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まほうはせかいをすくわない  作者: 加藤岡拇指
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第十話「サビシイナンテイワセナイ Part2 of 2」


 桐崎が校長に連絡を取ったのは保身のためだった。その少し前に代理人から連絡が入ったのだ。モンスター実体化実験の中止命令だった。松戸の目立った行動が問題となったようだ。舳留間から施設を破壊するような実験は許可していないというクレームもあった。松戸はいったい何をやらかしたんだ? あれほど目立つなと言ったのに。このままでは自身の責任能力の是非まで問われかねない。


 ここは松戸に全ての責任を引き受けて貰うことにしよう。しかし、あいつはどうしてしまったのか? 以前は定時連絡も欠かさないほど生真面目な男だったはずだ。今回の案件に松戸は異様にのめり込んでいた。研究に向ける情熱と解釈していたが、自分が単に見誤っただけらしい。なんとも情けない話だ。


 口の中にビニールの感触が広がった。慌てて拇指を引き離しまじまじとみつめた。拇指には絆創膏が巻かれていた。桐崎はゆっくりと拇指を口元へ運んでいった。いつも齧る爪の代わりに、前歯に当たったのは絆創膏の特殊加工パッドだった。そっと噛んでみる。傷口に軟らかい痛みが走った。桐崎はもう一度、拇指を口から離してじっくりと眺め回した。唾液に濡れた加工パッドにうっすらと血が滲んでいる。桐崎は嬉しそうな表情になった。


 これはこれでなかなかいい。


 桐崎はゆっくりと拇指を口に近づけていくと、そうっと齧りだした。



 新宿。駅前広場近くのファッションビルに如月はいた。最近はショップを覗く機会がなかったから、何がどこにあるのか皆目見当がつかない。とりあえずエスカレーター横のインフォメーションを覗き込んでみる。覗き込んでいる横をカップルが通り過ぎていく。目で後ろ姿を追いかける。どことなくレンムとケンゾーに似ている。まさか、それははないだろう。如月はエスカレーターにぴょんと飛び乗って、目的の階を目指した。


 久しぶりに試着でもしてみようかな。学園祭以降はライブを2、3回こなしただけだった。年末に大きなライブがあるにはあるのだけど、新作衣装に袖を通せるかどうかは怪しい感じだ。なにせ、誰袖は金時にべったりだからだ。あの二人は暇さえあれば一緒にいる。Vespertineに寄っても無愛想な金刺が顔を出すだけだし。衣装の相談はなんだか持ち出しづらい状況になっている。最終的には誰袖に頼むんだろうけど、まあ最近のファッションの動向を知りたいとも思っていたし。如月は自分にそう言い聞かせて出かけてきたのだった。


 自然と足はゴシックドレスのコーナーに向いていた。いろいろ手に取ってみる。このショップは店員が煩く寄ってこないのが大変によろしい。一着手に取って鏡の前に立ってみた。うーん、やっぱり自分には少し大きすぎる。Vespertineブランドに慣れてしまうと、一般のブランドは見劣りする。


やっぱり市販ブランドの姫袖では大きすぎるんだよなあ。如月は神妙な顔で姫袖を触る。あ、別珍もいいなあ。この毛羽立ちがなんとも言えない優しい肌触りなんだよね。如月は目についた服がどんな触り心地かを試すクセがあった。綿ビロードのドレスをさわさわしていた時、知っている気配を感じて振り向いた。


 にっこり微笑む満面の笑み。おそらく世界初。ゾンビに殴られた男・ケンゾーだった。ケンゾーの後ろから顔をのぞかせたレンムがぺこりとお辞儀する。


「こういうシチュエーションでキミらに会うのは2度目だ」


 如月はため息まじりに苦笑した。ハンガーにかかったドレスを何着か取り出しながらケンゾーが尋ねた。


「誰袖さんに作ってもらうんじゃないの?」


「最近、彼女は忙しいのだ。金時とか……金時とか……金時とか」


 もう冬になるって言うのに、私の周りは春ばかり。如月は腕を組んで眉間に皺を寄せる。


「なるほど」


「で、ケンゾーたちは? まさかひょっとして……」


「うん。デート」


 ケンゾーがぬけぬけと言い切った。後ろでレンムがわたわたしている。二人の様子を見て如月が笑う。なんとも可愛らしい。レンムにああいうリアクションを見せられると、無性にいじめたくなってくる。しかし、ケンゾーの“デート”と言い切る大胆発言。なにかきっかけがあったのだろうか? 如月はケンゾーに起こった出来事を知らなかった。


「でもね、変に意識しちゃったら間が持たなくなって困っているんだ」


 頭をかきながらケンゾーが笑う。実際、ケンゾーもなんで急にレンムのことが気になりだしたのかはよく判っていない。そりゃ、商店街のみんなは彼氏なんだと勘違いをしていたし、菊乃ちゃんにははっきりと言われたこともある。その辺りからなんだろうか、レンムのことを単なる友達という視点よりも、同じ時間を共有する仲間と捉えだしたのは。ゾンビに襲われた時のレンムの叫びは、後になってから胸にじんと響いたのも確かだ。しかし、それもなんだか決定的な出来事ではないような気もする。


 目覚めたら真っ先に視界に入ってきたのが病院の白い天井で、次に丸椅子で器用に居眠りするレンムの姿だった。こっちの方が漠然としてるし、全くきっかけっていうには説得力がないんだけど、居眠りするレンムの姿が大きな要因になっている気がする。誰も知らない彼女を知ってる自分みたいな、なんとも照れくさい気持ちのスイッチを押されてしまったような。


 以前、レンムの買い物につき合った時は自然に時間を共有出来たのに、今はなんとなくぎくしゃくしてしまうのは照れくさいからなんだろう。一緒の時間を共有したい気持ちは変わらないのに、この何とも言えない距離感を生むのは恥じらいってやつなんじゃなかろうか? ケンゾーはそう考えていた。


