第二章:再会と芽生え(6)
蒼真もまた登山の準備を進めていた。行き先は、父と話したあの山──美山岳。ネットで拾った情報によると、登山道の途中に素晴らしい景色の広がる展望スポットがあるらしい。それも、この季節だけの新緑が映える場所だという。父の記憶と重ねながら、蒼真の期待も高まっていた。
当日の朝、蒼真は早朝5時に目を覚ました。窓の外はまだ薄暗く、静まり返った住宅街には鳥のさえずりだけが響いている。軽くストレッチをし、顔を洗ってから、昨夜炊いておいたおにぎりとインスタント味噌汁で簡単に朝食を済ませる。
リュックに準備しておいた装備を丁寧に確認する。バーナー、カップラーメン、チョコバー、折りたたみマット、コンパス、水筒、水のペットボトル、救急セット、タオル。そして登山届用のペンと書類。モバイルバッテリーも念のため入れておいた。今日の天気は晴れの予報だったが、雨具も一応入れておく。
登山靴を履いて家を出たのは5時半過ぎ。最寄り駅までの道のりを歩く間、まだ眠る町並みを静かに眺めていた。6時の始発電車に乗り、途中乗り換えを2回挟みながら、徐々に増えていく登山者らしき人々に交じって車内は賑わっていった。
7時45分、最寄りの登山口行きのバス停に到着。少し古びたベンチに座って、リュックを下ろして一息つく。周囲には登山慣れした様子の年配の男女数名が会話を交わしていた。蒼真は静かに耳を傾けながら、バスが来るのを待つ。
8時ちょうど、バスが到着。緑に囲まれた山間の道をしばらく揺られ、登山口の停留所に着いた頃には、山の空気がはっきりと肌で感じられるようになっていた。気温は思ったより低く、手袋を持ってこなかったことを少しだけ悔やむ。
まずは登山口横に設置された木造の案内所へ。入口に置かれた記入台で登山届を記入する。名前、登山開始時間、予定ルート、予想到着時間、そして緊急連絡先。ペンを走らせる手が少し緊張していた。
提出を終えると、案内所のおじさんが「気をつけてな」と笑顔で見送ってくれる。軽く会釈をし、リュックを背負い直して登山靴の紐を結び直す。
深呼吸を一つして、蒼真は登山道の入り口に立った。山道の入口には「美山岳登山道入口」と刻まれた木の標柱があり、鳥のさえずりと風の音だけが聞こえていた。
登山道に足を踏み入れると、心がゆっくりと整っていくのを感じた。空気が澄んでいて、吐いた息さえもすっと溶けていくようだった。鳥のさえずりや葉擦れの音が耳に優しく、頭の中に渦巻いていた思考が一つずつほどけていくような感覚に包まれる。
父が話していたビュースポット、かつて通っていた古いルート。そのひとつひとつを思い出しながら、蒼真は慎重に、しかし確かな足取りで山を登っていく。木漏れ日が地面に不規則な模様を描き、靴の底で小枝がパキッと音を立てるたびに、現実から少しずつ距離を取れているような気がしていた。
(この先、どう進んでいくんだろうな……)
進路のこと、大学のこと、そして自分は何になりたいのか。周囲の友達は、明確な目標を持って歩き始めているように見える。推薦のための資格を取りに行ったり、模試の結果に一喜一憂したり、夢を語る声に少しずつ置いていかれているような気がしていた。
蒼真自身はというと、まだぼんやりとした輪郭しか持っていなかった。ただ、山が好き。登っているときの、この自分に戻ってこられる感覚が好き。だからこそ、この気持ちをどう“将来”という言葉に繋げていけばいいのか、それがわからずにいた。
けれど、山に登っているときは、不思議とそうした焦燥も小さくなっていく。風が頬をなで、道端に咲く小さな花に気づき、岩肌に手をかける。五感を使って“今”を感じていると、昨日や明日のことさえ、遠く感じられる。
