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まほうはせかいをすくわない  作者: 加藤岡拇指
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第七話「ヒビノイトナミハカワラナイ」


「大変だったか?」


 父親は家に帰ってきた。ケンゾーいろいろと聞きたいことがあった。櫓の上にいたもう一人は誰だったのか? 母親はなぜ突然居なくなったのか? 疑問は頭の中をこぼれそうなほど駆け巡っていた。なかでも一番聞きたいことがあった。父親は徹夜で打ち上げだったから眠いんだよと、早々と自室に引き上げていく。ドアを締めかけた父親がケンゾーを振り返った。


「少しは男になれたかい?」


 父親の言葉と同時にケンゾーの背後でぷっと笑い声が洩れた。ケンゾーが声のした方を向くと、笑いながらサムズアップする姉がいた。再びケンゾーが振り返ると、今度は頷いている父親の姿があった。


「なんだよ、またかよ。そうやっていっつもいっつも仲間外れにして……」


 父と姉が真剣な顔でやりとりをしていると、いつも疎外感を感じてしまう。それって母さんがいなくなってからのことだったような……。ケンゾーが何かを思い出しかけたとき、姉が肩に手を置いた。


「で、ほんとに男になったのかい?」


 途端に病室で自分を覗き込むレンムの顔が脳裏を埋め尽くす。申し訳なさそうでいて、少し気恥ずかしそうなレンムの顔。病室で目覚めた時、レンムは丸イスに座って器用に眠っていた。その姿が妙に可笑しかったのを憶えている。医者の話では丸1日意識が戻らなかったというから、ドクゾンビの攻撃は強烈だったらしい。目覚めてからしばらくは鼻の奥の方に腐臭がこびりついている気がして仕方なかった。おまけにゾンビに殴られた顎から首にかけて、奇妙な色のアザが浮き上がっていた。医者も診たことがないーーそりゃそうだーーアザのおかげで、精密検査をすることとなった。おかげで予定よりも退院するのが遅くなった。


「あのイカレ女は施設を出たり入ったりしてたんだとさ。入院中に看護士が目を離した隙にふいっと居なくなったらしいんだよね」


 飴玉をかじりながら、見舞いに来た如月さんが教えてくれた。


「わたしもよくは知らない。まあ、一方通行の友情ゴリ押しだったのは想像がつくけどさ。わたしにもそんな友達いたからね。っていってもあそこまでヒドくは無かったけど」


 如月さんはそう言うと、なにか恥ずかしいことでも思い出したのか、首を振りながら少しだけ赤くなった。


「詳しいことはレンムが教えてくれるよ。今すぐってわけにはいかないだろうけどね」


 起き上がれるようになると同時に、刑事が事情聴取にやってきた。特に打ち合わせをした訳じゃないけど、誰もドクゾンビがいたなんて言わなかった。レンムが谷山との因縁を語ってくれたのは、そのすぐ後だった。申し訳なさそうに、それでいて少し気恥ずかしそうに。


「なーんだ、まだなのかね。期待して損をしてしまった気分だね」


 ケンゾーはしばらくぼうっとしていたようだ。気がつくと姉が面白そうに、ケンゾーの顔を見つめていた。



 レンムは通勤快速に飛び乗った。ラッシュも終わった時間のせいか、簡単に席は見つかった。この時間じゃ急いでも遅刻は決定なんだから、もすこしノンビリすれば良かったかな。丁寧にマスカラなんかを塗ってみるのも……。レンムはそこまで考えて、慌ててカバンから手鏡を取り出した。まじまじと顔を確認する。やっぱり……。


 マスカラをつけ忘れている。レンムはしばし考えた後、大きなカバンからおもむろに化粧ポーチを取り出した。電車は揺れる。不規則な揺れの中でメイクをするのはやっぱり苦手だ。でも、短い睫毛のまんまみんなと顔を合わせるのは、なんだか恥ずかしい気がする。前に電車の中で化粧に挑戦した時は、案外うまく出来たんだから、今回もうまくいくんじゃないだろうか。この間はどうやったんだっけ? 電車の揺れに合わせて、ちょうど波乗りみたいな感じで、マスカラ塗ってたような気がする。


