第九話「サビシイナンテイワセナイ Part1 of 2」
1
ケンゾーは本物のモンスターを召還ぶことができる。魔術実践派として有名なマルクト学園のカードを使った魔術体系。根幹であるカードシステムの基礎をプログラムしたのは、ケンゾーのお母さんだった。ケンゾー父の告白は衝撃の事実ばかりだった。
だったんだけど、みんなで鍋を囲みながらだったし、ケンゾー父は合間合間に冗談を交えながら告白するものだから、全然全くドラマチックじゃなかった。おまけにケンゾーは自分の忘れていた才能に驚くよりも、昔遊んでた友達の名前が“リン”じゃなくて“ゴブリン”だったと知って喜んでいた。一人だけ嬉しそうなケンゾーの姿に、みんなは固まった。前からリアクションに困るやつだとは思っていたけど、これほどとは思わなかった。
みんな多かれ少なかれ心の中に触れてほしくない部分を持っている。私の場合は谷山との過去だったわけだし、如月さんは他人が自分をどう見ているのか、ひょっとして自分は嫌われてるんじゃないかと、異常なほどに神経質になっていたし。吹っ切れた今、彼女はただのゴスロリセクハラ娘になっちゃったけど。以前よりはつき合いやすくなったかな。
ケンゾーは心にどんなわだかまりがあるんだろうか? 尋ねたらたぶん、うーんとか悩みながら素直に答えてくれる気がする。でも、それが本当にケンゾーの素の悩みやわだかまりなのかはわからない。いつものとぼけた顔で答えるんだろうし、その答えがケンゾーの本当に本当の本心なのか、それとも平気で嘘ついているのかは判断はつかないもの。そこまでケンゾーのことを知っているわけじゃない。最近、ふとそんなことを考えることがある。おそらく自分はケンゾーに興味を抱いているのだと思う。
「レンムは昔からニブかったのよねぇ」
如月さんとこで鍋を囲んだ時のきくちゃんの言葉。みんなは大きくうなずいた。え? そうなの? 自分のことはわからないことだらけだ。
「ケンゾーもニブいからね。ようやくキミのことが視界に入ってきた頃だと思うよ。あとは、ニブいもの同士、二人だけで」
なかなか溶けない柚子胡椒を箸先でちまちまこねながら、ケンゾー姉が駅前社長な口調でにんまりしていたっけ。わたしとケンゾーは端から見ると親密なのか、恋する者の雰囲気を醸し出しているのだろうか? 引きこもり期間が長過ぎて、友情だの愛情だのとは無縁だった自分には、恋愛事情というのはどうにもピんとこないのだ。ともかくみんなには今の私はこう見えているらしい。
レンムはどうやらケンゾーのことが好きなようだ、と。
「買い物に行こう」
遅刻ギリギリで学校にたどり着いたレンムが最初に耳にしたのは、唐突なケンゾーの申し出だった。返事を待つケンゾーの顔は少しだけ緊張した様子だった。ケンゾーの真意がわからない。わからないのだがレンムは自分の顔が赤くなっていくのを感じた。首筋から頬に向かって血液がゆっくり昇ってくる感覚。
『ケンゾーは一番大事なの!』
谷山を前に言い放った言葉を思い出した。止せばいいのに麩饅頭のレシピを知りたけりゃ「婿に入れ」なんて考えたことまでも。ケンゾーは何も言わずにこちらを見ている。それだけのことなんだけど、なんとも息が詰まってしまう。
「はは。何を買いに行くのだね?」
ああ、男言葉に戻っている。ケンゾーはレンムの問いに恥ずかしそうに笑った。
「いや、特に何と言うわけじゃないんだけどね。まあ、いろいろ」
2
桐崎は焦っていた。吾妻病院に向かった松戸と連絡がつかない。松戸が連絡を寄越さない時は、決まって何か手違いがあった時だった。