そんなとき、ふと頭に浮かんだのは、ゴールデンウィークの登山で偶然出会ったあの女の子──百瀬香菜のことだった。ほんの短い時間、数えるほどしか言葉を交わしていないはずなのに、彼女の雰囲気や表情、山頂でのあの柔らかな笑顔が、なぜか鮮明に思い出された。
彼女も、こんな風に山の空気に触れて、何かを感じていたのだろうか。
もう一度、会えるだろうか。……そんなことを思いながら、蒼真は再び足を前に踏み出した。
およそ四時間、自分のペースで登り続けた末に、蒼真はようやく山頂にたどり着いた。標高の高さとともに変わっていく景色に胸を躍らせつつも、終盤はさすがに疲労が足に重くのしかかった。息を整えながら最後の坂を登りきった先には、空が開けたような開放感のある風景が広がっていた。
空は抜けるような青で、遠くの山並みまでくっきりと見渡せる。吹き抜ける風は汗ばんだ体に心地よく、深く吸い込んだ空気は冷たくて清らかだった。
蒼真はその場にしばらく立ち尽くし、静かに景色を見つめていた。父が話していたビュースポットが、まさにここだったのかもしれないと思うと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
リュックを降ろし、広場の隅にある平らな岩に腰を下ろすと、足を伸ばしてひと息ついた。
そのままバーナーに火をつけてお湯を沸かし、昼食にカップラーメンを用意した。コポコポと湧き上がる音とともに、香りが鼻をくすぐる。
蓋を閉じて三分を待っていると、隣に座った中年の男性がふいに話しかけてきた。
「君、一人で登ってきたのかい?」
「はい。高校生なんですけど、最近よく登ってます」
「へえ、偉いね。俺なんか、君の歳の頃は勉強と部活だけでいっぱいいっぱいだったよ」
男は笑いながら、手元の水筒の蓋を開けた。
「でもね、若いうちに“何かに熱中できる時間”があるっていうのは、とても貴重なことなんだよ」
「……そうなんですか」
「仕事ってさ、やってみないと分からない部分が多い。でも、好きなことを続けてると、知らないうちに“自分らしさ”が育っていく。それが、いざというとき支えてくれるんだ」
その言葉は、蒼真の胸に静かに染み込んだ。
「僕、まだ何がしたいのか分からなくて……でも、山に来ると考えられる気がして」
「それなら十分。焦ることないよ。君はもう、ちゃんと歩き出してる」
そう言って、男は穏やかに笑った。ちょうどその時、蒼真のカップ麺が食べごろを迎えていた。
「じゃあ、山飯楽しんで。またどこかで会えるといいね」
男は立ち上がり、軽く手を振って去っていった。
蒼真は麺をすするとともに、その言葉の一つひとつを噛みしめた。
食べ終わった後、蒼真はごみを丁寧に片付け、水筒の水で手を軽く洗った。身体は少し疲れていたが、心はどこか軽く、晴れやかな気持ちだった。荷物を整え、再びリュックを背負い、ゆっくりと下山を始めた。
道中、ところどころで立ち止まりながら、下りの急斜面に気をつけて一歩ずつ進んでいく。午後の光が木々の隙間から差し込み、朝とは違う穏やかな表情を見せていた。
無事に登山口まで戻ったのは午後三時過ぎ。登山届の撤収チェックを済ませ、ベンチで一息つくと、心地よい達成感が身体を包んだ。
そこから再びバスに乗って駅へ向かい、乗り換えのために電車に乗った。二つ目の乗換駅に着いたとき、ホームを歩く人々の中に、ふと見覚えのある後ろ姿が視界に入った。
揺れるポニーテール、小柄な背丈、明るい色のリュック──
(……まさか) 瞬間、心臓が跳ねた。まさか、とは思いながらも、つい目を凝らしてしまう。似た雰囲気の誰か、そう思い込もうとしていたが、その人がふいに少し振り返った。
思わず足を止めると、その人物が振り返った。