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こんな夜は、たいまつを片手に  作者: 麻戸 槊來
紅い血と丸めた牙
24/25

鈍色の空に浮かぶ、白昼夢

重い雲が空を覆い、世界が灰色に染まる昼もだいぶ過ぎた日のこと。

今にも雨が降り出しそうな気配を肌で感じながら、カラスが低くく空を横切っていくのをみた。


「伯爵?」


「…………っ」


「伯爵―?」


思わず、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。

「はい」と変に畏まった様子で答えてしまい、「ふふっ、そんなに畏まらなくてもいいのに」と笑われて思わず頬へ熱がたまる。彼女のこんな声を聴いたのは、本当に久しぶりだ。彼女の命を奪ってからというもの、徐々に記憶は薄れていく。



はじめに、珍しく彼女から触れられたときの胸の高鳴りは思い出せるというのに、その肌に馴染む体温を忘れ。つぎは控えめな話し方や、高すぎない耳に心地よい声を忘れてしまい。今度は、彼女の瞳の色が移り変わるさまや髪色の美しさを思い出せなくなり。とうとう130年ほど前には、彼女の清涼感のある香りですら忘れてしまった。


残酷なことに、彼女へとどめを刺した最後の一口は未だに忘れることが出来ないのだから、自分でも嫌になる。



そんな、徐々に薄れゆく記憶の中で、こんなにもさまざまな感覚が五感をくすぐるのは久しぶりで涙が出そうになってしまう。―――例え、これが夢であっても。


「あい、たかった……」


「まぁ、伯爵様。殿方がそのようにさめざめと泣くだなんて、どうしたんですか?」


「あまりっ、苛めないでくれ」


頼むからと、流れる涙をそのままに彼女を抱きしめる。

もはや、涙を止めるなんて無駄な努力に力を割くことですら嫌だ。抱きしめる感触や、体温、あらゆる感覚が研ぎ澄まされて、全身で彼女に関する記憶が呼び戻されていく。


「―――今は、君だけを感じていたい」


これが夢でもいいと思えるほど、とても残酷で幸せな夢だった。






✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾






重い瞼を開け、光を拒むように一度目をつぶる。

どうやら俺は、まだ死神の温情にはあたれないらしい。こんなにも彼女を求める俺に対して、あざ笑うかのようにこうして度々幸せな虚像を見せる。それが神であろうと、狂った己の脳が作り出したものであろうと、心のどこかで喜んでしまっているのだからたちが悪い。


寝起きに「お前、女を侍らしていない時は、ボケ老人みたいだな」なんて狼男が茶化してくる。こいつはこいつなりに俺を気遣っているつもりなのかもしれないが、感傷的な今はそれに乗ってやる元気もない。


「おい、狼」


「ああ?なんだよ、吸血野郎?」


肉を頬張りながらこちらを見る顔には、てかてかと油がついて幸せそうだ。

食事をするたびに罪悪感に襲われる俺とは、えらい違いだと思いつつ言葉を続ける。


「君がいつか本当の『飼い主』に出逢えた暁には、僕が責任もって殺してあげるよ」


この男が、こんな運命を背負ってからも所詮『運命の相手』なるものを求めているのは薄々勘付いていた。それぞれ形は違うものの、異種族同士のパートナーをもつ者たちが集まるこの会に好んで出席するのは、憧れのようなものがあるからだろう。


色々血なまぐさい経験だってしてきて、数多の裏切りにあってきただろうに。

この純粋さは、いっそ尊敬に値する。そんな夢見がちな犬が僕と同じような絶望に耐えうるとは思わないから、自分のように狂う前に手を下してやろう。―――そんな、これまでにない優しさを見せてあげているのに、聞こえてきたのは感謝とは真逆を行くものだった。


「……おい、それがまさか滅多にない優しさだと思ってんじゃねぇだろうな?」


「何を言ってるんだい?こんなに近くで長年苦しんでいる僕を見ているくせに、まだそんな減らず口をたたくのかい?」


馬鹿馬鹿しくて付き合ってられないと鼻で笑うと、狼は思う所があるのだろう。

気まずそうに眼をそらして見せた。世紀すら超えて、本気で相手の首を狙いあったのだ。それこそ相手の弱点を探ろうと研究したし、うんざりする戦いも何度となく経験した。なぜか周囲は息絶えていき、街をいくつか破壊しても僕たちは呼吸を止めることがなかったのだから、ため息しか出ない。


「お互い、充分すぎるほど時間があったし、そろそろ長い戦いにも飽き飽きしてきたころだろう?君のことを、それなりに憎く思っている敵である、この俺が……。わざわざ『塩を送ってやるっ』つってんだから、四の五の言わずに受け取っておけ犬野郎」


「憎い敵ではあるが、最後に情けぐらいかけてやるってか?」


「分かったら、同じこと何度も言わせんな。糞野郎がっ」


てめぇも所詮犬なんだから、飼い主を亡くして生きていける訳がねぇだろうがと、嫌に自信満々に響いたその言葉は、どこか伝わるものがあったらしい。本能に支配されることの多い瞳に一瞬理知的な光が宿ったかと思えば、神妙にうなずいて見せる。


「できるもんなら、やってみろ吸血野郎。間違っても、その前にくたばるんじゃねぇぞ」


「嗚呼、駄目だよ。君が飼い主を見つける前に彼女が迎えに来てくれたら、喜んで僕はその手を取るから。早くしないと時間切れだよ」


「んだよそれっ。やる気のねぇ約束だな!」


「君との約束と、恋い焦がれる彼女だったら、どちらを選ぶかなんて明白すぎて問題にすらならないと思うんだけど?」


逢いたくて逢いたくてたまらないのに、よくこんな所で腐っていられるものだと、我ながら感心してしまう。己の擦り切れた理性は、ただ彼女を失望させたくないという気持ちだけで、此処へこの身を縛り付けている。


「うん百年と前の女に義理立てするなんざ、酔狂なこった」


「……僕にとったら、彼女は唯一の人だったし、何より恋人は他にいたことがないよ」


「おーおー、それを聞いたら、『一夜の恋人たち』が泣くねぇ。おまけに、緩いてめぇの下半身事情を、その『唯一の彼女』に怒られろ」


「本っ当に、うるさい犬だね」


人の痛いところをズケズケというのだから、こいつが誰かに惚れた暁には、絶対言いつけてやる。彼女を亡くしてからしばらくは、悲しみに暮れるあまり吸血鬼としての本性を抑えられなかった。……ついでに言えば、雄としての本能も揺れ動かされてしまったもんだから、彼女にはあまり知られたくない所だ。


「……とりあえず、バレたらしばらく殴られそうな気がする」


「そりゃあ、俺に殴られるより辛ぇだろうな」


「彼女を怒らせて、無事でいられる自信がない」


「『かのヴァンパイア伯爵』が情けねぇ」


「……お前だって、そうなるさ」


それは、楽しみだと呟いた狼の言葉は、隠すことのできない真実だろう。

どうやら最近構ってもらっている女性もいるようだし、こいつとの別れもそう遠くないのかもしれないと、一つ息をこぼした。




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