がらんとしたスペシャルクラスの室内を見渡す。今日も誰も来ないだろう。実際、スペシャルクラスのメンバーはマルクト学園に来ることはめったにない。それぞれが自分が企画立案したプロジェクトを抱えている。出向という形でメンバーはスポンサーに提供された場所へ赴いている。委員長である桐崎は誰がどこへ行っているかは知っていた。だが、そこで何を研究しているのか、どんな悪巧みに加担しているのかは把握していない。スポンサーとのやり取りも、窓口になっている弁護士を通してだ。いったいどんな企業、はたまたパトロンがスポンサーなのかはさっぱりわからない。まあ、毎月研究費と称して多額の予算が口座に振り込まれる。ノルマを果たせば、後は遊んでいようと文句は言われない。それで充分だった。再び桐崎は松戸に連絡を取ろうと試みた。呼び出し音が繰り返し鳴るだけだった。
吾妻病院の近く。コンビニの洗面台で松戸は顔をごしごしと拭っていた。蛇口から水がだぶだぶと流れ出している。手を洗うと細かい切り傷にじんじんと水が滲みた。
「まさかカードを持っているとは。まさか想念いが溢れ出るとは。まさか私が取り逃がすとは」
松戸は鏡を覗き込みながら独り言を繰り返した。顔にも細かい傷が走っている。中でも目立つ顎の右側近くの切り傷を指で開いてみる。鋭い刃物で切り裂いたような傷口は薄赤身を帯びていた。ぷぷぷと開いた傷口に血が球を成す。
出口が無いカードに想いが溢れれば自然とこぼれだす。通常の精神状態では想念の飽和状態は発生しない。想念が強ければ強いほどモンスターの精度は向上する。強く想念う心、勝利したいという強い気持ち、怒りから喚起された激情が、著しくモンスターの精度に影響を与える。
松戸はカードの出自が如何なるものであるかは知らない。ただ稀少ケースとして数件のモンスター実体化の例があることを知っていた。偶発的に実体化したケース、数度の実験において確実に実体化したケース、何も起こらなかったケース。いずれも共通するのは、感情の爆発によって誘発されたカードの脈動だった。松戸は脈動を誘発する想念いの強さに注目した。精神的健常者が感情を爆発させることは難しい。健常者は一般常識としての恥を知っている。第三者の目がある場所での感情の発露にはどうしても抑制がかかる。実験は捗らなかった。歯車に甘んじる社会人はその傾向が強かった。児童は容易に脈動までは辿り着けた。演劇俳優が一番面白い結果を残した。自身が置かれた立場をシミュレーションし、自分自身に思い込ませ、役柄にのめり込む彼らは常にカードの脈動を生み出した。しかし、そこまでだった。
健常者の場合、彼らが胸の奥に隠し続けるトラウマを刺激すると、カードは激しく脈動する。中にはカードの中央に綺麗な円錐形を形成したり、モンスターのシルエットが刻まれることもあった。でも、実体化までは辿り着かなかった。
松戸は桐崎に相談した。精神的健常者では限界がある。ならば容易に恥を捨てられる人々、恥を認識していない人々で実験はできないだろうか。桐崎にはそのパイプがあった。程なくして松戸は吾妻病院の舳留間を紹介された。
精神的健常者はトラウマを探すまでが一苦労だったし、たとえトラウマを刺激したからといって、松戸の思う結果を導きだすことはほとんど不可能だった。それに比べて吾妻病院の患者は素晴らしかった。カードの実験に集中させるためにいろいろと苦労はあったものの、患者たちは一旦実験に取り組みだせば想像以上の結果を残してくれた。中でもストーカーと言われる人々は、恥を知っているはずなのに成績は優秀だった。なによりほかの患者よりも聞き分けが良かった。
松戸は実験をさらに押し進めようと考えた。モンスターを実体化できるもの同士の遭遇。それは如何なる結果を生み出すのか? 心が躍った。
3
「母さんが出て行ったのはほんとに名声のためだったのかね?」
対面式のキッチン。テーブルに座ったケンゾー姉が1リットル牛乳パックを手に尋ねた。
ケンゾー父がカタクチイワシの腹に拇指を立てて、つつうっと尾の付け根まで押し開いていた。
「うーん。俺にはそう言ったよ。俺の頭にはそれで充分だったけど。0と1の世界の無限の誘惑を熱心に語られたって俺は全然共感できないしね。それに母さん、あんまり子供好きじゃなかっただろ?」
