第五話「ハダシノショウジョニトモハナイ Part2 of 2」
7
お隣さんで昔からの友達なのに、レンムはわたしをいつも避ける。なぜ、わたしの交通事故にレンムが負い目を感じるのか、理由はほんとにわからない。
なぜ、レンムの友達にあんなことまで喋ったんだろう? 理由を話してくれないレンムに、ちょっとだけ意趣返しな気分もあったんじゃないかな。レンムの友達がどんな人達なのか? 興味があった。レンムが恋する乙女の視線--昔からアノ眼だった。本人は鈍感だから気づいてないことが多かったんだけど--を送る王子様=ケンゾーさんと話をしてみたかった。
ファッション誌をぱらぱらとめくってみる。また表参道の交差点で撮影した読者ファッション紹介とかいってページ数稼いでる。どういう基準で選んでいるのか知らないけど、特に面白くもないのよね。あんまり参考にならないし。単にお暇するきっかけで本屋に寄ると言っただけだったから、ほんとにほしい本があったわけじゃない。本屋を後にした菊乃は見慣れた通りを見渡した。鈴蘭型の街灯がぼんやりと商店街の路面を照らす。菊乃は思う。
レンムは幸せだ。優しい人達に見守られている。でも、それで満足してちゃだめなんだと思う。今の私は力になれないけど、いつかね。
菊乃は商店街をこつりこつりと帰路に着いた。
左腕が痺れて目が覚めた。落ち込んでそのまま横になった。レンムは寝ながら泣いていたらしい。
「泣き寝入り…」
ゆっくりと起き上がろうとするのだが、すってんころりと倒れてしまった。倒れた拍子に椅子の脚に頭をぶつける。左腕の感覚がまったくないのに、いつもどおりに起きようとして倒れたのだろう。
「ま、間抜けだ」
左腕の血液の循環が始まり、徐々に感覚が戻ってくる。鈍かったシナプス反応が逆に鋭くなって、左腕に集中する。ようは指先で突かれただけでぴりぴりと反応してしまうアノ状態だ。畳の上で上半身を起こして、左腕をさすりながらつらつら思い出す。あれは修学旅行だったのだろうか?
それとも無尽の旅行だったのか? どっかのお寺で座禅をやらされた。
ケッカフザとかいう妙な形に足を組まされて、小一時間座らされた。早く自由時間にならないかとか、そんなことを考えながら過ごした気がする。座禅が終わった時、レンムは動けなかった。ケッカフザの足を外すこともできないのだ。足首を掴んでなんとか解こうとしているのだが、うまくいかない。段々と痺れが足を覆い始める。足を外そうと躍起になるレンムの前に誰かがちょこんと座った。その誰かが人さし指をそっとレンムの足に伸ばしてくる。ああっ、や、やめて! 声を出したいのだが声にならない。声の振動ですら足のピリピリ感覚が増幅しそうな感じだったから。
「レンムはダメねえ」
そう言って人さし指でつんつんと足を突いたのは、小松菊乃だった。痺れの激痛ともカユミともなんともつかない感覚が頭の中を駆け巡る。レンムは涙目になった。菊乃はさんざん指先でレンムの足を突いてから、足を解くのを手伝ってくれた。足の痺れもひいてきて、少し元気が出た。
「絶対に仕返しするもん!」
「さて、いつできるのかな?」
「絶対するもん!」
菊乃は嬉しそうに笑った。わたしは少し悔しそうに、つられて笑った。
交通事故で菊乃は二度とケッカフザで座れなくなった。
仕返しはもう出来なくなったんだなあ。
レンムは左腕をさすりながらぼんやり思う。今でも菊乃は友達なんだろうか?
