第一話「マスカラハニジマナイ」
1
ケンゾーは早起きだ。
ちょうどテレビで流れているミュージッククリップが途切れるあたり。朝一番の情報番組が始まる頃に目が覚める。ケンゾーは家族の弁当を用意する。中学に入って以降ずっと、ケンゾーは弁当を作り続けている。最初は父親と協力して作った。初めての料理は四苦八苦しながらだったが、料理は肌に合ったらしい。すぐに一人である程度はできるようになった。そうなってくると、父親との共同作業が苦痛になってきた。対面式のキッチンなんだが、男二人がバタバタするには少し狭かった。どうにもケンゾーの思うような作業ができないのである。
「厨房に男は二人も要らないよね」
とケンゾーは宣言。厨房はケンゾーの城となった。
で、父親が二番めに起きてくる。
「今日はなんだ?」
「特に変わり映えはないけどね。あえていうなら鳥ハツとキンカンの甘辛煮」
「そんなもんか」
「そう、そんなもん」
ふうんとうなずいて父親は出かけていく。
朝二番めの情報番組が、朝一番のニュースをデジャヴュ気味に放送しはじめる頃、姉が起きてくる。姉は特に弁当についてはコメントせず、むすっとカバンに詰め込む。冷蔵庫を開けると牛乳パックを取り出し、グビッとひとくち。白くなった唇をぐいっと腕で拭うと出かけていく。姉はずいぶんと男らしいとケンゾーは思う。会社では受付嬢をしていると言うけど、ケンゾーは冗談だと信じて疑わない。
二人を送りだすとケンゾーは自分の用意を始める。昨日、寝る前に組んでおいたデッキをカバンに放り込むと、帽子とマントに手をかける。ケンゾーの動きがふいに止まった。もう慣れたつもりでいるのだけど、こいつを目にすると戸惑ってしまう。羽織るべきなんだが、羽織りたくないような。やっぱり着ていかなくちゃまずいんだろうなあ。変なものを見るような近所の視線はだいぶ慣れてきた。そう、ケンゾーは学校の制服がいたく恥ずかしかったのだ。
2
目覚まし時計はセットしてある。しかし、金時は時計が鳴る前にむくりと起きだす。学校に通うようになってから、どうも同じ時間に目が覚めてしまうらしい。ワンルームフローリングの床に、ぺたりと敷かれた敷き布団の上であぐらをかいてみる。ぼーっとした頭で金時は、食べるものがあっただろうかと考える。昨日のバイトでは廃棄の弁当はもらえなかったんだっけ。アブナイ客が少なくてまずまずだったなあ。
などとコンビニでの労働を振り返りながら、ユニットバスの洗面台へ、のそのそと移動していく。ボサボサの髪の毛をセットしはじめて、歯ブラシを加えた口の端で苦笑い。とんがり帽子をかぶったら、髪の毛整えても意味がないんだった。爺ちゃんと撮った入学祝いの写真。そのとき、爺ちゃん、俺の格好見てなんて言ったんだっけ?
「とんがり帽子のメルモちゃん?」
いやいや、僕は宇宙から来た小人でもないし、青いキャンディーも赤いキャンディーも持ってませんから。
コインランドリーから持ち帰ったときのまんま、しわくちゃに積み重なった衣服の山から比較的シワの少ないTシャツを取り出して着替えはじめる。どうせマント羽織れば、下は何を着ていようがわからないはず。金時はそう考える。帽子とマントを身につける。愛用のバックパック、本来はスケボーが納まる場所に杖を差し込む。バックパックを背負いドイツ製折り畳み自転車を外へ運び出して組み立てる。シートに腰を掛けて、ペダルに足を降ろして、ふと空を見上げる。今日も天気は良さそうだ。暑い季節は、この格好ではちと厳しくなるんだよな。
「よし、今日はアンパンだ」
金時は朝食のメニューを即決して走り出した。チェーンの噛み合わせがいまひとつしっくりいってないのか、がりりと変速器が大きな音を立てた。
3
マスカラをつけ忘れたことに気づいたのは、慌てて飛び乗った通勤快速で席を確保してからだった。レンムは短い睫毛にちょっとだけコンプレックスをもっていた。つけ睫毛はあの肌が突っ張る感じと、フェイクな見映えが気に入らない。やっぱり自分にはマスカラが性に合ってる。しかし、安物のマスカラはすぐににじんで流れるのだ。目の周りがパンダのクマになってしまう。バイト代でようやく買ったマスカラはこすっても、水がついてもにじまない。お湯だけに反応するという画期的なもの。
