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第六章 人間の国-五

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 しばらく依頼をこなし、アストラはようやく治癒の杖を購入した。その長さは他の杖となんら変わらず彼女の前腕ほど、幹から削り出されたままの粗野な姿だが、手にした瞬間から何かしらの力が内包されているのを感じた。彼女は自分の体にこの力を使おうと考えたが、問題があった。アストラは健康だったのだ。


 彼女は師匠が止める間もなくナイフで指先に浅く小さな傷をつけた。鋭い痛みが走るが、直後に本能的に杖を使った。杖に治癒を念じる。しかし……彼女の傷はそのままだった。「もしかして、この星の生命体にしか効果がない?」驚きながらも、アストラは直感的に思った。


 彼女は自らに再び傷をつけようとするが、師匠が即座に反応した。「アストラ、それはもう駄目だ。自分を傷つけるな。」


 彼女は微笑んで答えた。「了解。」そして、すぐにネズミ型の小型生命体を捕まえてきた。


 ネズミの尾をほんの少しだけナイフで傷つける。そして治癒の杖で治癒を念じると、眩しい光が杖から生じ、その光が消え去る頃には、尾の傷は綺麗に消え去っていた。


 しかし、彼女はネズミの体幹に引きつれたような古傷があるのに目を止めた。そちらに対しても治癒を念じて治癒の杖を当てる。しかし、眩しい光は生じず、傷もそのまま残っていたのであった。


「これは、どういうことなの……?」


 納得できない。私とネズミの違いは何?そして傷を残さず綺麗に消え去った様子は、まるで時間を戻しているようだった。しかし、もしも時間を自由自在に戻せるのならば、古傷も消えるはずではないか?もし局所的にでも時間が逆行するのであれば、この世界では容易に光速を超えることができることになる。連続した宇宙の中で物理法則の根本的な部分が異なることがあり得るのだろうか? 何かが違う。彼女の科学的探求心が騒ぎ始めた。ふと、かつて学んだ情報理論や熱力学の知識が脳裏をよぎる。エネルギーと情報の関係に関する理論だ。師匠がその考えに気づいたのだろう、すかさず解説を始めた。


「マクスウェルの悪魔の例えのように、エネルギーと情報の相互作用は無視できない。エーテルの本質がエネルギーであるならば、情報的側面も同時に存在する可能性がある。傷が治る過程で、過去の状態に戻すのではなく、過去の情報を参照し、再現している……というのはありうる。」


 マクスウェルの悪魔……アストラは元の世界でそれについて本物の師匠とした会話を思い出した。


 今より少し幼いアストラと師匠は、夕暮れに近い光が薄く射し込む森の中で、一息ついていた。柔らかな風が木々の間を通り過ぎ、彼女の長い赤い髪がわずかに揺れた。忙しく学業と実験を送る日々で、日常の休息は貴重な時間だった。師匠は彼女の横に座り、何かを考え込んでいるようだった。


「アストラ、今日はマクスウェルの悪魔について話してみようか。エネルギーと情報の関係を考えるのに、いい出発点だと思うんだ。」


「マクスウェルの悪魔……?」アストラは考え込んだ。「ああ、分子の運動を制御して、熱の移動を無視してエネルギーを取り出すっていう仮想の存在のことね。」


「そう、その通りだ。」師匠は静かに頷いた。「マクスウェルが考えたのは、熱力学第二法則に挑戦する仮説だった。彼の悪魔は、分子の運動を監視し、速い分子だけを通して一方の部屋を暖め、遅い分子だけを通してもう一方の部屋を冷やす。これによって、外部からエネルギーを加えることなく、二つの部屋の間に温度差を作り出すことができるというわけだ。」


「でも、それはエネルギー保存の法則に反しているわけじゃないの?」アストラは疑問を投げかけた。


「確かに、一見するとそう見える。だが、問題は熱力学第二法則の方だ。この法則は、エントロピーが自然に減少しないことを前提としている。しかし、もし悪魔が分子の運動を選別することでエントロピーを減少させるなら、それは第二法則を破ることになる。だが、この仮説には一つ重要なポイントが抜けているんだ。」


「重要なポイント?」アストラは興味深そうに顔を上げた。


「そう。それは情報のエネルギー的な側面だ。」師匠はゆっくりと続けた。「悪魔が分子の運動を観測し、どちらが速いかを判断するには情報が必要だ。その情報を得るためには、エネルギーが使われる。そして、その情報を管理し、記憶するプロセスも、結局はエントロピーの増加を伴う。つまり、悪魔がエネルギーを消費せずに操作しているわけではないということがわかるんだ。」