「だーっ。独り身の私に向かってのろけるの禁止」


「いや、だからね、誰か呼ぼうかって話になってね。それで、学校で如月さんが新宿辺りでもぶらつくかって言ってたから」


 レンムが嬉しいくせに申し訳なさそうな顔をする。


「ゴスロリさんはゴシックのお店だろうって、あんたらは考えたわけね」


 ケンゾーとレンムが同時にうなずいた。いやはや、面白い。この恋愛初心者どもめ。


「わかったわよ。二人の切なくも初々しい恋の物語を根掘り葉掘りするから、つき合いなさいな」


 如月は眼鏡の奥で瞳をきらめかせた。レンムは少しだけ顔を引きつらせた。ケンゾーはニッコリと笑った。



10


 吉田さんは路地裏で目を覚ました。電信柱の住所は百人町と読めた。痛む左指を押さえながら、電信柱を支えにずるずると起き上がる。細い路地に目を移すと蚊柱がそこここに見える。実験データを見せられた後、谷山と共に倉庫を抜け出した。思った通り警備も何も存在しなかった。何日間も資料倉庫でぐずぐずしていた自分に腹が立った。スペシャルクラスに入ったことで、ケンゾーたちを意識的に遠ざけてきた自分がバカに思えた。とにかくケンゾーたちに連絡を取りたかったのだが、あいにく携帯電話もPDAも手元に無い。とにかく駅まで向かおうとしたのは憶えている。谷山の小さな悲鳴は聞いた気がする。後は憶えていない。


 吉田さんは目の前に人影を認めた。大きなマントを羽織った姿には見覚えがあった。人影は街灯の中に一歩踏み出した。スペシャルクラス特製ロングマント。黒い陰にゆっくりと明かりが射した。傷だらけの顔に大きな笑み。嫌な種類の笑み。松戸だった。


「吉田さんも人が悪い。実験するならするで連絡くださいよ。抜け駆けは良くないなあ。あ~あ……。彼女、逃げちゃったじゃないですか」


 松戸の眼を見つめた吉田さんは息を呑んだ。瞳の中に剣呑なものが見え隠れしている。松戸は深淵を覗き過ぎた。暗黒の映し鏡の前に立ち過ぎた。彼岸を渡った松戸は怖いものいっぱいと、猜疑心と傲慢さのスパイスでできていた。


 住居とラブホテルと風俗店とエスニック料理店と立ち飲み屋と焼肉屋が渾然一体となった大久保駅と新大久保駅を中心としたアジアの坩堝。日本語、広東語、北京語、韓国語にタガログ語。新宿百人町では飛び交う会話もインターナショナルだ。


 そんな新宿百人町にエスニック料理屋が詰まった屋台村がある。如月がケンゾーたちを連れてやってきたのはこの屋台村だった。席に案内されたケンゾーがぐるりを見回した。メキシコ料理、インド料理、タイ料理、マレーシア料理、ベトナム料理、台湾料理の厨房が客席を囲むように位置している。


しきりにタイ料理を勧めるおじさんがテーブルにやってきた。


「ここのタイ料理は高いんだよー。しょうがないなあ。じゃ揚げ豚とカナー菜炒めだけもらう」


 慣れた口調で如月がおじさんをあしらった。如月は近くにいた民族衣装風の制服のお姉さんを呼び止める。


「ぞうさんビールを3つ」


 しばらくするとラベルに向かい合う象があしらわれた瓶ビール、ビア・チャーンが届いた。あれが美味しそうだ、これはなんだろう? ケンゾーとレンムは珍しそうにメニューに見入っている。如月の目の前に二人だけの世界が広がっていた。わっはっは。楽しい奴らだなあ。私は賑やかしかい。昔ならブチキレていたに違いない。私も変わったもんだ。如月の頭の中で『あなたが、ここにいてほしい』の音色が流れてきた。あ、私、如月智子はこの二人に少し焼き餅を焼いている。


11


 金時は届いたメールの住所に従って、大久保駅に降り立った。ケンゾーとレンムの予想外の急接近を面白がった如月が、密かに金時にメールを打っていたのである。Vespertineでメールを受け取ったため、


「ケンゾーくんとレンムっちも一緒なら話が早いわ。そんじゃ、乗り込も!」


 というくるみ校長の号令で大久保へ向かうことになった。出かける際に校長はしっかりカードリーダーを回収した。お陰で金刺はぶんむくれてしまったのだけど。


「呑気だなあ、如月さんも」


 金時が溜め息をつく。信号を渡りホテルの大きな看板を目印に路地を入っていくと、そこに百人町屋台村はあった。金時の姿に気がついた如月が手を上げる。動きにつられてケンゾーとレンムが振り向いた。ケンゾーは目を見張り、レンムはおどおどと挙動不審。


 ケンゾーは入り口に金時を間に挟んで二人の女性が立っているのを見た。一人はケンゾーもよく知る誰袖だった。もう一人は別の意味で知っていた。マルクト学園の入学パンフレットにどーんと大きく写真が載っていたからだ。


「な、なんで、校長が?」


 ケンゾーたちは異口同音に疑問を声に出した。くるみ校長はテーブルにやってくるとおもむろに叫んだ。


「お、早速やっておるね。ビア・チャーンを人数分! それから大根餅、ライギョのスープ、ベトナム肉詰、タンドリーチキン!」


 呆気にとられているケンゾーたちを見回すと言葉を継いだ。


「ほかに欲しいものは? これから事件の黒幕ーーうーん、ある意味黒幕だわねーーとご対面なんだから腹ごしらえしときなさいよっ」


「それじゃあ、肉骨茶バクテースープの大」


 ケンゾーが右手を上げて声を張り上げた。くるみ校長はおっ、通だねえと高笑いをした。ケンゾーは今ひとつ自体が呑み込めず金時に視線を移した。金時は電車を待っている間にくるみ校長は、桐崎を呼び出していたのだと一人で納得していた。


 右脚のアキレス腱に彼女の指がぢゅくりとめり込んでいった。頭が上下逆転する。アスファルトの上、5センチほどでがくんと落下が止まった。格好としては見下ろしているのだが、身体に感じる重力が彼女を見上げていると感じさせる。指の骨を折られたことも、アキレス腱を直に掴まれることも初めての経験だった。どちらがより痛いのかと問われたら、その質問は間違っているとしか答えられない。骨を折られるのと筋肉を直に掴まれるのでは痛さの質が違うのだから。骨の方は最初は骨折音とともに身体に素早い振動が伝わり、じわじわと鈍痛が体中に広がっていく。筋肉の方はと言えば、これは脳味噌にダイレクトに直結した痛みだ。激痛という表現が相応しいだろう。


