれば、あんたを保護するための対応だったってことで、違法行為じゃなくなんのよ。保護士は“重要保護対象発見時の超法規的対処”が許されてるから」
理屈はあまり分からないけれど――――
「それはつまり、僕がアラシの役に立ったということか?」
「アラシがあんたを……あとついでにチイも利用したってことよ」
とりあえずは役に立ったということらしい。
「でも、利用することをバンホウさんが認めてくれなきゃどうにもならなかったよ」
アラシが半端に笑う。
「府長さぁ、こんな甘いことして大丈夫なの? アラシが『箱』の区域に侵入した時って、確かけっこうな数の職員が見てたよね?」
チエが呆れ気味に訊く。
「ナカタよ、君が思っているよりも、ハミル氏の功績は世界共通で偉大なのだ。このくらいは許されよう。そもそも、彼女は件の特級危険地域への進入を認められて然るべきだったのだ」
「じゃあ最初から認めてくれたらよかったじゃん」
バンホウの顔がわずかに歪む。
「チエが北方大陸への進入許可を出せとかわがまま言いまくって、手間を取られたからなんじゃないの?」
アラシがニヤリと笑う。
「いや、行政府がそんな小さなことに影響されるわけないじゃん」
チエが白けた表情で返す。
「とにかく、これで先へ進めるんだからいいでしょ?」
「まあそうだけどさぁ……」
バンホウのほうを見やると、もう顔の歪みは消えていた。
「バンホウ氏、それでは諸事案への対応をよろしくお願いします」
アラシが頭を少し下げると、バンホウは「承った」と言い、また少しだけ表情を緩めた。