しばらく足元を思いつめた表情で見つめた後、レンムはおもむろに大きなカバンの中から化粧ポーチを取り出した。電車の中で化粧をする女性が当たり前の風景になった。でも、レンムはあまり電車内で化粧をする気になれなかった。やっぱり化粧は人に見せるもんじゃないと思っているからだ。それに電車は揺れる。不規則な揺れの中でメイクするなんて自信がない。普段だったらガマンしたのだろうけど、この時ばかりは新しい化粧品を試したい気持ちが勝ってしまった。
化粧ポーチの中から、真新しいマスカラを取り出す。ゆっくりとキャップを回して、ブラシを筒の中から引き出していく。睫毛の間隔に合わせてでこぼこしていて、ちょいと先端が曲がったツヤのあるブラシ。レンムは妙に緊張してゴクリと生つばを呑込んだ。右目に向けてブラシを近づけたとき我に返った。
鏡が無い。右手のマスカラを左手に持ち替えて、カバンの中をゴソゴソしてみる。カバンに入れた杖が邪魔して、なかなか鏡が見つからない。レンムは鏡はあきらめて化粧ポーチに入っている、ファンデ用コンパクトの鏡を使うことにした。電車の揺れを体感しながら、慎重にブラシを睫毛に持っていく。なんとかうまくやれそうな予感。右目につけ終えたあたりで、レンムは妙な視線に気がついた。
視線はレンムの真正面に立つ男のものだった。和柄模様のスニーカー(ブランドものじゃないけど趣味は良さそう)、ポッケがごてごてついたパンツ(カード忍ばせとくには便利かな。男子はいいよなあ、オシャレに気使わなくて)、肩から下げているのは昼に御飯があったかいまんま食べられちゃうランチジャー(あれ?)。見たことのある青いマント(うぅっ)。小脇に抱えているのはひょっとして……青い帽子(!!)。
「あ…」
レンムは声をもらしてしまった。
ゲーっ、おんなじ学校だよ。ご大層に学校指定のバックパックに杖まで入れて。そんなに電車の中で化粧するのが珍しいのかとレンムはコンパクト越しに、ボーッとこっちを見ている男子の顔を見上げた。途端に視線がかち合った。
「な、何を見ている」
どうもレンムはとある事件の後遺症なのか、初対面の人間には男女の別は関係なく冷淡な言葉を投げつけてしまうらしいのだ。レンム自身も嫌なことなのだが、やってしまったことは仕方がない。
「マスカラ塗ってるところを見てます」
しばらくきょとんとしてから、男子はまっすぐの視線でそう答えた。ほとんどの人間はレンムのぶっきらぼうな物言いにゴニョゴニョしてしまうのだが、この男子は違っていた。
「左」
「なに?」
「左はつけないの?」
「あ…つ、つける」
レンムは慌てて左目の作業にとりかかる。なんか命令されたみたいで腹立つなあ。ふと、自分を覗き込む男子に向かって
「いつも見てるのか?」
再びぞんざいに訊ねていた。男子は相変わらずの正直なまなざしのまま、
「はい。うまい人のは特に」
少し微笑みながら答えた。電車内お化粧バージンに向かって“うまい”だなんてヘンなやつ。そう思いながらレンムは左目の作業にとりかかった。
4
金時はベンチに座ってアンパンをぱくついていた。学校の前に大きな公園がある。金時はこの公園で朝食を取るのが日課だった。今日のデッキについてあれこれ考えを巡らす。多分最初はあいつでいいんだろうなあ。で、あのパワーカードで装甲強化と。うむ。ちょいと強そうかもしんない。そろそろランチジャーをぶらさげてケンゾーがやって来るはず。金時が公園入り口を見つめていると、ケンゾーが女のコと連れ立って現れた。
「あれ?」
なにやらケンゾーが熱く語っているようだ。いつもボーッとしているやつにしては珍しい。ベンチで呆然としている金時をみつけて、ケンゾーが軽く手をあげる。二人の会話が金時の耳にも入ってきた。