 吉田さんはルシファに片手で持ち上げられながら、鈍痛と激痛を同時に体感していた。ルシファはアキレス腱では持ち難いと考えたのか、吉田さんの右脚をひょいと空中高く投げ上げると掴む部位を脹脛へと持ち替えた。ルシファの指がゆっくりと脹脛にめり込んでいく。同時に吉田さんの身体を新たな激痛が駆け抜ける。


「実は僕もね、召還べたんですよ。すご、すごい発見でしょ」


 吉田さんは身体を貫く痛みに翻弄されて、松戸の言葉に返事をすることができなかった。


「なぜなら、今までは頭のおかしな連中か、空想と現実の区別がつかない幼児しか、実体化は不可能だったんだ。だけど、だけど僕は、ごら、ご覧の通りの健常者だ」


 どこが健常者だ。


「それは……違うんじゃないかな。松戸……さん。あなたは見過ぎたんだ。あの……病院で……」


 松戸がルシファに指示を与えた。ルシファが右腕を高く持ち上げた。吉田さんの身体がぎゅんと勢い良く上昇して、松戸の腰の位置でがくんと止まった。吉田さんが声にならない悲鳴を上げる。


「それ、それはあ、どういう意味で、意味ですか?」


 松戸が吉田さんを覗き込んだ。逆ならば俺が覗き込んでる格好だ。忌々しい重力め。吉田さんは唇を噛み締めた。


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「そもそもマルクトカードがプロジェクトの副産物ってのは知ってるよね? 黒魔術をプログラム化しようって計画、クロウリー・プロジェクトの中に召還魔法のプログラム化があったわけ」


 くるみ校長がタンドリーチキンにかぶりつきながら話し始めた。


「ハッキングでケンゾーくんちのお母さんがーーみんなはアンジョウ先生って呼んでたけどねーー見つけて改良してバグフィックスしてほぼ完成させちゃった」


「父から聞いてます」


「プロジェクトチームはアンジョウ先生に接触した。どういう契約が結ばれたかはしらないけど、先生はチームに参加することになった。そこで開発されたのがカードとツクヨミなわけよ」


 ライギョのスープが魚型のアルミ製鍋でぐつぐつと煮えている。如月と誰袖はおそるおそる小鉢に取り分けるとはふはふと食べ始めた。誰袖が旨そうにこくこくとうなずく。その隣ではひはひしながら、如月がカード誕生の経緯なんて始めて聞いたと文句を言い出した。レンムがまあまあと宥めるふりをしながら、如月の取り皿に葱を取り分けている。肉詰を口に運びながら、金時が疑問を口にした。


「どの辺で校長……じゃなくて、くるみっちはーー如月はそんな顔で見るなよ。だって、そう呼べって言うんだものーーカードと絡んでくるのさ?」


「え? アヌビス魔法学校だよ。プロジェクトが隠れ蓑にしてた学校で、アンジョウ先生はそこの教師だったもの。私はアシスタントプログラマーみたいなことをやってたのさ。同時進行だったモンスター実体化実験は芳しくなかったんだよね」


 くるみはビア・チャーンをぐびりと一口、口を湿らせた。


「僕が5歳くらいの頃だったのかな? ゴブリンを召還びだしたのは」


 追加注文したベトナム風卵焼きを店員から受け取りながらケンゾーが口を挟んだ。


「そうなんだろうね。私はプログラムとカードをどうにか商売に利用出来ないか? そんなことばっかり考えてたからねえ。まあ、風の噂に実体化実験で、いいサンプルが……」


 しまったという顔でくるみ校長が言葉を止めた。ケンゾーは卵焼きと格闘中でちゃんとは聞いていなかったようだ。


「まあ、とにかく私に魔法の専門学校を作りなさいって、そそのかしたのがケンゾーくんのお母さんだった。後はとんとん拍子に話がまとまって、卒業と同時にマルクト学園開校と相成ったわけよ。でもねえ、今考えれば学園の開校当時のスポンサーってのはプロジェクトチームだったんだろうね」


「納得した。そんなわけだからマルクトカードのプロテクトが急ごしらえだったのか」


 金時は金刺から受け取った谷山カードを手にしてつぶやいた。金時はカードをケンゾーに手渡した。ケンゾーが手にするとカードは微かに脈動したようだった。


「まあね。私もアンジョウ先生もプロジェクトチームから見たら、所詮は外様大名だからね。マルクトを運営していくうちに、私は故意にプロジェクトの意向に反することばっかりしてやった。同人カードなんてその典型だよ。いやあ、あんときに実体化が実現してたらどうなってたんだろうね。まあ、こりゃまずいってんでプロジェクトチームは私があんまり無茶しないようにと、学園にあいつらのクラスを作ったってわけよ」


 くるみが右手人差し指をビシリと入り口に向けた。みんなが一斉に入り口に注目する。そこに立っていたのはスペシャルクラスのロングマントを着た桐崎だった。


「俺はあんたは健常者とは思えないな。どう見たって……松戸さん、あんたは向こう岸に……渡っちまってる」


「僕、僕を、奴らと一緒、一緒にするなぁっ!」


 松戸の言葉に呼応したルシファが右腕をぶるんと降った。脹脛からぬるりと指がすっぽ抜けた。抜ける際にルシファの指は傷口を拡げる。吉田さんは電柱に激突すると地面にどさりと落ちた。新たな種類の痛みが吉田さんに襲いかかる。苦悶する吉田さんの姿に満足したのか、松戸は若干の冷静さを取り戻した。


「じゃあ、吉田さんに尋ねましょう。僕が健常者初の実体化を成す者ではないというのでしたら、誰がそれを成せるのですかね? 僕以外にいないでしょう、そうでしょう。それなのに吉田さんは僕をあんな、あんなチャカポコ連中と同じだというのですね。それはあんまりにも失礼だ。非常に失礼だ。失礼極まり無いっ!」


