出会いの山道(3)
第一章はこの話で終了です。
山頂近くの広場にたどり着いた蒼真は、ザックを下ろしてベンチに腰を下ろした。そこからの眺めは素晴らしかった。遠くの山並みが幾重にも重なり合い、青空とのコントラストが鮮やかだった。景色に見とれながら、彼は持参したおにぎりを取り出し、ひと口かじった。
水筒の水を飲みながら、ふと周囲を見渡すと、先ほどの家族連れが少し離れたベンチで昼食を広げていた。
その中で、少女──香菜だけが一人、やや離れた岩の上に腰を下ろして景色を見ていた。彼女の表情は穏やかでありながら、どこか遠くを見ているような、少しだけ寂しさをたたえていた。
風が吹き、彼女の足元にあったペットボトルが転がり始めた。ころころと音を立てながら、蒼真の方へと転がってくる。
蒼真は反射的にそれを拾い、彼女に近づいた。
「落ちたよ、これ」
「あっ……ありがとう」
少女は受け取りながら、はにかんだように微笑んだ。
「さっきも、ありがとうね。道、譲ってくれて」
「いや、別に。よく来るの? ここ」
「ううん、初めて。……というか、山登り自体が初めてかも」
「そうなんだ。にしては、元気そうだね」
「内心、けっこうバテてるよ。お父さんの趣味に付き合わされただけだし」
蒼真は思わず笑った。少女もつられて笑い、少しだけ空気が和らいだ。
「でも、来てよかったって思ってる。……景色、きれいだし」
「うん。今日は、天気もいいしね」
少女は空を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「名前、教えてくれる?」
「蒼真。春川蒼真。君は?」
「私? ──香菜。百瀬香菜。高校二年生」
それが、すべての始まりだった。
特別な予定があるわけでもなく、名前を交換したからといって連絡先を交換するわけでもない。けれど、その短い時間が、互いの心にやわらかく残った。
下山の途中、ふとした沈黙の中で二人の距離は不思議と心地よく保たれていた。言葉がなくても、景色を見上げるタイミングが揃ったり、歩くリズムが重なったりするたびに、少しずつ感覚が近づいていく。
途中、蒼真が足を止め、登山道の脇に咲いていた小さな花を指差す。「この花、見たことある?」「……ううん。なんていうの?」「たしか、ユキノシタだったかな。こう見えて、薬草にもなるんだってさ」──そんな他愛もない会話が、なぜか胸に温かく残った。
やがて山の中腹を過ぎ、駐車場の方向に分かれる分岐点が見えてくる。ここで、自然と二人は足を止めた。
「……じゃあ、またね」
「うん。……また、どこかで」
互いに深くは言葉を交わさず、でも確かに何かを交換したような、そんな別れだった。
帰り道、蒼真はふと立ち止まって後ろを振り返る。誰もいない山道には、まだ少女の声が残っているような気がした。
──また、どこかで会える気がする。
そんな予感だけが、風に乗って心に刻まれた。