8
「無理っ! もう半分あきらめ状態」
如月がステージ横の楽屋で叫ぶ。チュッパチャップスを加えたまま、不機嫌に椅子に座るとぺこんと足を投げ出した。八方手を尽くしてギターを探したが、そうやすやすと見つかるわけもない。スイッチブレイドは技巧派集団だった。
ボーカル如月のゴシック系なビジュアルに騙される輩が多いが、演奏は緻密かつジャジー、芸風はどちらかというとノイズ混じりでグラムなノリのプログレッシヴ・ロックだった。昔はキーボードもいたのだが、クラシックに専念すると宣言してバンドを脱退。以降、キーボードは如月が兼任している。
如月のハモンドオルガンやKORGさばきも堂にいったものだが、古参のスイッチブレイドファンに言わせると、昔はもっとすげえサウンドだったという。スイッチブレイドは下手をするとプロ顔負けだったりする連中が揃っている。言ってしまえば敷居が高いのである。技術とセンスがないギターは必要ないのだ。そんなスイッチブレイドのギターを引き受けるというのは、ギタープレイヤーにとってはハイリスク過ぎる。そんなわけでギターが見つからないまま、如月智子と愉快な仲間バンドはずるずると学祭前日を迎えてしまっていた。
如月はチュッパチャップスをガジガジと奥歯で砕きながら考える。
しかし、メンバー各位がギター探すって言ってたのに、なんでこうノンビリ、まったりした雰囲気なんだろう? みんな危機感はないのかね? 必死なのはわたしだけ? しかし、なんで誰袖さんは私らを、ここに呼んだんだろうか? って、呼んだ本人はどこだよ。
誰袖に言われるまま、如月智子とスイッチブレイドはライブ会場にやってきたのだった。
「あ、みんなもう集まってる?」
そう言って楽屋に現れたのは小さなギターケースを持った金時だった。如月がハテナマークを頭の上に瞬かせた状態でフリーズする。続いて現れたのは誰袖と包帯で右腕ぐるぐる巻きのハウさんだった。
「何が始まるの?」
誰袖が大きな口でにんまりと笑い、ハウさんが金時とうなずき合う。金時は小振りのギターケースから、ウクレレを取り出した。
「ウクレレって……」
如月はきょとんと3人を見上げた。金時はウクレレのボディ側面にプラグをつなぎ、アンプの音量を調節し始めた。
「2900円の安いやつにね、ピックアップを仕込んであるんだ。ボディが狭いんでピックアップがうまくつくか心配だったんだけど、なんとかくっつけた。お手製のウクレレス・ポールだね。安物のチューニングペグも取り替えたから、調弦が狂うことも少なくなってるよ。最初からいいもの買えって言われてもね、改造しちゃうつもりだから、やっぱり勇気がいるでしょ」
金時は誰も聞いていないのに説明を始める。どうやら緊張しだすと喋り倒すクセがあるらしい。ノイズ混じりのハナコサーンがアンプから響く。
「まさか……」
如月はちょっとだけ不安気味、ちょっとだけ期待気味で口半分開けたまま固まっている。金時はウクレレを構えるとハウさんを見遣る。ハウさんが大きくうなずいた。
金時がウクレレス・ポールをがっ、ぎゅいーんと弾き、見事な運指でメロディを刻み始めた。金時が弾き始めたのはキングクリムゾンをリスペクトしたスイッチブレイドの代表曲『纐纈王の城』だ。エレキギターに改造したウクレレのせいか、音色は微妙に違って聴こえる。しかし、金時のウクレレは、ハウさんのギターを完コピしていた。
「ハウさんほどうまくいかないけど、こんな感じかな」
弾き終えると金時は震える右手を大げさににぎにぎする。そんな金時を微笑ましくみながらハウさんが言った。
「ギター貸すから、頼んだ」
「頼まれた」
金時は即答した。
「やっぱりLOW Gだね」