 吉田さんは地面に落下した姿勢のまま、荒い息でくくくと笑う。


「だって……俺は知ってるもの……。谷山だって……知ってる。チャカポコなあんたと違って……ノーマルな実体化を成す者を……ね。教えたのは……あんただ、忘れた……のかい? くくく……チャカポコになると記憶も……ぼやける……んだな」


 松戸は吉田さんの言葉で思い出した。実体化を成す者同士の邂逅。その相手として選んだのは、アンジョウ先生の息子……。


「ケンゾー……。そうだ、ケンゾーだ。ケンゾーケンゾーケンゾーだ。奴だってリノリウムの床の住人だ。谷山と同じ種類の人間だ。妄想と現実の区別がつかない、想念いの出口が見つからない糞詰まり野郎のはずなんだ!」


 松戸は叫ぶと携帯電話取り出して、吉田さんの顔にぐりりと押し付けた。


「呼べよ。ここに呼べよ、ケンゾーをここに呼べよ。ここに呼べよ。どっちが健常者か判らせてやるから。判らせてやるから、呼べよ。さあ、吉田さん、ケンゾーをここへ、ここへ呼べよ。呼べっ呼べっ呼べっ呼べっ!」


 吉田はアスファルトとすれすれの視線で、物陰からこちらを伺う裸足を確認した。ゆっくりと身体を起こした吉田さんは、松戸を睨みつけながら携帯を奪い取った。


13


「実体化実験は中止になったよ。今は中止のための事後処理をしているんだ」


 桐崎は批難囂々のオーラをたたえたテーブルに向かって、ハリウッド映画の俳優気取りで大げさに首を振ってみせる。


「ところが……責任者と連絡が取れなくなっている。私も困っているんだよ」


 桐崎はケンゾーたちのテーブルから少し離れた位置に腰を降ろした。くるみ校長が意地悪するのが堪らないというように嬉しそうに笑った。


「そっかあ。松戸くんはスタンドプレイの真っ最中ってわけね。桐崎くんもお子様じゃないんだから、飼い犬くらいコントロールしなさいよ。あんた、その位しか能がないんだからさあ」


 くるみはレンムの方へ顔を向ける。


「こいつがレンムっちにストーカーお嬢ちゃんを嗾けた」


 こんどは如月に向き直る。


「こいつが裏で糸引いて、結果的にハウさんの右腕に怪我させたわけ」


 続いて金時に向き直る。


「マメが煮豆になったのもこいつのせい」


 くるみはケンゾーに視線を移す。


「あんたはドクゾンビに殴られた」


 ケンゾーは無意識にゾンビに殴られた箇所を摩っていた。レンムが如月の葱攻撃を避けながらケンゾーを見つめた。


「私はもっとゆっくりやりたかったんだ。魔法魔法って世間が騒いでいるうちにうまく浸透させてさ。実質的な魔法の実践なんて、魔法が当たり前になってからで良かったんだよね。それを、あんたらのスポンサーや、スペシャルクラスは急ぎ過ぎたんだよ。やり方がまずけりゃ広がるものも広がらないでしょうに」


 くるみのいきなりの糾弾に桐崎は拇指を齧り始めた。齧りながら叫んだ。


「僕はクラスメンバーのスケジュール管理しかしていないんだ。それぞれが何をしているかだって詳しくは知らないんだ。それを、それを僕だけのせいにするんじゃない。だいたい、校長のあんたとスポンサーが始めたことだろ。なんで、僕が一番悪いことになるんだよ。そんなのはずるいじゃないか。確かに松戸の実体化実験には協力したけど、でもそれだって僕は実際に手を下していな……」


 そこから先を桐崎は続けることはできなかった。いつのまにか桐崎に歩み寄ったレンムが拳骨で殴りつけたからだ。桐崎は拇指をくわえたまま床に倒れ込んだ。レンムは拳を握りしめたまま桐崎を見下ろしている。桐崎はその場で膝を抱えてまん丸くなると、鼻血を流しながらすすり泣きを始めてしまった。


「ムカついた。お前が一番質が悪い……」


 レンムは痛そうに右腕をぷらぷらと振りながら吐き出すようにつぶやいた。我ながら見事なキレっぷりだった。谷山につきまとわれて嫌だった気持ち。菊乃が怪我をしたのは自分のせいだと言う罪悪感。再び友達を作ってしまった後の不安感。ケンゾーを好きになってはいけないという葛藤。その全てを引き出した男が、直接やったわけじゃないんだから僕は悪くないと泣き言を言う。桐崎の発言がレンムの中に沸き起こる感情の釜の蓋を開けてしまったらしい。


 喧嘩ならソトでヤレと店員が寄ってくる。ケンゾーが店員に頭を下げて、ビールの追加を頼んだ。レンムを席に座らせると、ケンゾーは右手を彼女の頭にのせてぽんぽんと軽くたたいた。レンムがケンゾーを見上げる。彼女の唇が「ごめん」と動いた。


 その時、ケンゾーの携帯電話が振動した。電話に出るとケンゾーはにっこりした。


「あ、吉田さん。 今どこにいるの?」


 電話に聞き入っていたケンゾーの顔がたちまち険しくなった。電話を終えたケンゾーは椅子に座り直した桐崎のもとへ近づくといきなり胸倉を掴み上げた。ケンゾーの意外な行動にみんなが一時停止する。


「桐崎。お前ほんとにつまらない奴だな。おまけに全部投げっ放しじゃないか」


 ケンゾーは皆の方を振り向くとニヤリと笑った。


「吉田さん、この先で松戸と一緒にいるって。ちょっと行ってくるね」


 ケンゾーは店を後にした。彼の行動は迅速だった。しばしの沈黙の後、事態が急変したと気づいたみんながわらわらと店を後にした。店にはぽつんと桐崎が残された。しばらくして拇指を齧る桐崎の前に店員が伝票を差し出した。


14


 ケンゾーが指定された小さな路地へ入っていく。吉田さんを見つけるのは簡単だった。谷山が無言で止血している。右脚をぐしゃぐしゃにされている。白いワンピースの裾は赤黒く染まっていた。吉田さんは近づいてきたケンゾーに片手を上げた。なぜ、吉田さんと谷山が一緒にいるのだろう? 松戸はどこにいるんだ? ケンゾーの思いを遮るように吉田さんが大きな声を上げた。


