『咲いていたことを知らない薔薇』
高校一年の春、僕のクラスには美術の副担任がいた。
無口で、いつもどこか遠くを見ているような人だった。
特別な接点があったわけじゃない。
それでも、彼女の存在は記憶にこびりついている。
ある放課後、教室に戻ると、ふと校舎裏の花壇が目に入った。
そこに、彼女が立っていた。風が吹いていたのに、まるで風景の一部みたいに動かずに。
視線の先には、一輪の赤い薔薇があった。周囲の雑多な草花にまぎれて、それでも確かに咲いていた。
「昔、ある人から苗をもらったの」
ぽつりと彼女が言った。
「植える場所に迷って、ここにした。見つけてくれる人がいるかもしれないって」
それだけ言うと、彼女は背を向けて歩き去った。
数日後、その薔薇は跡形もなく消えていた。
誰かが抜いたような痕跡もない。
風が強かったわけでもない。
ただ、そこに“無くなった”という事実だけがあった。
時は流れ、僕は父親になった。
春になると、あの薔薇のことを思い出す。
正確には、薔薇と、彼女と、彼女が言った「ある人」のことだ。
ある日、子どもが描いた絵に目が留まった。
草花が揺れ、赤い花がぽつんと描かれている。
その隣に、背中を向けた誰かが立っていた。
「夢で見た」と、子どもは無邪気に笑った。
その構図が、何かを呼び起こした。
思い出せそうで思い出せない。
でも確かに、どこかで見たことがあるような。
押入れから古いスケッチブックを引っ張り出してみた。
めくっていくと、一枚の端に、赤い花が描かれていた。
薔薇だ。描いた記憶は無い。
でも、線の癖は僕のものだった。
その夜、無性に気になって、僕は高校の校舎へ向かった。
裏手の花壇は整備され、当時の面影はなかった。
けれど、立ち尽くしていると、ふと香りがした。
甘くて、どこか遠くを思わせる香りだった。
足元に目をやると、小さなボタンが落ちていた。
古びて、布の糸くずがわずかに絡んでいた。
見覚えがある気がした。いつ、どこでかは思い出せないまま、そっと拾った。
家に戻って、そのボタンを机に置いたとき、不意に彼女の声が頭をよぎった。
「薔薇ってね、咲いたあと、自分が枯れたことに気づかないんだって」
それは、あの時の「ある人」の言葉だった。
彼女が何度か、授業中につぶやいていた、誰にともなく語るような声。
彼女が誰から苗をもらったのか、そのときは聞かなかった。
でも、いまならわかる気がする。
あの薔薇は、自分の記憶のなかでずっと咲いていた。
それは、彼女の記憶でもあったのかもしれない。
「見つけてくれる人がいるかもしれないって」
あれはきっと、僕への言葉だった。
翌日、子どもがまた絵を描いていた。
そこには、花壇と、赤い花と、ボタンが描かれていた。
「今度は夢じゃなかった。パパが立ってた」と、子どもは言った。
僕は何も答えられなかった。
ただ、手のひらの中で、あのボタンの冷たさを感じていた。
それが、誰かの記憶の中でまだ続いている物語の、ほんの欠片のように思えた。