「HIGH Gでもいけないことはなかったけど、TOMOが歌うときびっくりするだろうし。LOW Gで正解だったな」
金時の言葉にハウさんがうなずく。
「だったなって、あんたらいつのまにタッグ組んでたのさ」
「地下1階の謎のバー」
そこで、誰袖とハウさんと密談を重ねた。小さい頃にウクレレの魅力に目覚めた金時は、お小遣いで購入したウクレレを弾きまくっていた。血の滲むような特訓の成果というわけじゃないけど、ウクレレでもってそこそこいろんな楽曲を弾きこなすことが出来るようになっていた。謙遜して神様のオオタさんには程遠いとはいうけれど、金時は案外、プロ級の腕前を持っていたのである。
あるとき、金時は考えた。一人で弾くのも楽しいが、やっぱり仲間はほしいと。しかし、弾きこなせる仲間が欲しいと思っても、ハイレベルなウクレレ弾きが早々いるわけもない。如月やハウさんには悪いけれど、金時は一度でいいからバンドという形で演奏がしてみたいと頼み込んだ。ハウさんはそんな金時の申し出に最初は戸惑った。ウクレレでハードなプログレ弾けるのか? っていう疑問もあったし、ハウさんはウクレレプレイヤーをちょっとだけ見下してもいたのである。しかし、金時がウクレレでスイッチブレイドのギターパートを完璧に演奏する姿を見せられて考えを改めた。密かに二人が特訓していたのは言うまでもない。
「練習は大変だったよ。なんたって、スイッチブレイドのギターは……」
金時はハウさんのギターをウクレレ仕様に変えながら答え始めた。
「な、なによ、うちのギターはなんなのよ」
如月は自分だけおいてけぼりで面白くない。金時がプラグを差し込むとエレキウクレレが切なく泣き叫んだ。
「じゃじゃ馬ソロ、でしょ? ハウさん」
拇指立てて、にんまりのハウさん。ちょっと遅れて誰袖もにっこり。如月は予想もしないところからギターが見つかったという事態をようやく理解した。
同時に拳を握りしめてワナワナする。しゃぶっていたチュッパチャップスががりごりと音を立てて噛み砕かれていく。ハウさん、誰袖、金時の3人の脳裏に、余計なことをしちゃったのだろうかと不安が過った。
突然、如月が金時に飛びかかった。頭を右脇にがっちりと抱え込む。頬骨を極める、ガチンコなヘッドロックだ。
「マ、マメちゃんが、ヘッドロックされてるー!」
誰袖が悲鳴まじりに叫んだ。
「愛してるゼーっ! マメめーっ!」
如月が歌うように絶叫した。バンド仲間は知っていた。如月は上機嫌でテンションが上がると、誰彼構わずヘッドロックをかけだすのだ。
かけられている相手はたまったものではない。気配を察したハウさん他、バンドメンバーの姿は楽屋になかった。誰袖は最初はうらやましいと思ったのだが、苦しそうな金時の姿を見て考え直していた。如月と誰袖の目が合った。
金時と誰袖が頬を抑えながら、苦笑いを浮かべている同じ時刻。ケンゾーは台所で腕まくりをしていた。
「これでいいのかね?」
姉がケンゾーにたずねた。レンムの送り迎えに忙しいケンゾーに代わって、姉が買い物を引き受けていた。テーブルの上には山積みの食材が並んでいた。
ケンゾーは食堂の仕出し弁当を手伝うことになっていた。食堂で弁当を食べる権利をかけた5度目の戦いで、ついにケンゾーはマスターに負けてしまったのだ。マスターから学祭で仕出し弁当屋を手伝うという条件で、今まで通り弁当を広げてもいいという許可をもらうことができた。おかずの下ごしらえはある程度、自宅でしていかなくては間に合わない。そう考えたケンゾーは姉に頼んで、食材を買い揃えてもらったのである。
「うん、ありがとう」
ケンゾーのお礼に姉は少し嬉しそうだ。
