序-1
カーラは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
部屋を横切って、涼やかな初夏の風が流れ込む。
隣の校舎からは、兄の声。
延々と語るこの声は、講義中なのだろう。聞こえる単語を拾うとそれは結界術の体系論にまで及んでいて、今年は順調に進んでいるようだ。それが終われば、次は結界石錬成術の実習で、この単元からカーラも校舎で教鞭をとる。
(……静かね。)
ルルト家は、今日も静かだった。
勉学に熱心な生徒が多いこともあるが、季節の移り変わりもそれを手伝っていて、いつの間にか春の浮かれた気持ちが消え失せている。
(……学内がこんなに落ち着いているのは、いつ以来だろう。)
何気なく記憶を辿って、カーラは、ため息をついた。
「はぁ。」
そうだ、こんなに静かだった記憶は、どこにもない。
(……そうね。……いつも「あの子」が騒いでいたんだったわ……。)
つい春先まで、「あの子」はアムイリア領にいた。
あの騒がしい妹、クイ。
その妹が、突然遠方へと嫁いでいって、アムイリア領は、驚くほど平穏になった。父の怒声も聞かなくなったし、現アムイリア軍将も文句を言いに来なくなった。あの子が紙面を賑わすこともなくなったし、訳の分からない請求書も届かなくなった。
「はぁ~。」
それでも、カーラの心配は尽きなかった。
「はぁぁぁぁぁ~~~。」
深い深い深いため息。
どこに行っても、あの子は、カーラの悩みの種だ。
(……今頃どうしているのかしら。)
視線を室内に戻すと、机上の手紙が目についた。
それは、あの妹から届いた手紙だった。
相変わらずの汚い字で、お気楽な近況報告が記されている。
-------------やっほ~。みんな元気?
ウテリア領は、とってもいいところだよ。
領民は、みんな親切で、ウテリア領主も、すっごくいい人なんだ~。
私は、元気でやっているから、安心して~。
また、連絡するね~。 クイ----------
妹をずっと案じていたカーラにとって、それはとても衝撃的な手紙だった。
(……ああ、あの子ったら。)
あんな落ちこぼれの迷惑結界士を、領民が親切にするはずもない。なのに、こんなバレバレの手紙を送ってよこすなんて。
(……あれでも、少しは「気を遣う」ということを覚えたんだわ……。)
それを成長と言っていいものか。
カーラが翻訳すると、こうだった。
-------------やっほ~。みんな元気?
ウテリア領は、完全に制圧したよ。
領民は、みんな怯えていて、ウテリア領主も、すっごく従順なんだ~。
私は、勝手気ままにやっているから、安心して~。
また、連絡するね~。 クイ----------
カーラは、その内容にめまいがした。
想像すると吐き気がする。
嫁いできた結界士が、武力で領地を制圧するなんて。
それが不可能なら、どれほどよかったか。
(……ああ、ごめんなさい。)
ウテリア領を思うと、涙が出た。
(あんな出来損ない妹を押し付けられて、きっと、ウテリア領民はルルト家を恨んでいる事でしょう……。)
特に、夫となったウテリア領主は気の毒だった。
実は、妹クイは、結界士としては出来損ないだが、剣士としてはアムイリア領最強だったのだ。しかも、頭の中身はサッパリで、何度説いても「加減」というものが理解できない。
これまで、現アムイリア軍将を困らせ続けた妹だ。そんな妹を嫁にもらったウテリア領主が、今頃、どんな目に合っているか。
(……ああ、一体、どうしたら……。)
けれど、アムイリア領からできることは、もう、やり尽くしていた。
兄イトは、国王軍に助けを求めたが、国王軍兵長マーティン卿から返ってきた回答は「クイ姫にウテリア領を出る意思はなく、また、ウテリア領主もそれを認めている。」だった。
たぶん、ろくな調査もせずに、本人たちからの言葉を信じて終わりにしてしまったのだろう。まさか、ウテリア領主が、陰でクイに脅されていたなんて。本当は、それを見抜いてほしかった。
一方で、カーラもまた、ウテリア領に新たな結界士を手配しようと試みていた。しかし、この辺りの結界士は、ルルト家で学んだものが多く、学長の父の意に逆らう「ウテリア領行き」を、承諾してくれる結界士は見つけられなかった。
(……そうね、私が何とかするしかないんだわ。)
カーラは、大きな覚悟を決めた。
アムイリア領でできることがないのなら、自分がアムイリア領を出るしかない。
しかし、上級結界士が領外に出るチャンスは限られている。
上級結界士は、常に誘拐の危険にさらされていて、一人で領外に出られない。かといって、領軍に守ってもらうには、それなりの理由が必要になってくる。
カーラは、すべてを納得して頷いた。
(……私が、ウテリア領の近くに嫁ぎましょう。)
嫁入りとなれば、必ずどちらかの領軍が護衛についてくれる。そして、アムイリア領外へ出た後なら、父の妨害なくウテリア領を支援することができる。
(……ああ、ウテリア領の皆さん。どうか、もう少し待っていてください。)
カーラは、祈るように目を閉じた。
(妹の事は、私が何とか致します。まともな結界士も手配いたします。ですから、どうかそれまで、今少しの猶予を。)
それが、姉としてできる、精一杯の償いだった。