父は器用に拇指でイワシの腹の中を探りながら、身を骨から外していく。
「まあね。扱いはグリコのおまけ以下だったな。だからってあからさまにお前は邪魔なんだとは言われなかった」
「そうそう。俺も留守が多いから、育児は投げっぱなしだった。今から思えば限界だったんじゃねえかな。ケンゾーも偶然出来ちゃったようなもんだしさ」
「ケンゾーの面倒は私が見てたしね。私がいない時は……リンちゃんと遊んでたのかなあ」
イワシの中骨の下側に人差し指を滑らせていくと、中骨は少しずつ身から剥がれていく。尾の付け根でぽきりと中骨を折ると取り外す。腹骨は包丁ですき取る。ケンゾー父は手開きにしたイワシをクッキングペーパーの上に並べる。
「まあ、何にせよ、家庭を持つことに向いてない人間が二人一緒になっちゃったってことさ。タマキやケンゾーには迷惑かけっぱなしだったけどな」
「名前で呼ぶなよ」
ケンゾー姉が不快な顔をして、ぐびりと牛乳を呑む。
「タマキンやら、タマチンやら、幼少の頃から股間系あだ名のオンパレードだよ。第二次性徴期に入った時期なんぞは、ほんにタマらんかったですよ。社会に出りゃ出たで、上司の爺連中は沢たまきとか言いやがるし。誰だよ、沢たまきって。そうそう、さとう珠緒とかアザラシとも比べられたな。年寄りはタマつきゃなんでも一緒かよっての。わかっちゃいるんだけどねえ。こりゃいかんとはさ。いかんのだけど、どうもダメなんだよねえ」
「悪いなあ。でも父さんは悲しいぞ。母さんと一生懸命考えて名付けたっていうのにさ。そこんとこは親っぽいことしてるんだけどなあ」
ケンゾー父は苦笑いしながら、タッパーに詰めたカタクチイワシに塩をふりかけ始めた。
ケンゾー姉は神妙な顔つきになった。
「ケンゾー取り返してきたじゃない。親らしいことは充分しているよ」
父の手の動きが止まる。
大粒の涙を流して泣き叫ぶ少女の姿。ハンドルを握り締めた血管の浮き上がった腕。研究棟の警備員との押し問答。脱力した男の子の重さを感じる両腕。
ケンゾー父は脳裏にふと蘇った過去の映像に戸惑った。
4
「タイピングとマウスなんだよ」
「はい?」
買い物に行こうと誘われたレンムがなんとなく承諾して、ぶらぶらと学園前の公園を歩いている時のケンゾーの言葉だった。
「前に訊いたよね。器用な手先の話」
「うん。ケンゾーが器用な手先フェチだってんでしょ。知ってるよ」
「フェチなのかなあ。いや、なぜ器用な手先に魅かれるのか? その大元の話なんだけど」
少し手前を歩いていたレンムはくるりとケンゾーの方に身体を向けた。
「やっぱりお母さんなんでしょ。行方不明って聞いてたからさ、なんか話題にしづらかったし……あの頃は私は私で谷山に怯えてたしね」
ケンゾーはうんうんとうなずく。
「実は母親の記憶はあんまりないんだよね。憶えているのは変なカードーーリンのカードだーーとキーボードを叩く指先とマウスを動かす右手の動きだけ」
あんまり子供に興味がなかったんだろうね、そう言ってケンゾーは笑った。
「小学校に上がってからは家でほとんど会ったことはなかったな。気がついたらいなくなってた。いなくなってたことも知らなかった。後から姉さんに教えられた」
レンムは黙って少し寂しそうなケンゾーの横顔を見つめる。
「指先がキーを触る時の曲線がさ、軽やかだったんだよね。ブラインドタッチでカシャカシャと打ち込んでいるんだ。リターンキーだってパチンと大きな音がするくらいに力強く。だけど、キーボードの上を躍る両手は重さが無いんだ。まるで無重力な感じでさ。器用に動く腕を見てるとそんな無重力な気分が蘇る。器用な手が好きなのは、そんな理由なんじゃないかな」