「情報自体がエネルギーと密接に関係しているってことね……」アストラはふかぶかと考え込んだ。「情報を得るためのエネルギー消費、そしてその情報を保持し、処理するためのエントロピーの増加……情報も物理的なものなんだわ。」


「その通りだ、アストラ。情報は単なる抽象的な概念ではなく、物理法則に従う。だから、悪魔がいくら速い分子を選別しても、その選別行為自体にエネルギーコストがかかり、そのコストがエントロピーの減少を打ち消す。つまり、最終的には熱力学第二法則は守られるんだ。」


「面白いわ。つまり、情報を扱うこと自体がエネルギーを消費するということね。情報がエネルギーを持つなんて、考えたこともなかったけど、確かにそうよね。情報を得ることにはコストがかかる……」


 アストラはここまでの師匠との会話を思い出し、エーテルは情報的な側面を持つ、という仮説に飛びついた。そうか、傷は過去の情報を「参照」しているのだ。時間を戻しているのではなく、傷がない状態という「情報」をエーテルが保存し、それを取り戻す過程なのではないか? それならば、なぜ古傷には効果がなかったのかも説明がつく。エーテルが保存する情報には限界があるのだ。長い時間が過ぎれば、熱力学第二法則に従ってエントロピーが増大して情報は失われてしまう。


「エーテルがこの星の生命体の形に重なってその情報を時間ごとに持っているとする。傷がついたとき、その差分が生まれるでしょ。その差分をなくすように、エーテルが細胞の位置関係を過去の状態に再配置する。」


 考えがまとまってきた。もしその理論が正しければ、傷の治癒は時間の逆行ではなくあくまで参照元に倣って再構築する現象である。ただし、治癒魔法は自己と非自己を見分けており、非自己は対象としない。そして、アストラには適応されない。


 アストラは思索を深めながら、さらに問いを投げかける。「悪性腫瘍も非自己になるのかしら……あとは、慢性疾患はもしかして罹病期間によっては治せない?過去の情報を参照する際に、どの期間まで保存されており正確に再現できるのかによるわね。もし治癒魔法が細胞単位での再配置に依存しているなら、体全体の状態を長期間記憶保持するのは非常に困難なはず。私に治癒魔法が適応されないのは、私にエーテルの記憶がないせい?」アストラは次々と仮説の適応される例を思い浮かべた。


「仮説の検証ね。」アストラはすでに次の行動を決めていた。


 彼女はさらに先ほどのネズミの尾の一部からエーテル除去を行った。その部分のエーテルを指定して別の空気中に火魔法を使い、エーテルのエネルギーを消費する。連続使用して、その部分のエーテルを完全に消費し、これ以上火魔法が出ないレベルに持っていく。そして尾のその部分に傷を付けて治癒魔法。効かない。やはり、治癒対象部分のエーテルを失っていると、周囲にエーテルがあっても治癒魔法が発動しないことが確認された。次に、ネズミの尾に傷をつけ、しばらく時間をおいてから治癒魔法を試みる。何匹も試験を行い、約二週間以内であれば魔法は効果を発揮したが、それを過ぎると、魔法を使うと逆に傷が悪化し、出血が滲み出すことがわかった。


「時間を巻き戻しているわけではない、そして記憶の保存も永遠ではない。やはりね。」


 仮説がさらに強化された。エーテルは、身体の過去の情報を保存しているが、その保存期間には限界があり、長時間が経過すれば、傷がついた状態が参照されてしまうのだ。


 アストラは満足げに微笑んだ。「これで治癒魔法が時間を戻すわけではないことがわかったわ。」だが、その科学的な探求心はまだ尽きることがなかった。今後も、この仮説を基にさらなる実験を重ね、治癒魔法の限界や応用可能な範囲を探るつもりであった。彼女は、治らない病気の症例を収集し、その仮説を緻密に検証し続けるだろう。


 師匠の冷静な声が響く。「さらなる検証が必要だ、アストラ。」


「……わかっているわ、師匠。」

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function heal_wound_using_ether(target_site, current_structure, ether_memory) {

  // target_site: 現在の傷部位の情報

  // current_structure: ターゲットの現状の細胞配置

  // ether_memory: エーテルに保存された過去の状態の情報


  past_information = retrieve_memory(ether_memory, target_site); // エーテルから過去の情報を取得

  difference = calculate_difference(current_structure, past_information); // 現在との違いを計算

  initiate_chemical_reactions(difference); // 差分をなくすように化学反応を起こす

  restore_cell_structure(target_site, past_information); // 細胞配置を過去の状態に再構築

}


 


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