ナッシング
コンビニで働いている駿河亨は生まれてこの方、32年もの間、華やかな出来事に恵まれない、幸せなのか不幸せなのか分からない男である。
今日も彼は黙々と、仕事をこなしていく。弁当を並べる。パンを並べる。レジを打つ。その他諸々。
彼はめぼしい才能に恵まれているわけでもないので、店長を任されたり、残業を強いられることもない。とにかくひたすら淡々と毎日を過ごしているのだ。
そんな彼にも転機とも呼べるような瞬間が幾つかあった。まず一つ目は近所に住む女学生、見た目がとてもキレイな女の子、高橋恵に話し掛けられた時だった。
彼女は静かに仕事をする駿河に好意を寄せたかのように話しかけた。
「いつも大変ですね。ご苦労様です。私、コンビニとかファーストフードのアルバイトに憧れてるんですよ」
彼は彼女の言葉にぴくりと反応したが、何か言うわけでもなかった。彼女ははきはきとした口調で言う。
「決して華やかではないけど、地域生活に貢献している。みんなのためになる仕事をしてるって気がするんです」
彼はこのまたとないチャンスにも特別、飛びつきはしなかった。ただぼんやりと彼女の話を聴いていただけだった。そして彼は彼女にこう尋ねたのである。彼と彼女は初対面でなかったにも関わらず。
「あのー。どちら様でしたっけ?」
この質問に彼女は言葉を失ってしまった。自分が彼の印象に残っていないのを思い知らされたのだから。彼女は少し恥じらったように取り繕い、こう一言残してその場を後にした。
「隣のアパートに住んでいる高橋恵です。すみません。突然話し掛けてしまって」
……何もない。こうして彼の性格も相まって、さらに彼の人生には何も起こらないのである。
二つ目の転機は男子中学生の「万引き」の瞬間を見つけた時である。その子はアルコール入りの炭酸飲料をポケットに仕舞うところを駿河に見つかった。
駿河がこの時、彼の腕でもひっ捕まえて「万引きは行けないことだよ。坊や」とでも一言言ってのければ、万引きを防いだ上、彼を改心させることもできたはずだった。
そう、駿河は一躍ヒーローになれる瞬間を手にしたのである。それにも関わらず彼は男子中学生の瞳を見つめ、ニコリと微笑んだだけだった。
その子は気まずそうに「万引き」の現行犯を見逃してくれたことに感謝して飲物を商品棚に戻したのだった。
こうして駿河はまたも人生の主役に躍り出るチャンスを逃したのである。
まさに、何も……ない。
彼は感情の起伏に乏しい人間ではあったが、趣味は映画鑑賞だった。そこで彼はフラストレーションを解消することが出来た
彼は休日、ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」を観に行く。
彼の隣には若く美しいグラマラスな女性がいた。だがそんな女性が隣にいても、彼は特別心沸き立つことはなかった。
彼はただひたすらストーリーにのめりこんで行くだけだ。
映画がクライマックスを迎え、彼が涙を零しかけたその時である。その女性が強く彼の手を握り締めて叫ぶ。
「やめてください! さっきから私の体に触わるのは!」
その瞬間、館内は騒然となった。逞しい体をした青年が駿河を取り押さえて、地面に這いつくばらせる。
だが、もちろんこの彼女の言葉、「言い掛かり」である。
それなのに彼はスタッフルームに連れていかれ、根掘り葉掘り訊かれた。年齢、職歴、学歴、果ては性癖まで。
ここまで不当な扱いを受けた彼だが、またしても淡々としていた。自分が犯人と特定されるとは思いもしなかったからである。
まさに彼の人生の壮大なテーマは「何もない」ことなのだ。
やがて痴漢を訴えた女性は、自分の体を触る手は駿河の座る右側からではなく、左側から伸びていたことを認めた。
そして言い掛かりをつけたことを素直に謝った。
ただ女性が痴漢を受けたのはゆるぎない事実なので、駿河が観ていた映画のタイトルにあやかり、「『ああ、無情』ですね」とでも冗談の一言でも口にすれば、少しは注目されたかもしれない。
だが彼はそんな機転の利く男ではなかった。女性とスタッフからひたすら謝られ、スタッフから無料映画視聴券を2枚プレゼントされただけで引き下がった。
まさに「何も……ない」この言葉を地で行くような彼の人生は引き続き「何もない」「何も起こらないのである」。
そんな毎日を喜んでか疎んでか、今日も彼はレジのキャッシャーを担当するのだった。はて、今、憧れの視線を駿河に送ってアイスクリームを買っていったのは、先の高橋恵であったような気がしたが。
それにも関わらず彼は淡々と次の客に接していくのである。こう一言言葉を添えて。
「ミックスグリル弁当499円になります」
男32才駿河亨の人生、まさに今日も「何も……ない」のである。