ケンゾーが自分についてきちんと話すのを聞くのは初めてだった。レンムとケンゾーは駅に向かって無言で歩いた。途中でケンゾーが急に立ち止まったので、釣られてレンムも歩きを止めた。ケンゾーの視線を追うとレンムの右手がケンゾーの左手と自然と重なっていた。レンムは自分でも気づかないうちに、というか自然な感じで手をつないでいたようだ。気づいてしまうとなんとも気恥ずかしい。
「あ……ごめん」
レンムはなんとなく謝ってしまった。ケンゾーは小さく首を横に振った。
「買い物に誘ったのは特に買いたいものがあったわけじゃないんだ。ほんとは……レンムとゆっくり話がしたかっただけ」
ケンゾーの意外な言葉にレンムは真っ赤になって俯いた。こういうときにはどういう顔をすればいいのか? なんて言葉を返せばいいのだろう? うー、どうしていいかわからんぞ。今、自分はひきこもってた時の罰があたっているんだ。うん、きっとそうだ。
でも、こういう類いの罰は満更悪いもんでもない。レンムは思った。
5
「マメ。こんなもん持ち込むんじゃないよ。ついつい面白くって寝不足だよ」
金刺は寝不足の目をこすりながらも、うれしそうだった。金時が金刺に解析を依頼したのは、吉田さんが沙E弩経由でケンゾーに預けたカードリーダーだった。金時が谷山から奪ったゴブリンのカード。これが齧り屋のプライドをえらくくすぐる代物だった。金刺はありとあらゆる手を尽くして、カードのプロテクトを外そうとVespertineの仕事もそっちのけで取り組んだのだが、ことごとく失敗に終わっていた。ケンゾーの許に届いたカードリーダーは金時によって金刺に渡された。解析が終わったという知らせを受けて、金時はVespertineを訪れたのである。
「齧り屋のプライドをズタボロにしてくれた糞忌々しいカードが、このカードリーダーを使った途端だもの」
「で、何か判った?」
「なんだかわけ判らんね。魔法陣やら、呪文みたいなもんと一緒にプログラムが書き込まれてるよ。普通のマルクトカードは能力が制限されているみたいだね。設計上は使われてなくちゃいけない部分がまったく機能していない。で、マメが握りしめてたこの谷山カード。こっちは能力フルスロットル状態」
「レジスト済みのシェアウエアみたいなもんか」
「そうそう。谷山カードのプログラムはかなりいい線いってるね。元々はこっちが基本だったんじゃないのかな? ノーマルカードのプロテクトは急拵えな印象がする」
金刺は喜々としてカードの説明を続けていた。金時の想像通り谷山のカードが基本形だった。ケンゾーの母が開発したプログラム、その安全版が現在マルクトで使われている公式カードということになる。しかも、雑なプロテクトが施されている危うい代物らしい。
「それじゃ、ノーマルの方はバグなんかもあるんだよね?」
「あるよー。無理矢理機能を閉鎖して迂回させたりしてるからね。といっても遊びで使う分には人畜無害。よっぽどひどい条件が揃わないと致命的なバグは発生しないね。じゃなきゃ、こんな不完全な状態で放置プレイはしないだろうし。谷山カードに比べたらノーマルカードのプログラムは、非常に不細工。はっきり言って美しくない」
「ひどい条件が揃うっていうのは、モンスターの実体化だよね?」
「そういうこと。想念だっけ? そいつが流れ込んでくるとーー人の感情に反応するってだけでもイっちゃってるプログラムだけどさーー実体化のプログラムが起動するんだけど、ノーマル版は無理矢理止めてるから想念の出口が無くなってるんだな。たぶん大容量の想念が流れ込むと……ボーン。カードが焼き付いちまうんだろうね」
金刺は谷山カードを試してみたという。脈動はするもののモンスター出現まではいかなかったそうだ。
「よっぽど昂った感情なり、なんなりをぶつけないと反応してくれないみたいだね」
谷山の場合はレンムへの強い想念いが反応したわけか。
「あれ、じゃあケンゾーはどんな想念いを持ってたんだ?」
レンムからケンゾーの話を聞いていた金時はふと疑問に思った。ケンゾーみたいなのほほん野郎でも、心の闇を抱えてるんだろうか?
