第七章 人間の国-六
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冬が来た。嘔吐と下痢の感染症がこの地域を襲い、アストラの点滴商売は繁盛していた。しかし、彼女は同じような症例に次々と直面し、軽い倦怠感を感じ始めていた。医療行為には確かに喜びがあるが、未知の挑戦がなければアストラの興味は薄れてしまう。それでも、一日が終わりに近づく頃、新たな患者が診療所の扉を開けた。
二〇代の旅人、ロウェンは犬のような人懐こさで知られている。普段なら元気いっぱいで、街の人々に気軽に声をかけるような人物だが、今は様子が違っていた。彼の顔は蒼白で、目の下には深いクマが浮かんでいる。彼は診療台に座ると、アストラに向かってやや苦しげに笑った。
「まただよ、アストラ。数日前に治癒魔法を受けて、君に点滴を打ってもらったんだけど、もう再発しちゃったんだ。」
アストラは眉をひそめた。治癒魔法をかけても再発する――この世界ではあまり聞いたことがなかった現象だ。彼女は冷静な目でロウェンを観察しながら、質問を投げかけた。
「こういうことはよくあるの?」
ロウェンは首を振った。「いや、初めてだ。普通は一回治癒魔法をかければ、再発なんてしない。なんかの呪いかな。」
「食事はどうしてた?」アストラは次に聞いた。彼女は、もしかしたら不適切な食事が原因かもしれないと考えた。
ロウェンは少し困ったような顔をした。「恥ずかしながら金欠でさ、最近は固形の旅行者用ビスケットと水魔法で作った水しか取ってないんだ。旅先で生の食べ物を取るのって怖くてさ。」
アストラは考え込んだ。典型的な「旅行者下痢」ではないわね。彼女の医学的知識と科学的直感が、これが単なる環境要因によるものではないと告げていた。
「治癒魔法をもう一度かける?」一瞬、その選択肢が頭をよぎるが、アストラはすぐにそれを否定した。むしろ、これは治癒魔法の限界に迫る新たな症例であり、研究する価値があると彼女の好奇心が目覚めたのだ。
「もう一度点滴を打つわ。でももし再発したら、次は治癒魔法をかけずに来て。」彼女は冷静に指示した。
数日後、ロウェンは再び現れた。今度は、より深刻な症状を抱えていたが、アストラは確信していた。この症例は、彼女にとって貴重な研究材料であり、治癒魔法を使わない、否、使ってはならない症例の存在を示す絶好の機会だった。彼女は仮説に基づいて彼の治療を行い、それは成功した。
一週間後、街全体が嘔吐と下痢の感染症に襲われた。治癒魔法をかけても、数日後には再発する患者が後を絶たない。街は混乱に陥り、アストラの診療所には患者が次々と押し寄せてきた。師匠がその状況を冷静に観察していた。
「お前の出番だ、アストラ。」師匠の低い声が響く。
アストラの仮説はこうだった。この胃腸の感染症には比較的長い潜伏期間があり、治癒魔法がその発症前の時点に戻しても、すでに体内に病原体が残っていれば再発するのは避けられない。それが原因で、患者たちは繰り返し症状を発症し、徐々に体力を失っていく。
「今回は治癒魔法を使わない方がいいわ。」アストラは冷静に判断した。ロウェンの症例を観察した結果、治癒魔法を使用しないことが効果的であることが明らかになったのだ。
アストラは、最初にロウェンに治癒魔法を使わず、必要なら点滴を続けながら安静にするよう指示した。彼女は同時に、手洗いやマスクの重要性、吐物の処理方法などの感染症対策についても説明した。ロウェンは一瞬驚いたが、旅人としての柔軟性からその指示に従った。そして驚くべきことに、彼はその後、再発することなく回復したのだ。
しかし、ロウェンが受け入れてくれたからといって、他の街の住民たちが同じように治癒魔法を使わない選択肢を受け入れるかは不透明だった。アストラは、少なくとも自分の診療所では接触感染対策を徹底するのみで、流行が収まるまで耐えるつもりだった。
数日後、ラナが泣きながら、赤ん坊を抱えてアストラのもとに現れた。彼女は以前、アストラの作った即席の点滴で悪阻から救われ、健康な男の子を産んでいた。しかし、今目の前にいるその赤ん坊は、ぐったりとしてほとんど動かず、泣き声一つあげない。小さな体は力なく、皮膚は乾燥していた。赤ん坊もまた、治癒魔法が効かずに脱水を繰り返しており、命の危機に瀕していたのだ。ラナの夫と助産師のマリナが彼女に付き添い、二人とも必死の表情でアストラを見つめている。
「この子を助けてください……!」ラナは涙ながらに訴えた。
アストラは深くため息をつく。治癒魔法がこの潜伏期の長い感染症を根治できないことは、彼女の頭の中ではすでに確信に変わっていた。彼女は冷静な眼差しでラナの赤ん坊を見下ろし、その小さな命が炎のように消えかけているのを感じた。しかし、感情に動かされることなく、彼女は迅速に点滴の準備を始めた。