 レンムは化粧ポーチの中から、使い慣れたマスカラを取り出した。ゆっくりとキャップを回して、ブラシを筒の中から引き出していく。睫毛の間隔に合わせてでこぼこしていて、ちょいと先端が曲がったツヤのあるブラシ。これこれ。水に濡れても落ちないマスカラ。やっぱり、滲んでパンダになるのは嫌だもんね。


 前回は捜すのをあきらめた鏡を、今度はしっかり手に持つと、レンムは早速マスカラを塗り始めた。電車の揺れを体感しながら、慎重にブラシを睫毛に持っていく。急カーブで電車の揺れが激しくなった時は、間一髪でマスカラを顔から遠ざける高等技術まで繰り出した。右の睫毛を塗り終えたあたりで、レンムは妙な視線に気がついた。


え? ひょっとして、デジャヴュ?


 レンムはマスカラを塗ってるときに突然現れた同じ学校の男のコに、手首の動きが綺麗だと誉められたのを思い出したのだ。入学して少し経っていたから、まだ谷山を引きずってビクビクしていた頃だ。なるべく人と接しないように、最低限の言葉で喋るようになっていた。慣れない喋り方のせいで、言い廻しが妙に男っぽくなったんだっけ。周りからはちょっとヘンなやつと思われた。好都合だと思い、気にもしなかった。あまり話しかけられることもなくなった。谷山の束縛から解放された嬉しさと、再び彼女が自分の前に現れるんじゃないかという不安とがごちゃ混ぜになっていた時期だ。自分の周りにがっちりと防御壁を張り巡らしていたのに、そいつは苦もなくわたしの懐に入ってきた。おまけに家までやって来て、うちのじいさんも、母さんも、それから商店街のみんなとも仲良くなっていた。あ、知らないうちにキクちゃんとも顔見知りだったし。そいつのおかげでいろんな友達と出会うことになった。気がつくといつのまにか、男っぽい喋り方は少なめになっていた。友達を作ったせいで、また谷山がやってきた。あの頃の私は本気でそう思い込んでいた。入院中の谷山が、わたしの動向を知ってるわけがないのに。


 わたしは最後の最後まで怖がってばかりいた。でも、そいつが谷山とゾンビに囲まれているのを見たとき、必死に走っていたっけ。後はよく憶えていない。そいつは何もしないけど、いつも側にいた。一緒にいてあげてるとか、送り迎えをしてやったとかいう、相手を見下す接し方じゃなかった。なんとなく側にいるだけなんだけど、そいつが近くにいるだけで安心できた。よく考えると谷山の呪縛から救ってくれたのは、なんにもしてないんだけどそいつかもしれない。


 レンムは作業を一旦止めて、正面に立った視線の主の足元に目を向けた。和柄模様のスニーカー(あれいつもと違う。模様が金魚だ)、ポッケがごてごてついたパンツ(これはポケットが一番多い奴だよな)、肩から下げているのは昼に御飯があったかいまんま食べられちゃうランチジャー(出汁巻き卵入ってるかなあ)。見たことのある青いマント(やっぱり)。小脇に抱えているのはひょっとして……青い帽子ケンゾーじゃん