「スーパーで買い物というのも面白いもんだな。前に言ってた黄色い弁当作るのかい?」
黄色い弁当とはレンズ豆のカレー煮、パンプキンマッシュ、さつま芋のワイン煮、出汁巻卵といったおかずが全て黄色で統一されたもの。以前からケンゾーはやりたかったのだが、会社務めしていた姉から、そんなことで同僚に注目されるのは不愉快だと禁止されていた弁当だった。姉が会社を辞めた今、ケンゾーの熱い想いを止める障壁は無くなっていた。
「うん、黄色や赤や黒もあるよ。赤はトマト、ニンジン、パプリカあたりがメインになるんだよ。黒はごまやひじきや昆布」
「ふーん。あ、明日さ、わたしも学祭に行っていいかな? ゴスロリっちのライブも見たいし、黄色い弁当も食べてみたいし、何よりレンムちゃんに会ってみたいんだよねー。たぶん、わたしと正反対の性格とみた」
「うーん、あんまり来て欲しくないんだけどね」
「へー。美人な姉の化けの皮がはがれるところは見たくないと?」
「まあ、そんなとこ」
「だいじょうぶだって、こっそり覗くだけだからさ」
姉の大丈夫ほど心配なものはないとケンゾーは密かに思った。
9
夜明け少し前のマルクト学園。
妥協を許さない如月によって、スイッチブレイドメンバー及び金時は、徹夜に近い状態でバンド練習につきあわされた。当然、全員ヘロヘロ。取り敢えず帰って一眠りしたいのだが、お腹はミョーに空いているといった状態だ。
てなわけで、フリマの準備があると先に帰った誰袖を除く如月智子と愉快な仲間バンドは、学園近くのアンナミラーズへと出かけたのである。
「ハウさん、あのコの足首。タマンナイねえ」
「おおー、マメっ! あのムネ、すごいよねー」
「腰、細ーっ!」
などと如月はオヤジノリでウエイトレス鑑賞に夢中。一方の男連中はといえば疲労困憊、栄養補給最優先でひたすら甘いパイにかかりっきり。アップルパイのシナモンが絶妙だ、いやチェリーパイはやっぱりアメリカンチェリーに限る、チーズケーキパイもいいがレアチーズもなかなかとスイート談義に花を咲かせている。スイッチブレイドの座ったテーブルだけ、男女リアクション逆転の図が展開されていた。
商店街に面した凸面鏡に朝日が反射して、路面に卵のような淡い模様を映し出す。
ケンゾーは始発を乗り継いで結野山商店街にやってきた。思ったよりも弁当の仕込みに時間がかかった。大きなリュックを背中にケンゾーは、急いで明樂へ向かう。半分開いたシャッターの前に人影が見えた。レンムは逆光の中で立ち、長い影を商店街の路地に落していた。
ケンゾーは早足でレンムに近づいていく。レンムが手を振って挨拶する。
その後ろから爺さんが姿を見せた。手には重箱を包んだ風呂敷を持っていた。
「おう、青年。今日もよろしく、な」
「おはようございます。みんなのお弁当作ってたら、遅くなっちゃいました」
うんとうなずいた爺さんは無造作に、風呂敷包みをレンムに手渡した。
「あ、おい。これ……。な」
「なに?」
「そりゃ、うん。みんなで……なかよく、ね」
麩饅頭が入っているからみんなで仲良くたべなさい、ということらしい。
それを見ていたケンゾーがリュックの中から、使い捨てパックに詰めた弁当を取り出した。口元だけで笑いながら爺さんに手渡す。爺さんは片手で受け取り、弁当をしげしげと眺める。やはり爺さんも口元だけで笑う。
「無尽で集まりがあるから、そん時にいただくよ」
レンムはそんなふたりのやりとりをうらやましそうに眺めた。端から見たら爺さんと孫にしか見えないんだけど、本当は同好の士というか、友人というか。爺さんとケンゾーの男同士の友情はすがすがしくていい。レンムは小松屋の2階、菊乃の部屋があるあたりを見上げた。
わたしの場合はどうなんだろう?