「治癒魔法をこれ以上かけないでください。」アストラは冷たく指示した。
ラナの夫とマリナは、明らかに動揺し、怒りを露わにした。彼らの中では、治癒魔法はあらゆる病を癒す万能で聖なる力であると考えられており、それを拒否することは理不尽に思えたのだ。
「治癒魔法を使わないなんて、正気か?この子が呪われているっていうのか!」夫が声を荒げた。
「赤ちゃんが死んじゃうかもしれないのに!」マリナも加勢した。
アストラは彼らの不安と反発に対して、冷静さを崩さなかった。彼女の科学的知識と経験は、この瞬間こそが治癒魔法の限界を明らかにする重要な場面だと告げていた。
「治癒魔法は逆効果です。」アストラは静かに言い切った。「この病気の原因は微生物です。治癒魔法は新しく増殖した病原体は除去できるようですが、二週間より以前から潜伏している一部の病原体が残ってしまうため、結果的に症状が再発し続けるのです。」
ラナが泣きながら、夫とマリナを静止した。「アストラさんを信じます。彼女だけが悪阻の時私を救ってくれたんです。」
その言葉で、夫とマリナもようやく口を閉ざした。アストラは慎重に点滴を行い、赤ん坊の体内に必要な水分を送り込んだ。そして、家族には再度の感染対策として、手洗いの徹底を指示した。彼らの顔には依然として疑念が残っていたが、ラナの強い信頼が二人を納得させた。
数日間点滴をした後、ラナの赤ん坊――名前は「カイ」――は、徐々にだが明確に回復していた。皮膚の乾燥は改善し、泣き声も取り戻し始めた。しかし、アストラは自分のカイに対する判断が街全体に伝わるにつれて、その反発の大きさに直面することになった。
彼女の診療所に訪れる患者たちの多くは、治癒魔法を使わずに感染対策を行うことを受け入れなかった。特に中年以降のものたちは、何世代にもわたって受け継がれてきた治癒魔法への絶対的な信頼、信仰と言ってもいいものを捨てることができなかった。アストラの考え方は異端視され、疎まれるようになっていった。
そんなある日、冒険者派遣組合の組合長、ゲルドがアストラのもとを訪れた。中年の男で、体格は大きく、筋肉が盛り上がった身体を誇示するような服装をしていた。彼はアストラを見下すような態度を隠さずに笑いかけた。
「アストラ、あんたがこんなに小さい女の子だとは思わなかったよ。」ゲルドはまずその事実に驚き、次いで声を上げて笑った。「ガキのくせに、こんな難しいことを考えているとはな。」
アストラは冷ややかな目で彼を見返した。彼女の外見を理由に見下されることは、この世界でも例外ではなかった。だが、彼女にとってそれは些末な問題に過ぎない。
ゲルドはこの感染症の極期に手洗いなどの基本的な感染対策も怠っているようだった。その無知さが、彼女には苛立たしかったが、感情を表には出さずにいた。
「冒険者派遣組合として、あんたの点滴の技術を利用したい。必要なところに派遣されてくれれば、金を払うし、あんたも組合で安全に暮らせるようになる。どうだ、悪い話じゃないだろ?」
アストラは一瞬の沈黙の後、はっきりと答えた。「興味ありません。」
ゲルドの顔が不愉快そうに歪んだ。そして、彼は嘲笑混じりの声で言った。「ふん、じゃあこうしよう。俺があんたの夫になるってのはどうだ?成人はしているらしいな。この街で俺に勝てる男はいないし、第四夫人くらいにはしてやるさ。」
アストラはその言葉を聞いても、表情を変えることなく、静かにその場を立ち去った。従うとも従わないとも言わず、ただ無言でその場を離れた。
外に出ると、ラナと彼女の夫、そしてマリナが待っていた。彼らはアストラに頭を下げ、申し訳なさそうに言った。「ごめんなさい、ノヴィスさん。あの組合長は……」
アストラは手を軽く振って、彼らを止めた。「気にならない。私はこの街を出るつもりだから。」
ラナの小さな赤ん坊、カイが小さな手でアストラの指を握り、じっと彼女の目を見つめ笑った。その無垢な笑顔に、アストラは一瞬、胸に何かがこみ上げるのを感じたが、すぐに冷静な表情を取り戻した。
「この街では、しばらく私のやり方は受け入れられないでしょう。」アストラは淡々と告げた。「私は旅先で、ここで得た知識を元に、さらに研究を進めるわ。」
ラナとその家族は、静かにアストラの決意を受け入れた。そして、彼女は次の目的地へと、冷静な足取りで歩き出した。
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最終診断:ウイルス性胃腸炎
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