第二章:再会と芽生え(3)
その週末、蒼真は次の登山に向けて、行きつけの登山用品店へ足を運んでいた。店は駅から少し歩いたところにあり、こぢんまりとしているが品揃えがよく、登山雑誌のコラムにも取り上げられるほどの名店だった。古びた木の看板と手書きのポップが、他にはないあたたかさを感じさせた。
この店に通い始めたのは中学三年の終わり頃。初めて本格的な登山に挑む前に、父親に連れられて来たのがきっかけだった。最初は登山靴の試着だけでも緊張していた自分が、今では一人でふらりと立ち寄るようになったのが不思議に感じる。
「いらっしゃーい、蒼真くん。また今週も来てくれたね」
レジカウンターの奥から顔を出したのは、店員の望月さん。三十代半ばの快活な女性で、登山歴二十年のベテラン。髪を一つに束ね、動きやすそうなアウトドアウェアを身にまとっている。蒼真にとっては、山のことを気軽に話せる数少ない大人のひとりだった。
「こんにちは。今度の休みに美山岳行こうと思ってて、新しい靴下見ておこうかなって」
「ああ、あそこね。新緑がきれいな時期だし、虫が増える前でちょうどいい。靴下なら、吸湿速乾のタイプが入荷したばかりだよ」
望月さんは棚の奥から数足を取り出しながら、蒼真の最近の山行の話に耳を傾ける。彼が高校生ながらも月一ペースで登っていることを知っており、いつもその成長を嬉しそうに見守ってくれていた。
「で、進路は? そろそろ本格的に考える頃でしょ?」
「うーん……まだ、迷ってます。山に関われるような仕事もいいなって思うけど、現実的じゃないって言われて……」
「現実はいつだって追いかけてくる。でも、それより“好き”を見失わないことが大事なんじゃない?」
望月さんの言葉に、蒼真は目を伏せながらも小さく頷いた。山に登るたびに、自分が何を大事にしたいのかが少しずつ見えてくる気がする。それでも将来の地図は、まだ霧に包まれていた。
「ありがとう。……なんか、ちょっと元気出ました」
「それはよかった。若いうちにいっぱい迷いなさい」
会計を済ませ、袋を受け取って店を出る。陽が傾き始めた帰り道、商店街を歩いていると、顔なじみの文房具店のおじさんに軽く会釈され、駄菓子屋からは子どもたちの笑い声が響いてくる。そんな何気ない街の風景の中で、蒼真はふと歩く速度を緩めた。
駅までの道をゆっくり歩いていると、見慣れた姿が前方から歩いてきた。
「あれ? 蒼真くん?」
振り返った先にいたのは、クラスメイトの松井紗季だった。制服の上にカーディガンを羽織り、コンビニの袋を手にぶら下げている。髪をゆるく巻いたスタイルで、どこか放課後のリラックスした雰囲気があった。
「偶然だね。こんなところで何してたの?」
「うん、ちょっと買い物。登山用品、週末また行こうと思ってて」
「へえ、相変わらず山好きなんだ」
紗季はにこっと微笑んで、蒼真の顔をのぞき込んだ。クラスでも目立つ存在の彼女は、その美人で気さくな雰囲気から男女問わず人気がある。蒼真に対しても、時折優しく声をかけてくる。
──紗季が蒼真のことを意識するようになったのは、高校二年の体育祭だった。暑い日差しの中、走り幅跳びの練習中に倒れた下級生を、誰よりも早く駆け寄って運んだのが蒼真だった。無言で、その子の背中を支えながら保健室まで運ぶ姿が、なぜか目に焼き付いて離れなかった。
特別派手なわけでもなく、目立つタイプでもない。でも、誰かのために自然と動ける人。そんな彼の姿に、紗季は静かに惹かれていった。
以来、彼に話しかけるタイミングを少しずつ探すようになった。話すたびに感じる、穏やかでまっすぐな瞳。そして、自分に媚びることのない距離感。それが、心地よかった。
「ねえ、今度の模試、隣の席なんだって。覚えてる?」
「ああ、うん。たしかに」
「そのとき、分かんないとこ教えてくれる?」
ほんの少し顔を近づけながら、軽やかに頼むその声に、蒼真はどう返事をしていいのか迷った。
「……うん、大丈夫だよ」
「やった。楽しみにしてる」
そう言って紗季は、軽く手を振って歩き出した。その後ろ姿を見送りながら、蒼真はふとため息をついた。遠ざかっていく彼女の背中が、少しだけ遠い存在のように感じられた。
どこか、胸の中に引っかかるものがあった。紗季の笑顔が嫌なわけじゃない。ただ、自分に向けられる感情の温度差に、戸惑ってしまう。
彼女の好意はわかる。でも、それが自分にとってどうなのか、まだ答えは出ていない。
──それでも、山に行けば、きっと何かが見える気がした。
蒼真は買ったばかりの登山用ソックスの袋を握りしめ、駅へと向かって再び歩き出した。沈みかけた太陽が、西の空を橙色に染めていた。