すりガラス
毎夜、窓をノックするあいつは誰――? 脳裏に浮かぶのは俺を捨てたあの女
ある日の夜中、男が、近頃己の身に起きる不穏で不気味な出来事について、電話していた。通話の相手は気心知れた昔からの友人。 毎晩毎晩、男の部屋に訪れる怪しい「音」とその「気配」。 けれど、男は友人からの言葉に、ふとあることに気づく。 そういえば、あの影は……。
※他サイトにも「水城仁那(篝史桜)」名義にて掲載してある作品です
あ、もしもし? 俺。
夜分遅くにごめんな?
なぁ、……あのさ。すりガラスって知ってる?
そう、昭和の建物の窓ガラスでよく見かけるアレだよ。
硝子の表面にすごく細かな凹凸をつけたアレ。時々、柄が入っていたりとかさ、してるアレだよ。
まぁほら……。もっとも、俺の部屋の台所の小窓とか、六畳間にある窓にはめられているのは、厳密にはすりガラスというのじゃないらしくてさ。あれ、型板ガラスって言って、硝子の片面に型模様をつけて視線を遮るタイプのやつらしいんだけど。
でもさぁ、〝型板ガラス〟っていわれても、あんまりピンとこないだろう? だからまぁ、……取り敢えず、すりガラスって言わせてもらっとくけど。要は、向うがはっきり見えない硝子って言う感じさえ分かってもらえれば。
あー、いや。硝子の話がしたいんじゃなくてさ。そうじゃなくて俺が電話したのはもっと違う話でなんだけどさ……。
なら硝子の話なんかするなって?
いや、それがさ。硝子がどんな硝子か言っておかないとこれから話す話はお前もぴんと来ないと思うんだよ。だからね、説明しているんだけど。――まぁいいか。
――で、本題なんだけどさ。
俺の部屋、昭和な木造建築のアパートの一部屋なのはお前も昔泊まりに来たことあるから知ってるよな。
そうそう、二階の角部屋。何だ、覚えてんじゃん。ははっ。
それでさ。
この間の夏からかなァ。いつ頃からかちょっとよく覚えてないんだけど、夜中に帰ってくる人がいるんだよ。
どうも同じ階に住んでる人っぽいんだけど、多分、真夜中の二時とか三時とかくらいかな。
コツ、コツ、コツって、ヒールの音がするからいつも目が覚めるんだわ。
あれ、時間帯からして、俺、多分だけど夜の仕事の人だと思ってたんだ。
ところがさ、ある日、俺気付いちゃったんだ。その足音って、いつのまにか、俺の部屋の前で止まってることに。
怖くね? その上、最近は鍵を取り出してガチャガチャと開けようとする音までするんだよ。
もうさ、俺、泥棒とか部屋間違えてるとか、そういう類の話かなと思って、身構えながら音のするドアをずっと見てたんだけどさ。でも奇妙なことに、ドアノブはうんともすんとも動いてない訳よ。
気味悪いだろ?
もう、俺、足音すんのが怖くてさぁ……。
てか、もし本当に泥棒とかで、どんな鍵が合うかとか試しに来てるんだったら怖いしさ。
だから俺、錠前屋に電話して、ドアの鍵変えてもらったんだ。
いや、まじまじ。
ちょ、お前! 笑うなって! こっちはほんとマジで怖いってか、洒落になってないんだから!
鍵交換代もばかにならなくてさぁ……。貧乏学生にとってはほんとマジで痛い出費とは思ったんだけどさ、命には代えられないっていうか、背に腹は代えられないっていうかさぁ……。
もうこの際、ついでだしって思って、二重鍵も設置してもらってさ。まぁこれで一安心、って思ってたんだよね。
でさ――え? 眠い? 待て待て、待てって。ここからなんだって。
そしたらさ、その夜早速来たわけ。夜中の足音の主が。
俺、大丈夫だとは思いつつもドキドキしながらドアを見てたのよ。そしたらまた、鍵の音とガチャガチャドアの鍵を開けるような音がしてさ。でも結局、ドアノブも相変わらず動かないわけよ。
たださ。ドアノブが動かないっていうのは正直気味は悪いけど、鍵を変えた上に二重ロックにした安心感はやっぱりあってさ。
少なくとも、知らない人が部屋に押し入ってくるっていう不安というか恐怖というかさ、そういうのからは脱出できたから、と思って、鍵を開けようとする音が止んでから、布団に潜りこんだんだよね。
そしたら今度はさ、台所のすりガラスを、こんこん、って誰かが叩くんだよ。
これはもう、あの足音のやつしかいないと思ってさ。
文句言ってやるかともちょっと思ったよ?
