鼓膜を刺激する、優しさ
そっと、背後に誰かが立つ気配がした。
「―――まじょ」
かすれた声が、私を呼ぶ。
普通の人間はその見た目を怖がってろくろく聞いていやしないけれど、彼は意外といい声をしている。発音はなめらかではないけれど、声を聴いているだけで落ち着く。
「まじょ……、まじょ?」
こちらを気遣うように小さな声で、至近距離からささやき呼ばれているのは分かるのに。
どうしても、それに答える気が起きない。わかっているのだ。私が返事をしなければ相手が不安に思うことや、不快に感じるかもしれない事なんて……。それでも、もっと自分を呼んでほしくて、彼の性格が伝わってくるような優しい声を聴きたくて。
わざと答えないでいるうちに、どうして聞こえないふりなんてしてしまったのかと言い訳をしなければと思い立つのだけれど、焦れば焦るだけ言葉が見つからない。
仕舞には、聴いていたはずの彼の声まで耳に入らないところまで来て、恐る恐る振り返る。
「どうかしたか?まじょ」
もしかしたら、今度こそ愛想を尽かされるかもしれない……なんて怯えていた心が、きょとんと気の抜けた顔を見届けて安堵するのがわかる。どうして、こんな風に些細なことでまで怯えなきゃいけないのかと、理不尽な怒りが生まれてしまう。
「何?なにか用事でもあるの?」
ぐちゃぐちゃとした思考回路の末に出した言葉は、思いのほか不機嫌そうでうんざりする。本当に、自分はフランケンに好かれたいと思っているのかと、自分の不器用さ加減に嫌気がさす。これではまるで、正反対の感情を抱いているようではないか。
他の人間相手だったら、たとえ気に入らない人間でも笑って見せるのに、どうして一番好かれたい対象にはうまく笑いかけることすらできないのだろうと内心頭を抱える。
私は魔女で、魔法も使い放題なはずなのに、いかんせん自分のこととなると途端にままならない。
何度か魔法を使って自分を理想通りにしあげようとしたこともあるけれど、師匠や周囲に「心を操る術なんてろくでもない」なんて言われて断念した。
確かに、これまでその手の方法を用いた人間が手酷い目にあっているのは知っているけれど、わらにもすがる思いというのをみんなわかっていないのだ。そんなことを当人たちの前で口を滑らそうものならば、きっと「貴女が素直になればいいだけでしょう!」と怒られてしまうだろうから、これを口にしたことはない。その『素直になる』のが一番難しいというのが、どうしてわかってもらえないのだろう。
「ぼーっと、してた。げんき、ない?」
「……いいえ。大丈夫」
もう少し愛想よくしなければならないと頑張った結果がこれなんて、なんてセンスのない返答なのかと泣き出したくなる。
「まじょ……?」
大丈夫だと答えたのに、彼はなぜだか先ほどより眉をさげて更に心配そうに近づいてくる。
突然に体が浮き上がったかと思うと、すっぽりと大きな体に抱きかかえられていた。別に抱き上げられるのは珍しくないけれど、どうして抱き上げるのかわからず首をかしげる。
「フランケン、どうかしたの?」
「まじょ、ようすへん」
思わず、『変』だと断言されてイラっとしたが、包まれる感触は存外悪くなくて体を寄せる。
どこに向かっているのかとしばらく見守っていると、どうやら彼は『変』な私を寝かせようとしているらしい。そんなに心配されるほど先ほどの様子は『変』だったのだろうかと、内心かなり根に持ちながら成り行きに任せてみることにした。
「ぐあい、わるい、たいへん。ねろ」
強制的に私をベッドに押し込むと、しまっていたはずの上掛けまで持ってきてかぶせられた。その姿は、介抱しているというより拘束に近いと思うのだけれど、文句を言うことなく従った。
大量にかぶせられた上掛けは邪魔くさいし、暑いし寝苦しい。
……けれど、ここ数百年と病気ひとつしてこなかったため、世話をされ心配されるという感覚は新鮮で嬉しかった。普段だったら文句の一つもいう所だけれど、こそばゆい感覚を受け入れるのに忙しかった私は、布の海の先に見える顔を見つめながら手を伸ばした。
「具合、なんて悪くないけど。……少し眠いから、傍にいて」
こんな時まで、可愛らしく甘えるのではなく命令口調になってしまったけど、横になった体勢では威力なんてさほどなかったのだろう。調子が出ないというように頬をかいた後に、フランケンは困り切った様子でうなずいてくれた。
素直に甘えるなんてことはできなかったけれど、今日は暴言を吐かないでいられた。
そんなささやかなことに満足して、そっと目をつぶった私は知らない。その数時間後に、普段よりおとなしい私の様子に病気なのだと勘違いした彼が慌てふためき、失礼な奴だと怒鳴り散らすことになるとは。