「ケンゾーくん、君の記録を見たよ」


「え?」


「被験者の年齢5歳。実験開始20秒で実体化に成功。症例集にはそう記録が残っていたわよ」


 それまで黙っていた谷山が口を開いた。吉田さんの右脚傷口の上を、きちきちにビニール紐で縛り上げる。谷山は飛び跳ねるように立ち上がった。


「えへへ……知りたい?」


 谷山は両手をぷるぷると振るう。ぴぴっと飛沫が飛ぶ。ケンゾーの顔を覗き込むと、にんまりと笑った。吉田さんに対してはイイコな反応ができた谷山も、相手がレンムの愛しい人となると別だった。満面の笑みの中に歪な憎悪が見え隠れする。吉田さんはコンクリート塀にゆっくりと移動して背中を預けた。


「よせ、谷山。僕が伝える」


 目の高さにしゃがんだケンゾーを見ながら、吉田さんが面倒くさそうに口を開いた。


「僕が閉じ込められていたところは、松戸の資料倉庫だった。カードリーダーを持ち出したことで散々な目に遭ったわけなんだけど……。あれはちゃんとキミに届いたかな?」


 ひしゃげた指を掲げる吉田さんにケンゾーはうなずいてみせる。


「ちょうど実験資料に気づいた時に逃げてきた彼女……谷山と会った」


「私、あそこに自分のカードデッキを置いたまんまだったから」


 谷山が吉田さんの血で汚れたカードデッキをカタカタと振ってみせる。


「彼女が面白いデータがあると見せてくれたのが……」


 吉田さんの言葉が宙に浮いた。後を受けるようにケンゾーが自身の胸を指差した。吉田さんは大きく細かくうなずいた。


「映像の中のケンゾーくんは白い部屋の中にテーブルを前に座っていた……。女性がキミにカードを手渡す。するとカードが盛り上がって……中から……ゴブリンが現れた。キミは嬉しそうに笑うと、ゴブリンと積み木で遊び始めた」


 リノリウムの微かにうねる床。青、赤、黄、緑、三角、四角、長四角、丸。積み木を積みあげる僕と友達……。


「……リンだ」


「遊んでるキミたちのところに白衣の女性がやってきて、そこでキミが言ったんだ……」


 吉田さんは告げるべきか告げぬべきか未だに迷っているらしい。その後の言葉が続かない。


「『お母さん』」


 今まで口を閉ざしていた谷山が、満面の笑みを浮かべながらはきはきと言った。ケンゾーの中、記憶領域のずっと底の方で、何が音を立てて動き出した。


15


「子供を使って実験ねえ。道義的には大丈夫なの? ………そうか。でも、私は好きじゃないからね、子供………ははは。一人目途中まで育てて飽きちゃったよ………」


 母親が電話で喋っている。ブロックを繋げて奇妙な建物を造る。一人遊びに夢中のケンゾーにも、母親がどうやら自分のことを持て余していることが感じられた。母親が自分の心の澱をケンゾーに向けてぶちまけるとしても、食事を抜かれたり、直接暴力を振るうということはなかった。些細な言葉の積み重ねや聞こえるように呟く独り言が心に突き刺さるのだ。言葉の正確な意味は判らない。でも、肌で心で感じてしまうのだ。


『お前はなんでここにいるんだよ?』


 ケンゾーは幼いながらも母親が自分に愛を抱いていないことを感じていた。でも、考えないようにしていた。考えても幼い身では解決策が思いつくわけも無く、無性に哀しい寂しい気持ちに囚われてしまうからだ。普段は無関心なくせにケンゾーが落ち込んでいる気分は察知するらしい。途端に母親の言葉は冷たさを増す。母親であることが嫌なのに、なぜか息子の感情の変化を敏感に察知してしまう。そんな母親らしい心の動きが彼女の心をかき乱す。冷たい感情の応酬が巻き起こるのは、たいてい姉が学校でいない昼間のことだった。母親は居たものの何もしない。身の回りの面倒を見てくれるのは姉だった。姉がどんな気持ちで自分の世話をしていたのかは知らない。姉は淡々と淡々となるべく感情の起伏が無いように日常生活を営んでいるように見えた。母親の怒りの冷たさがこれ以上増えないように。


「キミ、これで遊んでみなさい」


 ある日、珍しく母親がケンゾーに声をかけた。手渡されたのは一枚のカードだった。母親が自分を気にかけてくれている。それがとてもとてもとても嬉しかった。母親に邪見にされていると思っていたのは大間違いだ。ちゃんと自分のことを考えていてくれる。ケンゾーは強い喜びの想念いに包まれた。カードから眩い光が漏れ出した。気がつくと自分と同じくらいの妙な生き物が目の前にいた。


「はっはっはっはははは。すごいじゃない、キミ。これはゴブリンって言うんだよ」


「がうりん」


「そう、ゴブリン」


「りん」


 リンと呼ばれたゴブリンが人懐っこい鳴き声をあげた。ケンゾーも笑った。ケンゾーのお守りは昼間はリンが、夕方からは帰宅した姉が見ていた。姉が友達と遊びにいったある日、リンと遊んでいるところを帰ってきた姉に見つかった。姉は驚いて悲鳴をあげた。母親の冷たい視線に気づくと両手を口に当てて悲鳴を呑み込んだ。それから数週間は3人で遊んだ。温泉堀りから帰ってきた父親がリンを目撃するまでは。


 その日から父と母の口論が続いた。自分のことで罵り合っていることは肌で感じた。自分がリンを召還んだからいけないんだとケンゾーは自身を責めた。それからすぐだった。父親の温泉堀りを見学に行った帰りにケンゾーは母親に連れ出された。母親とお出かけなんて初めてのことだった。連れて行かれたのが病院みたいな臭いのする建物でも、母親とお出かけが嬉しくて全然気にならなかった。