思ったけど、でもだからって、迂闊にドア開けたりして、そのまま押し入られたり、相手が変質者だったりとかで刺されたりとかしたら嫌じゃん?
俺、布団の中で、枕元に置いておいたスマホで警察に電話したわけ。
いや、ビビりって、お前なァ……。お前がそんな目に遭ってみろって。マジほんと、これやばいって思うって!
でもさ。お巡りさんが来たときには誰もいなくてさ。
取り敢えず警察の人には、防犯カメラか何か付けておいた方がいいですねって言われて。
それで俺、大家さんに事情説明しつつ、お巡りさんにそういわれました、って相談したら、大家さんがアパートの何か所かに防犯カメラ、つけてくれることになったんだ。
そそ、いいひとでしょ? 理解あるっていうかさ。
は? 事故物件になりたくないから? あー、まぁ、その可能性もあるだろうけど、ってそれ、俺が刺されるとか殺されるってことじゃねぇかよ。てめぇ……。
まぁ……、取り敢えずそれで、だ。
大家さんとはほら、以前、俺の部屋の隣の住民が騒ぎ立てた例の異臭騒ぎでちょっとぎくしゃくしてたからさ。
断られるかと思ってたんだけど良かったよ、ほんと。
でさ。もう、これで何かあっても映像に残るから安心だし、そうでなくてもカメラがあるってわかったら、もうそいつが来ることもなくなるだろうって思ってたんだよね。
でもさぁ、それでも来たんだよ。毎晩毎晩。台所の窓をコツコツ、って。しばらく叩いてるの。
もう流石にうんざりしてさ。大家さんと警察とに伝えたんだけど、カメラにはなにも映ってないっていうんだ。――で、終いには、俺に一度病院で診てもらえとかまで言い出してさ。失礼だと思わないか?
まぁお前に怒ってもしょうがないか。
――でな?
話はそれで終わってくれないんだ。
今日もさ、そいつ、窓ガラスをコツコツってずっと鳴らしてくれちゃうから、俺、どんなやつだろうって――。すりガラス越しだけど、さすがに文句の一つも部屋の中から言ってやろうって。そう思って台所の小窓の前までいったんだよ。
そしたらさ、やっぱり誰かいるんだよ。すりガラス越し、うっすら顔と長い髪が見えるんだ。
いや、もちろん、ぼんやりだよ? 硝子の柄ではっきりは見えないんだけど、滲んだみたいに――そこに顔があって、黒くて長いのが髪でって、わかる程度にはみえるじゃん?
で――、さ……。あ、あのさ……、そいつ……赤い、色? ……血、みたいなの? 顔の半分くらいが――。赤くて……。
さすがにちょっと気味が悪くてさ……。
――え? なに? 祥子? なんだよ急に。いなくなった女の話なんかして。あんな女、知らねぇよ。
ん? ……あぁ、そうだな。彼奴も確か夏ごろからいなくなったよな。
え? 祥子が帰ってきたんじゃないかって? いやそれはないな。彼奴はもう帰ってこないよ。俺に愛想尽かしたからこの部屋を出ていくって言ってたくらいだから……。俺は! 彼奴に! 捨てられたの!
蒸し返された昔の女の話に、俺は思わず怒ったような口調で、電話の向こうの友人に言い返す。
祥子が帰ってくるはずはない。それは俺には確信があった。
だってあいつは、俺がいつも寝ているベッド真上の天井裏に、凶器の植木鉢と一緒に、骨になって眠っているのだから――。
さすがに去年の異臭騒ぎの時は、ばれるんじゃないかとドキドキしたけれど――。
コンコン。
相変わらずすりガラスの向こうのナニカが窓を叩く。すりガラスでうっすらとぼやけた姿は、言われて見れば、息絶え床に転がっていた祥子の血塗れの顔に似ているように見えなくもなかった――。