10
学内に設置されたスピーカーにノイズが混じる。
『あーー、うーー、ねえ、これもう入ってるの? ……あ、そう。
おはようございます。校長の翔野くるみです。毎年のことですけど、ほぼ徹夜で準備された学生のみなさん、ご苦労さまです。それじゃ、今年も事故なんか無いように、マルクト学園の学園祭を楽しみましょう。学祭期間中の幻獣闘技勝者の獲得ポイントは2倍になります。M-1は飛び入り参加大歓迎でーす。ちなみにわたしは校内ぐるぐる回ってますんで、幻獣闘技挑戦者待ってまーす』
こうしてくるみ校長の開会宣言と同時に、陽気な喧噪と無邪気に心が踊るマルクト学園の学祭は始まった。
敏腕ママさんの根回しのせいか、レンム達のコスプレ喫茶は大繁盛となった。
早い時間から満席状態が続いている。忙しく立ち働くレンムは急に膝頭を掴まれた。レンムは一瞬だけパニくったが、手の主が如月と知ってほっとする。
「このデンセンがたまらなくセクシーやね」
レンムの左脚のストッキングが、ひざ小僧から太腿にかけてデンセンしている。レンムはあまりの忙しさに、デンセンしたストッキングを取り替えているヒマがなかったのだ。如月はバンド人格に変貌中らしく、ギラギラと目を輝かしていた。
「いやあ、朝方アンミラに行ったんだけど、グッと来るウェイトレスはいなかったなあ。レンムはまるでアンミラ制服を着るために生まれてきたようだね」
ゴムでツインテールに結んだ髪の毛。可愛らしいゴシックドレス姿。如月がロココな姿でオヤジ発言をする様はむちゃくちゃにギャップの塊だった。
「如月さん、それ全然誉めてないし。可愛い格好でオヤジだし。このセクハラゴス娘」
如月はニシシと笑う。ゴシックドレスのうえ、仕種がコケティッシュな分、如月の妙なオヤジっぽさがレベルアップして見えた。
「TOMOさんたら、どこ行ったんだろう?」
誰袖は学園内で開催されたフリマにVespertine出張所を出店中だった。誰袖は如月にライブ衣装に着替えさせて、あとはリボンを結ぶだけの状態まで仕上げたのだ。しかし、如月は中途半端な状態でどこかへ遊びに行ってしまったらしい。金刺は如月に借りたというマルクトカードデッキに夢中で、彼女がいなくなったことにまったく気がつかなかったという。Vespertineはそこそこの人気があるので、誰袖も不用意に店を空けるわけにはいかなかった。
M-1が開催される第1幻獣闘技場。その横の男子トイレ。洋式トイレに座っているのはリストラ吉田さんだった。吉田さんは手にしたPDAを操っていた。PDAから伸びたデバイスはカードリーダーに繋がっている。吉田さんの額に汗が滲む。作業終了を告げる表示を見た吉田さんが大きく息を吐き出した。
喫茶部ではマスターとケンゾーが弁当の準備をしていた。
「オハヨー。もう寝不足だよ」
現れたのは金時だった。如月達とアンミラで栄養補給した後、バイト先に顔をだしたのが運の尽き。金時は学祭前コンビニ修羅場之絵巻に巻き込まれてしまった。そんな愚痴をケンゾーにもらしていると、目の前に弁当が積み上げられた。
「なに、これ?」
「うん、お昼御飯。ゴスロリさんとこの分だよ」
ケンゾーは仲間の弁当を用意していた。金時は寝ぼけながら弁当を受け取る。
その時、金時は右肩に誰かの頭が乗ったのを感じた。
「ケンゾー、わたしの分も」
金時は自分の右肩に乗った長髪の女性と目があった。かなりの美貌が数センチの距離にある事態に、金時の寝不足もすっかりどこかへ飛んでしまっていた。
「どうも、ケンゾーの姉です。あなたがアンパンさんでしょ」
「は、はい」
金時の顔がにやけながらケンゾーの方を向いた。ケンゾーが済まなそうな顔で金時を見ている。その横で喫茶部マスターが突然現れたケンゾー姉を凝視して固まっていた。