「マメちゃん! アイス買ってきたよー。それからお客さんもいっしょー」
少し深刻になりかけた金時の気分を切り替えたのは、もうひとりののほほん野郎、誰袖の呑気な声だった。
6
「ちわー」
誰袖の言う“お客さん”とは、金時の知り合いでもなんでもなかった。知り合いではないのだが、見覚えだけはばっちりある。なぜならマルクト学園の創設者でもあるくるみ校長だったからだ。墨汁で染め抜いたような黒を基調としたワンピース姿ではあるが、腰まで伸びたくるくるりんな髪型に紅い縁の眼鏡は、やっぱり我らがマルクト学園の校長だ。
「くるみ校長?」
「そ。園長じゃなくて校長」
そう言うとくるみは歯をむき出して笑ってみせた。誰袖は地下の秘密バーで何度か会ったことがあるらしかった。
「あれ? マメちゃんってくるみちゃんとは初対面だったの?」
キッチンのテーブルに座った誰袖は、チョコラムレーズンのパイントにスプーンをぐりぐりと刺しながら金時を見つめた。金時は意外な人物の登場にうなずくのが精一杯。くるみは買い物袋のアイスを物色している。
「なんで玉露はミニカップしかないんだろ? ガッツリとパイントで食べてみたいんだけどなあ」
「だってニガいっす」
「いやいや、ソデちゃん、それは違うよ。やっぱり日本人なら玉露だよ。なんたって茶摘みの2週間前から直射日光が当たらないように覆いまでかけるんだよ。これが世に言う覆下園。しかも、摘むのは新芽のみ!」
「ほうほう」
誰袖はチョコラムレーズンをぱくりと口に運ぶ。くるみ校長も玉露のミニカップからアイスをすくいあげた。わざわざ玉露の講釈垂れるためにここまで来たわけじゃないだろうに。誰袖と校長を見つめながら金時は思った。
「で、日光を遮ることで茶の苦みは抑えられるし、旨味も増すっていうわけ。また香りもよろしい。これをおおい香って言うんだけどさ」
誰袖が感心しながら大きくうなずいている。彼女が心底面白がっている時のお決まりの仕草だ。
「でも、ニガいっす」
「うー。そう来るか、ソデちゃん。まあねぇ、玉露でアイスを作った時点でけったいな食い物ではあるわよね。玉露に季節の主菓子混ぜちゃったようなもんだからね。茶の湯も侘び寂びもあったもんじゃないか。はは」
くるみ校長はスプーンをぱくりと口にくわえて振り向いた。来て早々に玉露を熱く語る異様な人物は、呆然とする金時と金刺ににこりと笑顔を向ける。
「あー! ほれほれ。ほれはほこにひゃったんらあ」
くるみ校長はスプーンをくわえたままカードリーダーを指差した。金時と金刺の視線がカードリーダーに注がれる。
「ここ最近、桐崎クンとこが騒がしかったでしょ。その関係でケンゾーくんとこに電話したら、なんだか立て込んでてね。彼ならツクヨミがどこ行ったか知らないかなーと思ったんだけど、やっぱりケンゾーくんとこに渡ってたのね」
「ツクヨミ?」
「それ。アンジョウ先生謹製マルクトカード改造専用リーダー。先生ってのはケンゾーくんのお母さんのことね。いやあ、ほったらかしにしてたわけじゃないんだけどさ、スペシャルクラスの姑息な幻獣闘技で負けちゃったからね。所有権が移動しちゃってツクヨミ関連はトラブル続きなのよ」
くるみ校長が事の顛末を語りかけたところで、「Evil Woman」の電子音が鳴り始めた。くるみ校長が携帯電話を取り出して相手を確認する。
「桐崎クンだ。噂をすればなんとやら。グッドタイミングではあるわよね」
金時たちに笑いかけると校長は携帯に向かって話し始めた。
「今更泣きつくんじゃないのー。独立採算制の組織なんでしょう?……よく言うわね。で、アンジョウ先生は?……だから、桐崎クンとこの責任者。彼女はなんて言ってるの?……」
携帯を耳から外すとくるみ校長は天を仰いだ。再び携帯を耳に当てる。
「あきれた……パトロンの名前も知らないで危ないことに首突っ込んでたわけ? 怖い怖い。そんじゃあさあ、今回の実験の実行責任者は誰? 吉田さんじゃあないわよね」
谷山の背後にスペシャルクラス。そのスポンサーはケンゾーの母親。カードリーダーを持ち出したのは吉田さんだ。吉田さんの行方も判るかも知れない。電話のやり取りを聞いているうちに金時は胃が痛くなってきた。
「持ってけ……」
耳元で囁くと金刺がジーンズのポケットにゴブリンのカードをねじ込んだ。そうだ、ケンゾーに知らせなくちゃ。しかし、どう伝えたらいいんだろう?