「マスカラさんの右手の動きが、なんていうか、その曲線がうれしかったんです」
「忠告」
女のコがケンゾーに顔を向けた。
「青い帽子に青いマントで人のこと覗き込まないように。ただでさえ得体の知れない格好だというのに、あれでは立派な変態だ」
言われたケンゾーは、自分の姿をきょろきょろと見渡した。女のコに向き直ると
「あ、なるほど」
大きくうなずいた。ケンゾーがまたやったんだと金時は納得した。どうもケンゾーは器用に動く手先に見とれてしまうらしい。
「ケンゾー、そのコも名人?」
「うん? マスカラさんは右手首の返しがきれいなんだよ。金時は今日もアンパンなの?」
金時がケンゾーと朝の挨拶を交わしていると、女のコはベンチに大きなカバンをどっこいしょと乗っけた。カバンをゴソゴソさせながら
「マスカラさんじゃないぞ。私はレンムだ」
ぼそりとつぶやいた。は、はあという感じで金時がおずおずとうなずき
「金時です、こっちはケンゾー」
と自己紹介する。レンムはカバンの中から取り出したマントと帽子をキビキビと身につけた。青い帽子に青いマント。
「あれ?」
金時とケンゾーは一緒に声を上げた。なるほど校外でマント姿の女のコには、めったに遭遇しないと思っていたが、そういうことだったのか。女のコは外では私服で過ごし、制服は学校だけで着用するのか。
「だって、恥ずかしいじゃないか」
「あ、なるほど」
ケンゾーは大きくうなずいた。
5
ケンゾー達が通う専門学校はマルクト魔法学園という。理論ばかりを詰め込む他の学校と違って、カードを使った簡単な召還魔術『幻獣闘技』を教えている。実践派としても有名だが、青いマントと青い帽子の恥ずかしい制服でも有名だった。
今日も学園のいくつかの教室で、召還したモンスターの鳴き声や、怒号、落胆の声が響く授業が終わった。昼休みの喫茶室でケンゾーはランチジャーの中身をテーブルの上に並べていた。ほかほかの御飯、じゅんさいの吸い物、鳥ハツとキンカンの甘辛煮、厚焼き卵、モロヘイヤのおひたし。ケンゾーはおごそかにおじぎをするとお吸い物に手を伸ばす。
「ここで食べていいのか?」
「うん、オーナーに勝ったから。リベンジされなければ、今月は大丈夫」
「ふうん。しかし、おいしそうだなあ。お母さんは料理上手なんだ」
レンムはケンゾーの前に座りながら話しかけた。
「ううん、母親は中学のときから行方不明。で、これは僕が作った」
卵サンドをぱくついていたレンムの手が止まる。ケンゾーはああ、気にしないで、慣れっこだからとニコニコ笑った。
「え? あ、うん……」
レンムは少しだけ居心地が悪くなる。
「ケンゾー君。デート中のところ申し訳ない」
デート中ってなんだそりゃ? のレンムは、リストラされて自暴自棄状態で入学したとウワサの脱サラ吉田さんをにらみつけた。ケンゾーはニッコリ。
「あ、リストラさん」
リストラさん…。私がマスカラさんか。どうやら脱サラ吉田さんはこれから闘技場で闘うようで、自分が組んだカードデッキで大丈夫かどうか相談にきたらしい。ケンゾーは全方位型モンスターで様子を見た方がいいんじゃないですか、などとアドバイスをしている。
「ボーッとしてるけど、ケンゾーはあれで案外強いんだよ」
いつのまにか隣に座っていた金時が、ナポリタンに粉チーズをかけている。
「ねちっこいオーナーに勝ったくらいだから、まあなんとなくわかるかな」
ふとレンムがケンゾーの方を見ると、脱サラ吉田さんがペコペコ頭を下げている。ケンゾーは眉間にシワを寄せている。どうも相談が説教に変わったらしい。
「だって、知らない人なんでしょ? そんな借金の保証人になったら、後で恐いことに遭うに決まっているじゃないですか」
どうやら、脱サラ吉田さんは知らない生徒に、借金の保証人を頼まれたらしい。負けたら保証人を引き受けなきゃいけないそうだ。まあ、よっぽどのことがない限り幻獣闘技での決着を避けることはできない。なんたって、このマルクト魔術学園の一番のルールは、
「学内における問題解決は全てを幻獣闘技によって決定すること」