「な、何を見ている」


 レンムは笑いを堪えながらぶっきらぼうに言い放った。ケンゾーは少し考えてから、小さく頷いた。


「マスカラ塗ってるところを見てます」


 ケンゾーがにっこりと笑った。


「マスカラさ……」


「言うなってば」


 そういうとレンムは隣の席をぽんぽんと叩き、ケンゾーに座るように促した。ゆっくりと腰を下ろしたケンゾーがレンムのマスカラをずっと見ている。


「左」


「なに?」


「左はつけないの?」


「あ…つ、つける」


 レンムは慌てて左目の作業にとりかかる。ケンゾーに初めて出会ったときと同じ会話だ。レンムはやっぱり命令されたみたいに感じて、少しだけ腹が立った。



 カーテンの隙間から朝日が差し込んで、壁に斜めの光の線を描いていく。


ワンルームフローリングの床の上に敷き布団がぺたりと置かれている。金時は毛布にくるまってだらしなく眠っていた。最初はバランスが取れなくて苦労した右手のギブスにもなんとなく慣れてきた。ごろんと寝返りを打って、そろそろ起きなくちゃと考えるのだが、連日のコンビニバイトでくたくただった。ぐんにょり濁った頭で、無茶なシフトを組んだのは店長のやっかみ以外の何ものでもないと考える。


 なにかシンナーのような臭いがしている。同時にきゅーっきゅっというリズミカルな音がする。右手を誰かに持ち上げられて、胸の上に置かれた。玄関ドアの方が開閉する音が聞こえたのは、いつだった? 誰か来たのかなどと思ったのだが、どうにもくたびれていて起き上がることも出来なかった。やっぱり、誰かが部屋にいるんだ。でも、鍵は締めたからなあ。さっきよりもシンナーの臭いがきつくなった。同時にお腹の上に重いものが乗ってきた感じがする。さすがにぐんにょりした頭でも、おかしな状況だということには気がついた。


 しょぼしょぼと目を開けると、誰かが自分の顔をのぞきこんでいる。焦点のあった眼に映ったのは、店長のやっかみの原因・誰袖の姿だった。ギブスに楽しそうにマーカーでペイントしている。


「おはよございます」


 左手でこしこしと眼をこすりながら、金時がもにゃもにゃと呟いた。誰袖は大きく頷きながら、茶色のマーカーをギブスにきゅいーっと走らせている。よくみると右頬に茶色いマーカーの汚れが走っている。誰袖は少し遠目にしてギブスをしげしげと眺めている。ニシシと笑う誰袖は、コンビニ袋をごそごそとやって、取り出したアンパンを金時の額にのせた。


 金時が病院に担ぎ込まれてから、退院するまで身の回りの面倒をいろいろと見てくれたのは誰袖だった。別に頼んだわけでもないのだが、退院後も自由に身体を動かせない金時をあれこれと助けてくれたのも誰袖だった。知らないうちに誰袖は金時のアパートに橋頭堡を築いていた。金時が見たことのない歯ブラシ、誰袖専用ーー筆文字で大きく“唐茄子屋”と書かれているーー湯呑み、箸に茶碗ーーこちらには“稲川千両幟”。落語マニアだったのは意外だったーーまでが持ち込まれていた。金時もヘンだとも思わず、ごく自然に二人で過ごすようになった。


 騙されてる? 騙されてるんでもアンジェラさんならいいかな、金時の正直な気持ちだった。


 時々、金時は思い出す。よくまあ、ゴブリンと素手でやりあったもんだ。なんであんなに意地になったんだろう? 谷山のレンムに対する異常な愛情になんとも承服しかねるものを感じていたからかも知れない。気がついたらゴブリンを殴ったり、蹴ったりしていた。じりじりと谷山に迫って、その手に握られたカードをむしり取ったところまでは憶えている。手首をねじり上げたときの谷山の瞳は悲愴な想いに塗り込められていた。飼い主を無くした犬の瞳。でも、飼い主の言うことなんか聞こうともしなかった。そのくせ飼い主が居なくなったら、寂しくて生きていけないと大騒ぎするような瞳。小さい頃に見たことがある瞳。自分を幼稚園から連れ出したお姉さんの眼と同じ色。後から親父の愛人だったと知った。死ぬつもりだったらしい。


 おまえらの愛のベクトルはおかしいよ。


 谷山が逃げてしまった後、気がついたら誰袖の顔が目の前にあった。視界が半分真っ赤なのは、血のせいだとしばらくしてから知った。誰袖の眼から大粒の涙が落ちてくる。視界に迫る涙が、途中でゆっくりと球体に変わっていく。誰袖の後ろで金刺が携帯に向かって何やら叫んでいた。なんで俺はあの時、金刺にカードを渡したんだろう? 今、カードはどこにあるんだ?