「マツドだってさ」
電話を終えたくるみ校長が大きな声で告げた。
「多分、松戸駅の松戸って書くんだろうけど。スイッチブレイドのハウさんを襲わせたのも、ソデちゃんの大事なマメちゃんを怪我させたのも、レンムっちにストーカー娘をけしかけたのも、みーんなマツドのせいだって。まあ、桐崎クンも一枚噛んでたんだろうけど」
金時は困惑していた。谷山がカードを使い大暴れした事件。谷山の暴走自体は谷山の責任だ。それは、例のカードが無ければ起こらなかったことだ。カードがどういう経緯で谷山の手に渡ったのか、最初はそれだけが知りたかった。あとは済んだこと。自分の胸に仕舞っておけばいい。ところがくるみ校長の介入で、知らなくていいことまで知ることになってきている。そんな気がした。こういうストレスにさらされるのは、カードに密接に関係するケンゾーが適任のはずだ。俺は主役の器じゃない。ケンゾーがちゃんと主役を演じてくれれば、俺はこんなに苦労しないで済んだんじゃなかろうか? いやいや、よく出来た物語の主人公は得てして無色透明だ。アクの強い連中が脇を固めているから、無色な主人公がいろんな色を映し出すんじゃなかったか? 俺がなんて面倒なことに係わらすんだと怒ってリタイヤすれば、胃がキリキリするストレスからは解放されるんだろうなあ。
「ところが俺は面白がっている」
一人でぐるぐる考えていたことがついつい言葉になった。金時はキッチンのテーブルの席に着いた。隣で誰袖が無心にチョコラムレーズンをぱくついている。金時はビニール袋から大納言&あずきを取り出した。
「これからどうするんですか?」
金時は大納言&あずきの蓋を取りながら、くるみ校長に尋ねた。
「ケンゾーくんに連絡を取ろうよ。多分、いろいろと中途半端な状態だからもやもやしてるんじゃないかな?」
「そうかなあ。うまく言えないんだけど、自分がカードの使い手だったとか、そういうことはもう了解していると思う。ケンゾーが気にしているのは、もっと違うことじゃないかと思うんだけどね」
「ふうん」
くるみ校長はスプーンをくわえながら、納得していないふうにうなずいた。
「まあ、ケンゾーくんとは会うことに決定。で、今気づいたんだけどさ」
校長の視線が誰袖に注がれる。相変わらず誰袖はパイントを美味しそうに食べている。
「ねえ、ソデちゃんだけ、どうしてパイントなのかなあ?」
金時が改めて袋の中を探すが、出てきたのは金刺用にと購入したマスクメロンソルベのミニカップだけだった。誰袖は取られちゃたまらないと慌ててチョコラムレーズンを頬張った。
「う…」
誰袖は頭がキーンとなり、テーブルに突っ伏した。
7
折られたのは左手の指が三本。小指と薬指と中指。青黒くぷっくりと関節が腫上がっている。吉田さんは埃臭い倉庫に閉じ込められていた。しかし、あまり身の危険を感じていなかった。スペシャルクラスは言ってしまえば得体の知れないスポンサーのための傭兵部隊だ。それぞれが各々のスポンサーのために勝手に動いている。統率力は無いと言っていい。いざとなれば逃げるのは簡単だろう。その証拠に倉庫には見張りすらいない。
最後の最後で桐崎の顔に迷いが浮かんでいた。指を折るなんていう拷問をやっておきながら、心の準備もできていないとは。あと少し責め立てられていたらゲロっていただろうに。まったく桐崎は詰めが甘い。逆の立場だったらあの責め苦を味あわせてやるんだけどな。子供の頃に見た映画のワンシーンだったが、ダスティン・ホフマンがやられていた。泣きそうになった。それ以来、歯医者に行けなくなった。
身体を動かすたびに左手に走る激痛に、吉田さんはうなりながらぼんやりと思った。添木になるようなものは無いかと辺りを見渡す。この倉庫は松戸が実験用にと借りた資料倉庫だった。ごそごそと探しているうちに、吉田さんは書棚に奇妙なものを見つけだした。
『実験1』
そっけなく背表紙に記されている。数字だけが増えていくファイルが書棚を埋め尽くしていた。吉田さんは一冊取り出してみた。右ページに被験者のプロフィールと、精神的な傾向や、病歴などが記されている。左ページにはキャプチャー画面をプリントしたものと、カードメディアが添付されていた。
「“モンスター実体化症例集”でしょ。症例っていう括り方って、なんだか病人扱いにされているみたいで私は嫌い」