「キミはここで暮らすことになったからね」


 蛍光灯の明かりがリノリウムの床の起伏を照らす一室で、母親はケンゾーに言った。ケンゾーはにっこりとうなずいた。部屋から出て行く母親があのカードを手渡した。


「つまんなくなっても、リンがいるから大丈夫でしょ?」


 ケンゾーは大きくうなずいた。


 どのくらいをそこで過ごしたのかは知らない。ある夜、濡れた手に抱き上げられて目が覚めた。目の前にあるのはずぶ濡れの父親の顔だった。


「外は雨なの?」


 父親は小さくうなずくとケンゾーを抱いて廊下へと飛び出した。白い長い廊下のあちこちで黒い服や白い服の人が倒れていた。ケンゾーと父親は誰にも会わずに病院の臭いがする建物の入り口に辿り着いた。そこに立っていたのは怒りを露にした母親だった。


「大切な実験サンプルを無断で持ち出さないでちょうだい」


 ケンゾーは自分が母親を怒らせたのだと思った。そうだ、カードからリンを召還び出せばまた誉めてもらえる。ケンゾーはリンを呼ぼうと努力した召還びだせなかった。混乱したケンゾーは想念いを絞り込むことができなかったのだ。


「サンプルだとっ! お前はケンゾーの母親だぞ! 何を考えているんだ」


「成りたくて母親に成ったわけじゃない。コレだって望んで作ったわけじゃない。イイ母親になりたくて芝居をしたけど、私は母親の器なんかじゃない!」


「なんだよ、それ! 全然、意味が判らないぞ」


「私はあなたの妻には成れた。それはあなたを愛しているから。でも母親には成れなかった。だって、愛情を感じないんだものっ! 理由なんて私にだってわからないわよっ! こんなのサンプルとでも思わなきゃ、相手する気にもなれないわよ!」


「おい……」


「……わかったわよ。持って帰りなさいよ。サンプルはこれだけじゃないんだから。他にもいるんだから。もうケンゾーはいらない。あなたに返すわよ」


『いらない』


 母親の言葉にケンゾーは大声で叫んだ。


 泣き叫んだ。


 カードが脈動した。


 リンが現れた。


 リンは哀しい声を上げる。


 ケンゾーとユニゾンする。


 母親の顔が引き攣った。


 気がつくとケンゾーは車の後部座席で姉に抱きかかえられていた。姉はケンゾーの顔をタオルで拭っている。姉は泣いていた。


「ピンクのタオルって女の子が使うんだよ」


 ケンゾーは姉に向かって笑いかけた。姉は声を上げて泣き出した。父親がハンドルを拳で叩いた。姉が手にしていたタオルは白いタオルだった。姉はケンゾーが浴びた返り血を拭っていたのだ。


 母親の血だった。


16


「キミは最初から実験用のそざ、素材だった、だったんだ!」


 路地の入り口から掠れた声が上がった。ケンゾーが声のした方を向くと、ロングマントをなびかせた松戸が立っていた。傷だらけの顔に蔑むような笑いを張りつかせている。ケンゾーは立ち上がると谷山に向き直った。


「僕は母親から“ケンゾー”と呼ばれていたと思っていた。ところが思い出した記憶はそうじゃなかったよ。“キミ”だった。相手を見下して言う時のどうでもいい口調の“キミ”だった」


 ケンゾーは表情を変えずに谷山にゴブリンのカードを手渡した。


「え? でも、それじゃ召還べないわよ」


「大丈夫」


 ケンゾーは自身のカードデッキから一枚カードを抜き出した。少しデザインは違うが、ゴブリンのカードだった。


「母さんのカード。姉さんが隠していたんだ」


 みんなで鍋をつつきながら話をした後、姉は無言でこのカードを手渡した。その時は気づかなかったけど、蘇った記憶によれば赤黒い染みは母親の血だったようだ。


「ふーん」


 無くした記憶を思い出しても打ちのめされた様子がないケンゾーに、谷山は少しがっかりした様子で答えた。松戸を睨みつけたケンゾーが言った。


「えーと、松戸さんだっけ? どうやら僕は昔、母さんに怪我させたみたいなんだけど……キミの話からすると生きているみたいだね」


「そ、そうだ。僕は知ってる。アンジョウ先生は言って、言っていたさ。キミはサンプ、サンプルだっだ、優秀、優秀なサンプルだったって!」


「母さんなら……そう言うだろうね……。そう、僕は単なる道具だった……」


 ケンゾーが手にしたゴブリンのカードが大きく脈動した。ニコニコと普段と変わらない様子のケンゾーだが、心の中は強い哀しみが渦巻いていた。


「思い出したくないことってのはあるものなんだなあ」


「素晴らしいね。ケンゾーくん。キミのカードはすば、素晴らしいよ。もうすぐ円、円錐状にカードが盛り上がる、上がるよ……ほら、ほら……イイ

ねぇ」


 松戸の言葉通りにカードは盛り上がり、円錐を切り裂くようにゴブリンが顔を覗かせた。ゴブリンは両手を使って自身の身体をカードから引きずり出していく。ゴブリンはぴょこんとケンゾーの右肩に登った。ゴブリンは愛おしそうにケンゾーの頭を軽くぽんぽんとたたいた。ケンゾーは複雑な笑顔を浮かべながらゴブリンを見つめる。


「リン……」


 リンは哀しそうにぐるると答えると、威嚇するように松戸を鋭く睨みつけた。


「松戸さん……どうも、これはダメみたいだ。母さんの時と同じだ。多分、コントロールが効かない。リンは僕の哀しみにシンクロしているから。それに……僕ももう止める気はないから……」


 ケンゾーは大きく息を吸い込んだ。リンがぴょんとアスファルトの地面へ飛び降りた。


「吉田さんも谷山さんも止めないでね……」


 振り向いたケンゾーの顔は深く暗い哀しみをたたえていた。吉田さんも谷山もその場に凍りついた。


 びゅんという風の音を残して、松戸に向けてリンが全力疾走する。


17


 レンムたち一同が件の路地を見つけた時は、すでに一面に鉄臭い血の臭いが充満していた。むせるレンムたちに背中を向けてケンゾーが立っていた。その奥で街灯のスポットライトを浴びながらリンが松戸の顔を千切っている。もがく松戸の横には頚を噛み千切られたルシファが青黒い血を噴き出していた。