団地に囲まれてぽつんと児童公園があった。その児童公園では子供が遊んでる姿を見たことが無かった。人が住む場所に挟まれた忘却の空間に、白いワンピースの少女がいた。水飲み台の蛇口をひねると、少女はちょうどバレリーナの格好で足を洗い始めた。晩秋の朝は寒い。たちまち彼女の足は真っ赤にかじかんだ。髪をかきあげながら身体を起こした彼女は、水飲み台の飲用水栓の蛇口を思いっきり解放した。水が透明な線を描いて、空に向かって吹き上がる。彼女は高らかに笑う。彼女の声に生ゴミを漁る烏が一斉にユニゾンし始めた。
11
夕方、ライブステージ前はスタンディングの客でごった返していた。
すでにいくつかのバンドが演奏していたので、客席はほどよく暖まっている。
ケンゾーやレンム達が会場に姿を見せたとき、場内の照明が落された。ステージ中央のスポットライトに浮かび上がったのはゴシックドレス姿の如月、いやTOMOだった。TOMOはおもむろにキーボードを弾き始めた。
キーボードにメンバーがコーラスを重ねていく、メロディアスな『真夏’20年』でライブは幕を開けた。徐々に盛り上がるこの曲は、最終的にベースのイソメがペットを高らかに吹き上げ、その間は如月がキーボードでベースラインを担当するという離れ業も入っていたりする。結構、難易度の高い曲だった。スピーカーに足をかけたTOMOが客席を睨み据える。
オーディエンスが歓声で応える。
「いくぞぉぉぉっ! 『遠回りの唄』!」
『我らは螺旋を駆け巡る!』
如月の声を合図にギター、いやエレキウクレレがソロパートを弾き始める。
ハウさんの代わりが務まるのかと興味半分不安半分のオーディエンスも、金時のウクレレソロに安心したようだ。徐々に会場のノリが良くなってきた。何より、TOMOのテンションが上がり始めた。広い音域をカバーするTOMOの透明な歌声は客席を魅了した。
『昨日と今日
時間と言葉
チャンスも経験もいらない
澄み切った日々
星を旅するように
我らは螺旋をぐるりと駆け巡る
ぐるりぐるぐるり遠回りさ
ぐるりぐるぐるり遠回りさ
乙女の涙に胸焦がすよ』
TOMOは誰袖謹製ゴシックドレスで飛び跳ねる。その横で金時はエレキウクレレをつまびく。誰袖はTOMOのゴシックドレス姿に瞳を潤ませている。たちまち会場は興奮状態に包まれていく。
『「故に我は汝より出でたり、復讐を行なわんがために」
坂道の伍分の参に基点を築け
坂道の伍分の参に基点を築け
坂道の伍分の参に基点を築け
包帯からは甘い腐臭の馨り
梟王と料理長の鍔迫り合いに
濁流に呑まれるは小石の城』
キングクリムゾンの曲とは正反対のパンキッシュな『纐纈王の城』に、会場は狂熱のライブとなった。オーディエンスがダイブを決めようとステージによじ登る。TOMOは苛めっ子の笑顔で、オーディエンスにヤクザキックを決めて蹴り落した。次から次にステージに登るオーディエンスに、TOMOはキレイな蹴り技を極めていく。顔面を気持ち良くヒットされたオーディエンスは、鼻血を吹き出しながら落下していった。それほど如月の蹴りは冴えまくっていた。
『布を染めしは赤子の血潮なり
「我は、我は、我こそは纐纈王」!!』
「TOMOさん、最高っす!」
誰袖が絶叫する。レンムはアンミラ姿で声をあげる。ケンゾーはエプロン姿で首を振る。ステージ前に集まったみんなはノリノリだった。
12
公園横の焼鳥屋で軽い打ち上げをすることになった。
「誰袖、レンムがわたしのために制服のまんまで来てくれたよ」
「そういう如月さんだって、ゴシックドレスのまんまでしょ」
レンムは打ち上げに間に合わせようと急いで出てきたために、着替えるヒマがなかった。如月はというと案外、このゴシックドレスな格好が気に入ったらしい。シワになるから着替えてくれと懇願する誰袖の言葉はスルーしてスズメをボリボリと齧っていた。
「ごめーん、遅れてしまって」
そこへ現れたのはケンゾーとその姉だった。姉は優勝トロフィーをかかげている。
「冗談でミスコン出たらさ、優勝しちゃってね」