「豆色に塗ってみましたあ」


 誰袖ののんきな声に我に戻った金時は、片ひじをついて身体を起こした。額にのっていたアンパンがぱさりと床に転がる。ギブスをみると確かに金時豆のような茶色に塗られていた。金時は爺ちゃんが持ってたぼろぼろの本を思いだした。妙に暑苦しい、右腕だけサイボーグの出来損ないなヒーロー。


「って、これじゃロープアームだよ」


 誰袖はロープアームがどんなものか知らなかったが、腕組みをするとなるほどと大きくうなずいた。



 周りはみんなカツラだって気づいているのに、カミングアウトのタイミングを逃した司会者がなんだか喋っていた。なんとなく夜はさみしいんで、いつもつけっぱなしにしているテレビの音だ。如月はグテーと這いずるようにベットから起きだすとテレビを消した。プラスチックが高級品だった時代の、曲線で構成されたインテリアが雑然と置かれた部屋。パソコンを立ち上げるとインターネットラジオの、お気に入りの局をクリックする。流れてきたのはハモンドオルガン独特のミルミルした音色、もの哀し気な男の高い歌声。


「怪奇骨董音楽箱~♪」


 如月は適当な節回しで歌いながら、ロリポップスタンドからチュッパチャップスを抜き出して口の中に放り込んだ。こういうのはコーシンなんとかっていうんだっけ。なんかレンムがそんなことを言っていた。


「わたしゃ、も少し背も欲しいし、愛だって欲しいっての♪」


 フローリングの床にでんと置かれた、曲線が可愛らしい冷蔵庫の前にちょこんと座る。如月はおもむろに冷凍庫から、ラップで小分けにしたシジミを取り出した。直系18センチの小振りの雪平鍋ーーこの表面の凹凸が美しいのだーーに薬缶からお湯を注ぎ、ちょぽんとシジミを投げ入れる。ちちちっとガスを点火する。


 谷山事件は発端こそ、バンドが関係してたけど、後はほとんど蚊帳の外だった。金時とケンゾーが襲われたことも、後になってから知らされた。しかし、みんなが落ち込んでるからって、ウチに鍋をしに来るんじゃないよ。今回は特例ってことで認めたけど、今度前振りもなくされたら、幻獣闘技じゃないや、厳重抗議だ。でも、ケンゾー姉さんの持ってきたカニ、旨かったなあ。菊乃ちゃん、可愛かったなあ。地酒、おいしかったなあ。前言撤回。まあ、貢ぎ物がある場合は良しとするか。


 アクを取って、塩をふって、ちょこっと醤油をたらす。お椀にシジミ汁をよそって、ちゃぶ台の前にちょこんと座る。一礼して、ずずっと飲む。生き返る。


 谷山がレンムに執着していたのは解決したからいいけど、モンスターを実体化しちゃう力って、どうやってたんだろう? 沙E弩の話じゃそんなプログラムはあるわけないらしいんだけどなあ。


 ベランダの引き戸、ガラスをぺたしぺたしと叩く肉球の音がする。慌てて如月が引き戸を開けてやる。ゆっくりと部屋に上がり込んできたのは、いまどき珍しい三毛猫だった。猫は元気でやっとるようやの、そんな感じで如月を眩しそうに見つめた。


「今日は早いね。さばみそ」


 さばみそと呼ばれた猫は、うにゃにゃっと大きく伸びをした。



 金刺はVespertineに籠っていた。フリーマーケットの前日は、学校を休んで準備をすることが多い。しかし、今日は平日だった。金刺は作業台に座っているわけではなく、パソコンの前でウンウン唸っていた。金刺がかなりの金額を注ぎ込んだ自作パソコン。Vespertineの会計をするだけマシーンとしては、ぶっちぎりでハイスペックだった。昔、チーターだった金刺の知識と技術を総動員しても、マルクトカードは心を開いてくれなかった。