「ケンゾーくんっ! 止めなさい!!」


 くるみの叫び声に谷山が振り向いた。一同の中にレンムの姿をみつけると、谷山は嬉しそうに走り寄った。谷山はカードデッキをレンムの目の前にかざしてカタカタと振った。


「ねえ、ねえ、れんむ! ケンゾーくんを止める? ねえ、止めたい? れんむが考え直してくれるなら、私止めてもいいわよ。ねえ、ねえ、どうする? どうする? ねえ、ねえ? れーんむっ!」


 谷山はレンムの袖をつかんで引っ張りながら時々裏返る大声を上げる。目の前の谷山を凝視していたレンムが、彼女の手からデッキを奪い取った。


「ストーカー娘は黙ってすっこんでいたまえ」


 男言葉でレンムはつぶやいた。谷山はレンムの迫力に気圧されてしばらく黙っていた。レンムの蔑みの言葉がようやく頭脳に届いたのか、谷山の顔が険しくなった。谷山はレンムに飛びかかろうとしたが、如月とくるみが彼女の両腕を捉えて寸前で押し止めた。


「カードを貸して」


冷たい声をレンムは谷山にかける。自分を見てくれたと谷山は歓喜の顔で、レンムにデッキを差し出した。


レンムはデッキの中から無作為にカードを抜き出す。ケンゾーを止めるのは自分の役目だ。


 レンムが手にしたカードが円錐を築く。緑色の葉が顔を覗かせる。ゆっくりとマンドラが全身を現した。前から思っていたがマンドラは大根に似ている。


 レンムはすかさずマンドラの脚を掴むと、そのままケンゾーに向かって走り出した。


「ケンゾーぉっ!」


 レンムの叫び声に続いて鈍い音が響いた。ケンゾーの後頭部に泣きそうな顔をしたマンドラがめり込んでいた。ケンゾーが前のめりに崩折れた。呆気にとられていた如月とくるみが顔を見合わせた。どちらからともなく笑いが漏れた。


「かかあ天下決定!」


 如月とくるみはハモりながら大声を上げた。




大団円



 店の名前は駱駝屋。くるみ校長に教えられた場所のはずだった。


「カウンターバーだよ」


 くるみ校長はニコニコと笑った。事件解決とお詫びを兼ねた席を設ける。万障繰り合わせて出席宜しくと誘われて、ケンゾーたちはカウンターバーを目指したはずだった。しかし、駱駝屋はどう見てもカウンターバーには見えなかった。


 店の前には紺色に染め抜かれた暖簾と、大きな赤提灯が風に揺れているのだ。提灯の横の出っ張り部分に焼き台が置かれている。そこで店の主人が何やら串に刺さったものを焼き上げている。ぞろぞろと現れた若者の姿に、主人がにっこりと微笑む。如月が笑い返しながら指差した。店内には焼き台と厨房を繋ぐように左右にカウンターがあり、その左横には作り付けの4人がけテーブルが2つあった。


「カウンターバーって言えばカウンターバーだけどさあ」


 そう、駱駝屋はやきとん屋だった。カウンターの奥に座っていたくるみ校長が、ケンゾーたちを見つけて手を挙げた。みんながぞろぞろと店内に入っていく。くるみ校長は全員に1本ずつーーそれも大瓶ーービールを頼んだ。みんなにグラスが行き渡ったの頃合いを見計らって、くるみ校長がおもむろに立ち上がった。


「みんな無事だったということに、とりあえず乾杯!」


 みんながコップを掲げる。


「えー、今回の事件ではいろいろ迷惑をかけてゴメンナサイでした。キミたちが気にしている松戸の件ですが。えー、私も皆が警察のお世話ににならないようにいろいろ手を尽くしましたけどね。結果としてスペシャルクラスのスポンサーさんが闇に葬りました。どういう形で手打ちになったかは、まあおいおいね。吉田さんはこの場にいるから良いとして、あ、酒は呑んで大丈夫なの?」


「ははは、呑ませてから言わないでくださいよ」


「そか、すまん。簡単に言うと谷山は江戸処払い、桐崎は退学処分、松戸は……多分再起不能だね。で、通称谷山カードだけど、全部没収、そんでもって封印しました。まあ、今後はこういうひどいことは起きないと思います」


 詳しくは語れないことが多いのだろう。灰色な部分は残るけれど、一応事件の解決はみたということらしい。


「ということで閉店まで歓談タイムスタート! メニューは店の壁から各自どうぞ!」


 レンムとケンゾーは壁に掲げられたメニューを見遣った。ハツ、ガツ、コブクロ、レバー、フワ、チレ、マメなどなど豚の内蔵各部位が筆文字で書かれている。


「これだけあると迷うなあ」


 ケンゾーとレンムが顔を見合わせる。誰袖と金時はカウンターの中央に位置した銀色に輝く円筒形の物体に興味津々だ。


「これは何?」


「うん? 熱燗機。呑むかい?」


 誰袖がうんうんと大きくうなずく。主人は湯婆に入った日本酒を、上方の注ぎ口に注いでいく。しばらくすると熱燗機の蛇口から燗された酒が湯婆につがれだした。小皿の上に置かれたガラスコップが誰袖の前に置かれた。主人はそこに燗された日本酒を注ぎ入れる。コップから溢れた酒は小皿の上でたぷんと揺れた。誰袖と金時がおおーと声を上げる。


「くるみっち、これは?」


 屋台村以降、くるみのことは“校長”ではなく、“くるみっち”と呼ぶように言われていた。珍しくケンゾーが校長は校長だと拒否の姿勢を見せた。しかし、幻獣闘技で校長にバカ負けしたため、今はケンゾーも渋々従っている。くるみが事件の病巣が校内にあると知っていながら放ったらかしていたことへの、ケンゾーなりのささやかな抗議だったのだろう。