ケンゾー姉はニャハハとテレ笑い。その横でケンゾーがうなだれた。姉はゴシックドレスの如月とアンミラ姿のレンムをみつけると、そのまん中に腰を下ろした。
「こっちがゴスロリっちで、そっちがマスカラっちね」
そう言われたレンムと如月は、ケンゾーを睨みつけた。
「まあまあ、わたしが無理やり聞き出したんだから、ケンゾーをしからないでやってね。わたしは、ケンゾーの姉です」
「名前はなんていうんですか?」
レンムが素直にたずねた。
「うへへー。ヒミツ」
ケンゾー姉はレンムの耳もとで囁くと、店員に全員分のビールを注文していた。
焼鳥屋の次にカラオケで大騒ぎしたケンゾー一行は帰路についた。駅まで方向が同じということで、ケンゾー、レンム、金時、如月、そしてケンゾー姉はとぼとぼと歩いていた。
大きな通りに出た途端、ケンゾーはバーゲン会場で感じた感覚を追体験していた。カードデッキがぞわりと胎動し、熱くなりだしたのだ。ケンゾーは誰かと共振しているのかと、周囲をうかがった。
「れーんむっ」
声が聞こえた方向をみんなが振り向いた。そこに立っていたのは白いワンピースの少女だった。冬も近いのに少女は素足だった。それだけでも無気味なのに、さらに少女の存在を危ういものに見せていたのは、彼女を中心に騒がしく動き回るゴブリンの群だった。少女は一匹のゴブリンの頭を撫でながら、爬虫類の顔で歌うように笑っている。
「あ…谷山…さん」
レンムはその場で動けなくなった。ケンゾーのカードの脈動が早くなった。
少女の周りのゴブリンが荒い息を吐き出した。強い風が巻き起こると、周囲はたちまち獣くさい匂いに包まれる。金時が思わず叫んでいた。
「なんでだっ! なぜ、実体化してるんだ!?」
---
用語解説
チュッパチャップス:別名ロリポップ。棒付きキャンディー。日本では森永製菓が販売している。包装紙のデザインはあのダリがしたとか。
プログレッシヴ・ロック:60年代から70年代後半のブリティッシュ・ロック・シーンで登場したジャンル。キングクリムゾン、エマーソン・レイク&パーマー、イエス、ジェネシスなどのバンドがこのジャンルの出身。トータル・コンセプト、クラシックの組曲的な構成、オーケストラの導入などが特徴となっている。
ハモンドオルガン:1934年にアメリカのローレンス・ハモンドが発明した電気オルガンの総称。如月がライブで使用するのは鈴木楽器製ハモンドオルガン XB-1である。
ウクレレス・ポール:金時の造語。ウクレレをエレキ仕様にする際に、エレキギターのレス・ポールタイプを手本にしたことから命名した模様。
ピックアップ:エレキギターの心臓部。弦の音を拾うマイク部分。
チューニングペグ:弦の張りを調節してチューニングする糸巻き部分。
キングクリムゾン:アルバム『クリムゾンキングの宮殿』で鮮烈のデビューを飾ったプログレバンド。本アルバム収録の「21世紀の精神異常者」は今でもキングクリムゾンの代表曲となっている。
LOW G:ウクレレの低音部音域を広げるために、第4弦にオクターブの低い弦を使用すること。LOW G用の金属弦も市販されている。
無尽:商店街に加盟する各店から一定額の会費を毎月徴収する。月毎の幹事が持ち回りで、飲み会だの旅行だのを企画する。それが無尽だ。まあ地方などではちょくちょく見られるご近所つきあいの拡大版のようなもので、古くからある商店街では今でも続いている行事である。
ヤクザキック:新日本プロレスの蝶野正洋が得意とするプロレスの技。足を高々と上げて相手の顔面を靴底で蹴りつける豪快な技。テレビ中継では放送コードに觝触するため、ケンカキックとソフトに表現される。
スズメ:通な焼鳥屋にたまに置いてあるネタ。そのものずばりスズメの丸焼き。香ばしいが小骨が多い。昔は純国産品だったが、現在は上海からの輸入食品が主流となっている。一箱24羽入り。