 血がこびりついたマルクトカード。こいつがどうにもデータ解析をさせてくれないのである。マルクトカードも内蔵されたチップを使ってデータのやりとりが基本のはずだが、記憶されたデータを閲覧することも拒否してくれる。


「なんなのよ、このカード。ゴブリンの画像データなんて、どうでもいいのよ。もっと奥。その奥を見せてみなさいっての」


 金刺はモニターを睨みつけたまま、動こうとしなかった。


「消したはずのものがひょんな事で顔を出す。そういうことってあるんじゃないですか?……いや……ハイ。でも、ええ……先生がお辞めになったのは重々承知してます」


 午後のマルクト学園。受話器を小首をかしげて受けている女性の姿があった。タイトなワンピースタイプの制服。翔野くるみ名誉校長(江戸川区出身)である。ケンゾー達が通うマルクト魔術学園を創設したのは、校長が魔術専門学校アヌビス魔法学校ーー比較的真っ当な授業をしていたらしいーーを卒業してすぐのことだったという。その当時、一介の専門学校生が、いきなり専門学校を創設するなどできるわけなどない。なにかしら大きなバックがあるに違いないと噂されていたのも事実。それ以外にも、くるみ校長個人を的にした誹謗中傷もいろいろとあった。魔法の専門学校が濫立した当時は珍しいことではなかった。


「でも、あれはアブナイからって……もしもし、もしもし? アンジョウ先生……ちっ」


 くるみ校長は受話器をフックに叩きつけた。どっしりとしたデスクに両手をつくと、イライラと鍵盤を引くように指を弾く。電話の横にはどうやって手に入れたのかは知らないが、谷山が使っていたゾンビカードがあった。


「あの女ぁ……ぜーんぶこっちに尻拭いさせる気ね。ヘルパー代は高くつくから、覚悟しといてよ」


 くるみ校長のピキピキとした感情に反応したのか、ゾンビカードが幽かに脈打った。



 ランチジャーから次々と容器が取り出されていく。玄米御飯、味噌汁、出汁巻き卵、豚の生姜焼きにサラダ。テーブルにうやうやしく、おかずを並べていくのはケンゾーではなくレンムだった。


「あれ、ケンゾーは?」


 声をかけたのは煮豆色のギブスをした金時。レンムは食堂の入り口を指差す。そこには携帯で何やら喋っているケンゾーの姿があった。


「ケンゾーとお弁当の取り替えっこをかけて、幻獣闘技!」


「え? レンムが勝ったの」


「おーっす!」


 レンムが両手を大きく広げて、妙ちきりんな拳法の型を真似て陽気に答えた。


「今日のケンゾーのお昼御飯はタンドリーチキンサンドなのだよ」


「あいつ、最近スランプだなあ」


 レンムの顔が少し曇る。ケンゾーに実力で勝ったとは思っていない。谷山事件以降、なにかこう、言葉ではうまくいえないのだけど、ケンゾーは悩んでいるらしいのだ。心此処に非ずなたたずまいはいつものことなんだけど、一個だけネジがゆるんだ感じというか、とにかくケンゾーらしくないのである。悩みを打ち明けるわけでもないので、レンムはなす術がなかった。


 しばらくしてケンゾーがテーブルに戻ってきた。何か思案顔をしている。


「ねえ、金時。“さいーど”って知ってる?」


「沙E弩ってチーターの? 一度だけ会ったことがある。やつがどうしたの?」


「渡すものがあるっていうんだけどさ。なんだろね」


 右手に持った携帯をくるくる振りながら、ケンゾーが首を傾げる。


「吉田がらみじゃないの」


 そう答えたのは、いつのまにかテーブルに座っていた如月だった。おかずを取られまいとするレンムだったが、如月は素早く出し巻き卵をゲットすると口の中に放り込んだ。


「沙E弩のこと教えてくれたのは、リストラくんだよ。たいした情報にもならなかったけどさ、『こんなことしちゃダメなんだ』って大分勿体ぶってたじゃない。やっぱり、ストリートバトルだけじゃないんだよ。もっと他になんかあるんじゃないの?」