「ふふーん。焼酎」


「じゃなくて、その隣の黄色いの」


「梅シロップ。焼酎を生で呑む人間の特権なのさ」


「なるほど、じゃ僕もそれ」


 ケンゾーが小振りのグラスになみなみ注がれた焼酎を、一口すすって梅シロップを加えていく。


「ケンゾーはもう身体は大丈夫なの?」


「はは、ゾンビの時よりは回復早いみたいです。でも、僕くらいですよね、モンスターにどつかれまくった人間は」


「確かにね。まあ、あそこでレンムっちがどつかなかったら、ちょいとリカバーできなかったかもなあ」


 くるみがしみじみと言った。確かに。後から聞いた話ではやってきた警察と救急隊員は、変なマントで顔面血だらけの男はいつものことという対応をしていたのに、青い血を流してぶっ倒れているルシファの姿にはびびっていたらしい。ルシファは松戸が意識をなくすのと同時に、跡形も無く消えてしまったようだけど。ケンゾーはあやうく人殺しになるとこだったらしい。それでも良かったと、ケンゾーは時々考える。あの時の僕は狂っていた。レンムが止めてくれなかったら、どうなっていたんだろうか? ケンゾーはレンムを何気なく見つめた。


「いまレンムが食べたのはホーデンだ」


「え? それはどこ」


 問われた如月がメニューを指差す。レンムがナニを喰わされたのか知って、少し戸惑いを見せる。うひゃひゃひゃと如月がオヤジなリアクションでおどけてみせた。


「まったく、いつから如月さんは、そんな下ネタ娘になったんですかねえ」


 如月がいつになく真剣に腕組みをした。


「うーん、やっぱり愛が足りないんだろうねえ。周りはみんな春だってのに、私は季節通りに冬のまっ只中にいますから。オヤジっ、レバーとコブクロのちょい焼き2本ずつ!」


 レンムはちょいと寂しげな表情を見せた如月を愛おしいと思った。ここにいるみんなも同じように愛おしい。臆病な引きこもりで友達は去っていくものと妙に冷めていた自分が、今は大好きな友達に囲まれている。自分が変われたのはまるで魔法のようだった。


 魔法のきっかけは何もしないでぼーっとしている、器用な指先大好き野郎との出会いだったのだとあらためて思い出してみる。ケンゾーのおかげで谷山に抗う力を貰い、きくちゃんとのわだかまりも無くなったのだ。


 路地でリンを見つめていたケンゾーの背中は哀しげだった。私たちが駆けつけるまでにケンゾーと松戸の間でどんなやりとりがあったのかは知らない。一部始終を見ていた吉田さんも何も語らない。ケンゾーがどんな暗闇を心に抱いているのかは知らないが、なんとなくほっとしたのも事実だ。何も考えていないようなケンゾーでも、私みたいに暗い感情を隠し持っていると知ることができたから。


「今はそれでいいではないか」


 コップ酒をぐびりと呑みながらケンゾーを見遣る。ケンゾーと視線がぶつかった。へへへと照れくさい笑いがどちらからともなくもれた。


「レンムに一度聞こうと思ったんだけど……」


 ケンゾーが口を開きかけた時、店の引き戸が開く音がした。


「ちーっす!」


 ケンゾー姉が菊乃、金刺とともに暖簾をくぐって現れた。レンムはケンゾーが何を言おうとしたのか気になったが、パワー溢れるケンゾー姉の襲来がケンゾーの発言する機会を奪ってしまった。


 ケンゾーがレンムに聞こうとしたのは、見上げてみよう夜空の星をとか、運命的な出会いの考察とか、そんなロマンチックなことでもなんでもなかった。


『どうやったら丸椅子で器用に眠れるのか?』


 ケンゾーは聞きそびれて良かったかなと考え直した。レンムは聞くのを諦めた。ケンゾー姉の登場で店内は一段と賑わいを増した。心地よい喧噪の中でレンムはガツを頬張った。カリカリした外身とフワフワの内側。絶妙の食感が口中に広がった。


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用語解説


絆創膏の特殊加工パッド:桐崎が拇指に巻いていたのはバンドエイドの救急ばんそうこう。1920年、J&Jの購買部勤務のアール・E・ディクソンが、不器用で料理中の傷が絶えない妻・ジョセフィーヌのために、一人でも傷の手当ができるようにと考えついた絆創膏がベースになっている。医療用テープの中央にガーゼを付けたこの絆創膏を基に、1921年に初めて製品化されたバンドエイドは幅9センチ、長さ54センチで必要に応じて適度な長さに切って使うものだった。


駅前広場近くのファッションビル:2004年9月に丸井ヤング館と丸井ONEが一緒になったビル。5~8階が丸井ONEになっている。今はもうないねえ。


姫袖:袖の部分がレースになっていて広がっている袖。


別珍:ベルベティーン。綿ビロード。綿糸を絹ビロードのように作った織物です。毛羽立ちで光沢感があるのが特徴。フランスのホロンベールが開発し、日本では明治時代に生産が始まりました。『唐天』などと呼ばれていたそうです。現在の日本では生産のほとんどを静岡県で行っています。


揚げ豚とカナー菜:パッド・パッカナー・ムー・クローブのこと。カリカリに揚げた豚とカナー菜をオイスターソースで炒める。うまい。


『あなたが、ここにいてほしい』:ピンクフロイドが『狂気』に続いて発表したアルバム『炎/あなたが、ここにいてほしい』に収録された一曲。


大根餅:台湾料理の定番メニューのひとつ。すり下ろした大根に上新粉、片栗粉、干しえびを加えて練ったものを焼いたもの。これにたれを付けておいしくいただく。


ライギョのスープ:カイン・チュア・カー・ロック。ライギョ、パイナップル、トマト、オクラ、もやし、ハスイモを煮て、砂糖とタマリンドで甘酸っぱく味付けしたスープ。


ベトナム肉詰:ジョー・トゥ。豚耳、豚もも肉、木耳、玉葱を炒め合わせて、バナナの葉で巻き冷やしたもの。


タンドリーチキン:インド北西部やパキスタンに古くから伝わる土釜タンドールを用いたタンドリー料理のひとつ。


肉骨茶バクテースープ:マレーシア料理。豚のスペアリブをシナモン、八角、クローヴ、カルダモンなどの香辛料と一緒に煮込んだスープ。港湾労働者のスタミナ料理として誕生し、現在は専門店も存在するほどポピュラーな料理となっている。


チャカポコ:夢野久作『ドグラ・マグラ』内の『キチガイ外道地獄祭文』参照。


やきとん屋:豚の串焼きを提供する居酒屋。


熱燗機:酒燗機ともいう。現在は電熱式とガス式の二種類がある。駱駝屋の熱燗機は業務用に作られたもの。現在は製造されていない。


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