だもの。
代理を立てても、最終的な責任は幻獣闘技の当事者が請け負うことになる。ポイントは代理人のものだけど。まあ、脱サラ吉田さん、結構ナメられてるからなあ。レンムが卵サンドを食べ終わるとき、ケンゾーが言い放った。
「わかりました。僕がその闘い、引き受けましょう」
金時は納得の笑顔、レンムは驚きに引きつった顔で、ケンゾーのきっぱりはっきり宣言を耳にした。
6
幻獣闘技代理届けに必要事項を記入して総務部に提出する。ケンゾーが立会人として2名--この場合はレンムと金時--を伴って、吉田さんに案内されたのは1年生専用の第3幻獣闘技場。ケンゾーはカードデッキを用意して相手を待つことにした。
「吉田さんはいますか?」
やってきたのはギターケースを背負った、眼鏡で細身の少女だった。少女はギターケースの中から杖とカードデッキを取り出して闘技場へと近づいていく。ケンゾーと吉田さんのやりとりを見ていたのか、どうやら不利と見た対戦相手も代理人を立てたらしい。ギターケースの細身の少女といえば、力技で勝利をもぎ取ることで有名なバトル請負人の如月智子のはず。やっかいな代理人を立ててきたもんだ。ケンゾーの顔が少しだけマジメになる。
「吉田さんの代理人でケンゾーです」
「私も。コトブキの代理。如月です」
自己紹介の後、二人は所定の位置についた。等間隔に広がるマス目を挟んで、互いにゆっくりとおじぎをする。闘いが静かに始まった。先攻のケンゾーがカードを提示する。カードに立体映像のようなものが浮かび上がると同時に、ケンゾーの自陣にマンドラが現れた。呼応するように如月の陣地にドラゴンが現れる。
「あれじゃ、マンドラ、焼かれちゃうよね? ケンゾー、カード間違えてんじゃないの?」
レンムがイライラしながら金時に同意を求めた。金時はへへっと笑い、冷静に闘技場をながめている。
「おいおい、養育費の他に保証人かよ~」
脱サラ吉田さんが頭を抱えた瞬間、ドラゴンは咆哮を放つと、マンドラに襲いかかった。
7
「ね、案外強いだろ?」
「そうね。マンドラってあんな使い方ができたんだ」
幻獣闘技はケンゾーの勝利に終わった。負けた如月は瞳をうるうるさせてケンゾーをねめつけていたけど、よっぽど悔しかったんだろう。如月が立ち去った後で、廊下からどこんとゴミ箱を蹴る音が響いたくらいだから。吉田さんは大はしゃぎだったなあ。ケンゾーってホントに強いのかなあ。ま、ボーッとしてるいつもの顔が、ちょっとだけ引き締まったのには驚いたけど。
おごるんだと言って聞かない吉田さんに連れられて行った公園脇の焼鳥屋。レンムと金時は先ほどの幻獣闘技について語っていた。この焼き鳥屋、いつ行ってもサラリーマンと学生達で埋め尽くされている。煙りを逃がすために窓や引き戸が開けっ放しの店内は、夏場はケムクて、冬場は寒い。おまけに店員のサービスはぞんざい。なんとも不便で不満も多いのだが、そのなんとも不便で不満なところがいいんだ。吉田さんは嬉しそうに語る。吉田さんの音頭で乾杯を済ませた後、それぞれが食べたいものを注文した。ケンゾーはぼんじりの塩と肝のたれを前に、幸せそうに笑っている。金時はアンパンの次に大好きだと言う手羽先をもぎもぎしている。吉田さんはネギマを掴んで離さない。おまけに鼻を直撃した鳥わさのわさびに、目に涙をためている。
レンムはケンゾー達とは今日が初対面だったのだと、今さらながらに気がついた。人付き合いを始めるのが苦痛になっていた自分が、知り合ったばかりの人間と焼き鳥屋のテーブルを囲んでいる。普段と違う自分の行動に戸惑いながらも不思議と気持が良かった。いい気分ついでにふと思い出したことを金時に訊ねてみることにした。
「あ、ケンゾーに初めて会ったとき、金時はアンパンさんて呼ばれたんじゃない?」
「え? うん、そうだけど…それがどうかした?」
やっぱり。見たまんまかよ。レンムは苦笑いしながら、鳥なんこつに一味をふりかけるとあんぐりと串から引き抜いた。噛み締めると、なんこつがこりりといい音を立てた。