 事情を知らない、ケンゾーとレンムは金時にかいつまんだ説明を受けた。レンムは仕返しとばかり、如月が手にしたチュッパチャップスにマヨネーズを塗ろうとする。しかし、話の中に谷山の名前が出ると一瞬動きが止まった。


「行ってみるしかないか」


 そうつぶやいてケンゾーがタンドリーチキンサンドを齧る。ケンゾーはタンドリーチキンといっても、申し訳程度のレタスと酸っぱい唐揚げもどきを想像していた。ところがレンムが買ってきたタンドリーは、本格的な味だった。


「弁当はサンドウィッチもいいなあ」


 ケンゾーのつぶやきに、まずレンムが反対した。つづいて如月も。二人はケンゾーの和風ベースのおかずをえらく気に入っていたのだ。



 誰袖と金刺はVespertineで作業をしていた。電話を取ったのは誰袖だった。晴れやかだった誰袖の顔がちょっと膨れツラになった。


「金刺ぃ、マメちゃんから」


「え? ソデちゃんじゃないの」


 誰袖は首をブンブン振って否定する。金刺は何の用だろうと受話器を受け取る。


『齧り屋キムに仕事をお願いしたいんだけど』


「久しぶりに聞いた。その通り名」


 金刺の顔がチーターのそれに変わった。


「渡すものはこれ。吉田くんに頼まれた」


 沙E弩はケンゾーにカードリーダーを手渡した。沙E弩はこのリーダーで、マルクトカードの簡易改変プログラムを作ったという。


「あのカード、このリーダーじゃないといろいろさせてくれないんだよね。変なカードだよね」


 ケンゾーは無言で沙E弩の店を出た。同行していたレンムたちが慌てて後を追う。カードリーダーを、母の仕事部屋で確かに見ていた。父親に尋ねることがまた増えた。


 マルクト学園にスペシャルクラスは存在した。最初は3年間の修学期間を終えた者が編入する場所として設けられた。しかし、魔法の専門学校を卒業したからといって、就職が有利になるわけはない。占い師になるのならば占星術なり、八卦なりの専門学校があるわけだ。学校に残ったとしても、必ず学園の教師になれるという保証もない。スペシャルクラスに残ったとしても、決していい目が見られるわけでもない。そんなわけで創設当初から人気は低かった。


 最初の数年は確かにスペシャルクラスは存在した。現在は学園に正式なスペシャルクラスは存在しない。それでは生徒達の噂に登るスペシャルクラスとは、果たしていかなるものなのか? スペシャルクラスは学園が運営しているものだと、吉田さんは思っていた。授業料の免除、就職の優先的斡旋など、様々な特権が受けられる。そう聞いたからこそ、沙E弩に取り入ってカードの改変を可能にしたのだ。そのおかげでM-1で優勝も出来たし、スペシャルクラスへの編入も許された。しかし、スペシャルクラスは学園内にありながら、学園の管轄外だった。その昔、スペシャルクラスの閉鎖が決定したとき、スポンサーを捜すことを条件に存続を認めるための、幻獣闘技が行なわれたのだという。スペシャルクラスが勝利した。そりゃそうだろう、くるみ校長が不在の時に行われた幻獣闘技だったのだから。


 スポンサーの正体は誰も教えてくれなかった。別に資金提供者が誰か知らなくても、きちんと特権が約束されるのならば構わない。吉田さんはそう考えた。先輩が管理責任者だという実験を目撃するまでは。


 今、吉田さんはどことも知れない倉庫の一室にいた。いや、幽閉されていた。元々、吉田さんは狂った価値観は持っていない。ごく普通、当たり前の善悪の区別を基準にしている。吉田さんから見れば、スペシャルクラスは悪だった。悪に徹する努力もしたが、到底無理だった。その結果が今の状況だった。


