第二章:再会と芽生え(1)
第二章の始まりです。ここから物語を本格的に進めたいと思っています。
目覚まし時計が鳴るより少し早く、春川蒼真は自然と目を開けた。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、机の上に置かれた受験用の問題集を照らしている。
連休も早々に過ぎ五月の終わり。梅雨入り前の晴れ間が続いており、朝の空気はすっきりとしていた。鳥のさえずりが遠くから聞こえ、日常の始まりをやさしく告げている。
「そろそろ……本格的に、ってやつか」
つぶやきながらゆっくりと身体を起こし、制服に袖を通す。鏡に映った自分の顔は、相変わらずどこか眠そうで、寝癖のついた髪を手ぐしで整える。今のところまだ志望校も完全には決まっていない。周りが次第に受験モードへと突入していく中で、蒼真は焦りと空白を心の奥に抱えていた。
階段を降りると、台所から味噌汁の香りが漂ってくる。
「おはよう、蒼真。今日も早いね」
母親がエプロン姿で朝食を準備していた。食卓には焼き魚、卵焼き、ほうれん草のおひたし、そして温かい味噌汁が並んでいる。いつも通りの朝だが、その“いつも通り”に、蒼真は心の安らぎを感じていた。
新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるのは父。週末になると必ず山へ出かける、筋金入りの登山好きだ。
「今日は学校の後、バイト?」
「うん。土日はシフト入ってるから、その前に図書室で少し勉強するつもり」
「えらいわね。お弁当、今日は少し多めにしておいたから。頑張ってね」
母が手渡してくれた弁当箱はいつもより重みがあり、蒼真は思わず小さく笑った。
「……あ、蒼真。今度の連休、美山岳登るつもりか?」
父が新聞越しに顔を出す。蒼真は箸を止め、少しだけ表情を和らげた。
「うん。新しいルート見つけたんだ。少し遠回りだけど、景色がいいらしくて」
「そうかそうか。学生のうちに登っておけ。社会にでたら、時間なんていくらあっても足りなくなるぞ。今が一番自由なときだ」
蒼真は頷きながらも、その“社会”という単語に少しだけ胸がざわつくのを感じた。将来のことを考えると、なぜか急に不安になる。大学の進路もまだ決められていない自分はどこに向かえばいいのか、自分には何ができるのか──そんな問いが、心の中にゆっくりと広がっていく。
学校までは自転車で二十分。風が心地よく、ペダルを踏む足にほどよい力が入る。通学路の途中、並木道の緑が光に透けてきらめいていた。
教室に入ると、すでに何人かのクラスメイトが集まっていた。ガヤガヤとした声が響く中、蒼真は自分の席へと向かう。
「おーい、蒼真ー。昨日の数学、わかんなかったんだけどさ、あれってどうやんの?」
声をかけてきたのは中学からの親友、田中圭吾。明るく人懐っこい性格で、誰とでもすぐ打ち解けるタイプ。少々大雑把ではあるが、憎めないやつだ。
「昨日の? 三問目のやつ? あれは……」
蒼真は鞄からノートを取り出し、式を書きながら説明を始めた。圭吾は相づちを打ちながら、「マジ助かる」と何度も言っていた。
ふと視線を感じて横を見ると、クラスで目立つ存在の女子・松井紗季がこちらを見ていた。長い髪をゆるく結んだ涼やかな目元が印象的で、男女問わず人気がある。蒼真とはクラスメイト以上の関わりはなかったが、最近、時折こうして視線を感じるようになっていた。
放課後、喫茶店「カフェ楓」に向かう。制服の上にエプロンを着けて厨房に入ると、先輩の志保さんが手を振ってくる。
「蒼真くん、今日はデザートが人気でさ、もうプリン残り2個だよ!」
「それは……プレッシャーですね」
笑い合いながら、接客に立つ。年配の常連が多いこの店では、落ち着いた空気が流れていて、学校とはまるで別の世界のようだった。蒼真にとっては、ここもまた、心を落ち着ける居場所のひとつだった。
その日の客には、初めて見る若いカップルや、親子連れの姿もあった。注文が重なり、厨房とホールの連携も忙しくなる。
──そして、夕方。ちょっとしたハプニングが起きた。
中学生くらいの男の子が、プリンを運んでいる途中でぶつかってしまい、皿が床に落ちて割れてしまったのだ。
「あ、ご、ごめんなさいっ……」
男の子は青ざめて震えている。蒼真はすぐに屈み、破片を慎重に片付けながら言った。
「大丈夫、こっちは気にしないで。怪我、してない?」
その優しい口調に、男の子はこくんと頷いた。隣にいた母親らしき女性もほっとしたような表情を浮かべ、「本当にすみません」と頭を下げてくる。
「よかったら、新しいのをもう一つお持ちしますね」
厨房の奥からは志保さんが「ナイスフォロー!」と小声で囁いてくる。
そんな小さな出来事が、蒼真の胸にほんの少しの充足感を与えていた。
仕事を終えて更衣室で制服に着替えると、窓の外はすっかり夕暮れに染まっていた。空は橙色から群青へと移ろい、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
──日常の中にある、ほんの少しの非日常。それは、次に訪れる再会の予兆だった。