第二章:再会と芽生え(2)
香菜サイドの日常を描きました。
百瀬香菜もまた、変わらない日常の中にいた。
朝、目覚ましの音で目を覚まし、ゆっくりと体を起こす。カーテンを開けると、窓の外には穏やかな青空が広がっていた。寝癖のついた髪を手ぐしで整えながら、ぼんやりとした目で時計を確認する。
「ふう……今日も、頑張るか」
小さくつぶやきながら制服に着替え、リビングに降りると、すでに母親がテーブルに朝食を並べていた。焼きたてのトーストとスクランブルエッグ、サラダにヨーグルトというシンプルなメニューだ。
「おはよう、香菜。食パン焼いといたよ」
「ありがとう。……あれ? お父さんは?」
「今日は出張で早く出たのよ。来週まで戻らないって」
その言葉に、香菜はふと気が抜けたようなため息をついた。父親と話すのは、どこか安心できる時間だったからだ。
朝食を食べ終えると、バッグを背負って家を出る。駅へと向かう道の途中、香菜は毎朝立ち寄る場所がある。それは、小さな公園の脇にある緩やかな坂道の上。視界が開けていて、晴れた日には街の屋根がずっと遠くまで見渡せる。春には桜が咲き、今の季節は新緑が風に揺れている。
その場所に立つと、毎朝、心がほんの少しだけ軽くなる。深く息を吸い、空に浮かぶ雲を眺めると、自分の中のモヤモヤが少しだけ晴れる気がした。
その日も、香菜はその場所に立ち、軽く深呼吸をした。澄んだ朝の空気と鳥の声に包まれながら、空を見上げる。
「今日も、ちゃんと笑えるかな……」
小さく自分に問いかけて、歩き出す。校門の手前で、ひとりの少女が手を振ってきた。
「香菜ー! おはよ!」
それは、香菜にとって唯一、心を許せる友人──野村遥だった。
遥は明るく、どこか天真爛漫な雰囲気を持つ女の子。香菜の静かな性格とは対照的だが、不思議と波長が合う。遥の存在は、香菜にとって学校生活の中の小さな光だった。何気ない会話の中にも優しさがにじみ、緊張がほどけていくのを感じる。
「おはよう、遥ちゃん」
「今日さ、帰りに新しくできたカフェ行かない? 限定メニューあるんだって!」
「……うん、行ってみたい」
そんな何気ない会話に、香菜は救われていた。誰かと約束をすること、楽しみを持つこと。それだけで、一日が少しだけ明るく思えた。
教室に入ると、数人の女子が輪になっておしゃべりをしている。その中に入っていけない自分を感じながら、香菜は静かに席に着く。
──連休明けということもあって、男子たちの視線がなんとなく気になった。数人が廊下や教室で香菜に話しかけてくる。
「おはよう、百瀬さん。連休、どっか行った?」
「髪、切った? なんか雰囲気変わったね」
軽い調子の言葉に、香菜は苦笑いを浮かべるしかない。あまりに多くの視線が向くと、気疲れしてしまう。
その中でも特に目立っていたのが、バスケ部のエース・小坂悠人だった。明るくスポーツ万能で女子人気も高く、校内で“モテる男子”として知られている。
「百瀬さん、おはよう。プリント、先生に頼まれて持ってきたんだけど……」
手渡されたプリントはクラス共通のもの。だが、わざわざ自分が持ってこなくてもいいはずだった。香菜は戸惑いながらも「ありがとう」と微笑む。
小坂は入学当初から香菜に好意を抱いていたと噂されており、香菜もそれを何となく感じていた。だが、その好意はときに、彼のファンである女子生徒たちの視線を向けさせてしまう。
(また、噂になる……)
教室の隅からは、数人の女子生徒がじっとこちらを見ていた。彼女たちは小坂の“ファン”として有名で、香菜に対してあからさまに敵意を向けるわけではないが、視線やちょっとした言葉の端々からそれは伝わってくる。
「ねえ、また小坂くん、百瀬さんに話しかけてたよね」 「何あれ、わざと? ちょっと調子乗ってない?」
そんなささやき声が、香菜の耳にも微かに届く。気にしないようにしても、胸の奥に小さな痛みが広がっていく。
香菜が困ったように視線を伏せると、そっと近づいてきた遥が彼女の手を引いた。
「香菜ー! こっち、こっち! ホームルーム始まっちゃうよ!」
遥の明るい声に救われるように、香菜はその場を離れた。後ろで、小坂が少し寂しげに微笑んでいるのが見えた気がした。
席に戻った香菜のもとに、遥がそっと身を寄せる。
「ちょっと人気すぎるんだよね、あの人。香菜、気をつけなよ。あの子たちに睨まれるの、面倒だし」
遥が目配せした先には、数人の女子生徒がこちらをじっと見ていた。香菜は視線を逸らし、軽くうなずいた。
「うん、分かってる。ありがと、遥ちゃん」
遥がにこっと笑い返す。その笑顔に、香菜は少しだけ心が軽くなるのを感じた。
誰かの好意が、時に重たく感じることもある。それでも、遥のような存在がいてくれるから、香菜は前を向いていられた。
──また会えるのかな、あの人と。
そう思った瞬間、胸の奥にほんのりとした温かさが灯るのを感じた。名前を知って、言葉を交わして、それだけだったのに、なぜか強く印象に残っている。
あの山で出会った蒼真の、静かな笑顔と穏やかな声。
──もう一度、会えるだろうか。
頭では否定しつつそんな思いが浮かんでくるのであった。