 クラス委員長の桐崎が、テーブルを挟んで吉田さんと向き合っていた。桐崎は一重で切れ長の冷徹な眼で、吉田さんをじっと見つめた。恐ろしく長い沈黙が、二人の間を流れた。空気はカビ臭く、どんよりとしていた。


「どこへ?」


「は?」


「借り出したでしょう? あれ。今、何処ですか?」


「な、なんのことだか、私にはさっぱり」


 桐崎は溜め息混じりに笑うと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。丈の長い特製マントがゆらりと揺れる。机の上に乗った吉田さんの左手を撫でるように、桐崎の右手が覆う。耐えられないほど長い沈黙が続いた。吉田さんが堪えられずに言葉を発しようとした瞬間。


 ぱきり。


 室内に乾いた音が響いた。吉田さんの左手小指があらぬ方向にねじ曲がっていた。何が起こったのか、吉田さんは理解するのに時間が必要だった。事態を理解した吉田さんは、途端に呼吸が乱れた。普段はかかない種類の気持ち悪い汗がどっと分泌される。桐崎は机から少しだけ身を引いた。マントの裾が大仰な時代劇の立ち居振る舞いのように、彼の後を追う。


 再びの長い沈黙。


「あれがないと御存じのように私たちは非常に困るわけなんですが……御存じないですか?」


 ぱきり。


 ぱきり。


 乾いた音がカビ臭い空気を、かすかに振動させた。



 ケンゾー達はあれこれと動いているうちに、夜になっていた。ケンゾーの家は大賑わいとなった。ケンゾー、父&姉、レンムに如月。みんながダイニングに勢ぞろいして、カードリーダーを囲んでいる。


 煙草、喫うよ、とみんなに断りを入れてから、ケンゾー父はハイライトに火をつけた。


「『よく ここまで たどり ついた、勇者どの』まあ、そんな感じだな」


 父はその昔大流行りしたRPGゲームのレベルアップ音に合わせて、煙りを吐き出した。ケンゾーはじっとカードリーダーを見つめている。


「母さんに関係あるんだろ?」


「うーん、あるといえば、むしろ勇者どのに関係が深いかな」


 姉がみんなの前にコップをくばり、2リットルのペットボトルをでんと置く。後は各自でということらしい。


「そんじゃ、話そうか。いやあ『スター・ウォーズ』みたいで、個人的には恥ずかしいんだよね」


 ケンゾー父が頭をかきながら自嘲した。

 

 同時刻。金時は金刺に調べてもらったーーというかデータを盗み出したんだがーー住所の前にいた。これはケンゾーにも、レンムにも任せられない。


「なんかなあ、気になるんだよなあ」


 吾妻病院。


 谷山が療養中の病院だった。


---


用語解説

唐茄子屋:落語。人情話。途中詰まらないので最後まで演じられることはまずない。個人的には立川談志のやつが好き。


稲川千両幟:落語。人情話。


ロープアーム:『仮面ライダーV3』43話より登場したライダーマンの武器・カセットアームのひとつ。ストライプの入った瓢箪型が特徴で、先端に武器をつけたロープを射出することからロープアームと呼ばれる。ライダーマン=結城丈二を演じた山口暁氏は、なんか知らんが妙にハイテンションな演技をする役者だった。風見志郎役の宮内洋とどっちがテンション高く演じられるかを競い合う、テンション合戦になっている。もう、なんだか異様な世界です。必見。


怪奇骨董音楽箱:ピーター・ガブリエル在籍当時のジェネシスのアルバムタイトル。


わたしゃ、も少し背も欲しいし、:コミックバンド、玉川カルテットの十八番。正しくは「金もいらなきゃ、女もいらぬ、私ゃも少し背がほしい」である。


さば:スズキ目サバ科のうち、サバ類の海魚の総称。味噌煮もうまいが、〆さばが旨い。


江戸川区:東京東部に位置する23区のひとつ。人口655,429人(2004年6月1日現在)。江戸切子、江戸風鈴、熊手、江戸凧などの伝統工芸品が有名。オーストラリアのゴスフォード市とは姉妹都市である。


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