背後から突然声をかけられて、吉田さんは驚いて振り向いた。白いワンピースの少女が立っていた。ワンピースは純白とは言い難く、あちこちに染みや焦げたような汚れがあった。少女は松戸の襲撃を逃げ切った谷山だった。
「キミは病院の……」
吉田さんは松戸の実験を手伝う際に何度かこの少女に会っていた。
「その症例集。マントの男に見せられたことがあるの。たしかね……」
谷山は書棚の前、吉田の横に並んだ。背表紙の数字を人差し指で左からなぞっていく。13と数字が刻まれたファイルの前で指が止まった。吉田さんは谷山が指差したファイルを抜き出した。椅子に座るとテーブルの上にファイルを広げた。
「私に襲わせたかったみたい。実体化出来るもの同士の邂逅ね」
レンムのもとに現れた時とは別人のように谷山は落ち着いていた。発する言葉に知性を感じさせた。谷山は吉田さんの前に座るとあるページを開いて指差した。
「あいつは戦わせてみたかったのでしょうね。私は指示に従う素振りを見せて、そのままれんむのところへ向かったんだけど」
谷山が指摘した被験者は小さな男の子だった。この少年が成長した姿を自分は知っている。吉田さんは被験者の名前に指を這わせた。吉田さんの顔に驚きの表情が浮かんだ。
「うそだろ」
「結局あいつの思い通りにご対面したわ。このコには何もさせなかったけれどね」
谷山の顔が歪んだ。明樂での出来事を思い出したのだろう。すぐに谷山は笑顔に戻った。吉田さんは驚きの表情が張りついたままだ。
「だけど、失敗しちゃったの。警察まできちゃったしね。実験が済んだモルモットは廃棄処分。でもそう簡単に処分されるわけにはいかないものね」
吉田さんはカードメディアを抜き出した。
「面白いわよ。そのビデオ。たしかここのパソコンで……」
そう言うと谷山はカードメディアを吉田さんから奪い取って、パソコンを起動させた。
「ケンゾーくん……」
放心した吉田さんは、左手指の鈍痛などすっかり忘れていた。
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用語解説
柚子胡椒:九州地方の柑橘系香辛料。みじん切りにした青唐辛子、柚子の皮を擂鉢ですりおろして塩を加えたものに柚子果汁を混ぜたもの。竹下商店が有名らしいが、関東ではフンドーキン醤油のゆず胡椒を見ることが多い。鍋物はもちろんアロエベラの刺身の醤油に入れてもうまい。
駅前社長:喜劇駅前シリーズと喜劇社長シリーズがごっちゃになっているが、両シリーズに出演していた森繁久彌な口調ということ。駅前&社長は共に東宝が誇る喜劇もの。駅前シリーズが全24作、社長シリーズが全30作製作されている。主演はどちらも森繁久彌。
カタクチイワシ:内臓を取り除いたイワシを塩漬けにして、冷暗所で熟成及び発酵させたものにオリーブオイルを加えたアンチョビの原料。ケンゾー父が作っているものがまさにそれ。これを作っておくとパスタ喰う時に重宝する。
沢たまき:『ベッドで煙草を吸わないで』で有名な歌手&女優。『プレイガール』のオネエ役も有名。後に公明党所属の参議院議員となった。2003年8月9日、虚血性心不全により急死。
さとう珠緒:女優。1995年スーパー戦隊シリーズ『超力戦隊オーレンジャー』で、丸尾桃役でレギュラー出演。いまだにバラエティ番組で変身ポーズをするのだが、あれはちょいとイタイ。
ダスティン・ホフマン:俳優。1967年の『卒業』でブレイク。1979年の『クレイマー、クレイマー』などの情けない系男の役や、1995年『アウトブレイク』などの博士役が多い。吉田さんが歯医者嫌いの原因となった映画は1976年『マラソンマン』。ダイヤを巡る事件に巻き込まれたダスティン・ホフマンがなんにも知らないのに拷問される。拷問するのはローレンス・オリヴィエ。生きてる歯に嬉しそうにドリルで穴をあけるシーンはマジで痛い。
パイントとミニカップ:この二つのサイズがあるアイスクリームはハーゲンダッツ。ハーゲンダッツは1961年、ニューヨークにある小さなアイスクリーム屋を母から継いだReuben Mattus氏が作ったアイスクリームのブランド。しかし、誰袖たちが食しているアイスクリームの名称は明治乳業製のAyaのもの。