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第二章 人間の国-一

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 アストラは、森を抜けた先に広がる街並みに自分を慎重に溶け込ませながら、街の中央にある「職業斡旋所」へと向かって歩いていた。彼女の小柄な体躯に重なる冷静な観察眼が、初めて訪れる異世界の街をまるでデータを収集するかのように捉えていた。異質な環境であっても、アストラにとってはそれが一つの知識の断片に過ぎない。重要なのは、そこから如何にして有用な情報を引き出すかということだ。


 彼女は、カウンターの前に立つと、呼吸を整え、「医者の仕事がありますか?」とシンプルに問いかけた。


 対応した係員は、彼女を上から下までざっと見て、「……?病気を治す者?」と、不思議そうな表情で首をかしげた。シンプルなシャツと革のズボン姿の彼には、その言葉がまるで初めて聞く異質な概念のように響いているらしい。「そんな職業は聞いたことがないな。病気は治癒魔法で治すものだ。病気を治すだけなんて職業は存在しない。」


 その瞬間、アストラの思考が一瞬硬直した。


「医者という職業がない?」

 

 彼女の頭の中では、自分が長年培ってきた理論や知識の基盤が、ゆっくりと崩れ始める感覚があった。さらに「治癒魔法」という聞き慣れない言葉が、その混乱に拍車をかける。彼女は本能的に、魔法という言葉がただのフィクションであると否定したい衝動に駆られたが、冷静な思考がそれを押し留めた。「魔法」――それは単なる未解明の物理現象が、この世界の住人によってそう名付けられただけのことかもしれない。


 彼女の脳裏には、次々と仮説が浮かんでは消えていく。この「治癒魔法」とは、彼女が知る医療技術と違うものなのか?もしそれが高度な医療技術であるなら、ブラックボックス化された医療機器のようなものではないか?しかし、彼女の中にある直感は、それだけでは説明できない何かが背後に潜んでいることを告げていた。


「師匠、治癒魔法というものについて、可能な限りのデータ収集を開始して」と、彼女は冷静にチップを介して思念で指示を飛ばした。彼女の相棒であるAI、『師匠』は即座に応答した。「了解。言語と文化的背景の調査を並行して進行中だ。」


 彼女は動揺を抑えるように深く息を吸い込み、脳内の混乱を整理し始めた。知識への飢えが、再び彼女の中で蠢き始める。「この医者を不要にする治癒魔法と呼ばれる事象を解明し、科学的に理解する必要があるわ。」


 アストラは再び冷静さを取り戻し、現実に引き戻されたように目の前の係員に質問を投げかけた。「魔法について、もっと知る方法はありますか?」


 その質問に対して、係員は肩をすくめ、無関心そうに「魔法の杖なら、冒険者派遣組合で安く手に入るさ。そこで仕事を請け負えば、資金も杖も揃うよ」と答えた。彼にとって魔法とは、日常の一部に過ぎないことがアストラにはすぐに伝わってきた。それは、彼女にとっての科学技術が、故郷の人にとっては当たり前のものであるのと同じように。


 アストラは軽く目を閉じ、一瞬、自分が現実から逸脱した場所にいるかのような感覚を覚えた。「魔法を行使するためのデバイスが、安く手に入る……?」彼女の心には次々と新たな疑問が生まれる。ここは本当に彼女が知っている科学の原則が通用する場所なのか?それとも、この世界自体が彼女の常識を覆す何かに包まれているのか?


 彼女の脳内では、数々の仮説が繰り返し立てられては破棄され、何が真実かを見極めるための準備が進んでいく。もし、この「魔法の杖」というものが物理的なデバイスであるなら、それはどのようにエネルギーを集め、制御し、変換しているのか?エネルギー保存則が適用されているのか、それとも別の法則が関与しているのか?


「まるでファンタジーの世界ね……」アストラは皮肉を込めて呟いた。しかし、その言葉の裏には、未知を前にして自分を防御しようとする心理が含まれていた。魔法という未知の力が、彼女の科学的な理論の範疇外にあるのなら、それをどのようにして自分の理解の枠内に引き戻すかが鍵となる。


「ありがとう」と短く礼を言い、彼女はその場を後にした。だが、心はすでに次の行動を決めていた。次に向かうべき場所は、冒険者派遣組合――そこに行けば、この世界の魔法と呼ばれる力、それを使う手段としての杖を手に入れ、その本質を解析する手がかりが得られるかもしれない。



 アストラは冒険者派遣組合の扉の前に立ち、そこに拮抗する感情があることを感じた。彼女の科学的な好奇心は、この未知の力を受け入れる準備をしていた。だが、同時に、この扉の向こうには、彼女の知っている世界とは異なる現実が待ち受けているかもしれないという警戒感、もしくは恐怖もあった。それでも、リスクを恐れていては進歩は得られない。彼女はそれを師匠から聞いてよく知っていた。


「いざ、次のステップへ」彼女は自らに言い聞かせ、扉に手をかけた。

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 アストラは冒険者派遣組合の扉を静かに押し開けた。内部は意外と活気があり、派遣を待つ者や依頼の内容を吟味する者たちで賑わっていた。彼女の小柄な体は、その喧騒の中に一瞬かき消されそうになったが、冷静な観察者としての目は一度もそれに惑わされることなく、即座に壁に掲げられた依頼リストに視線を走らせた。リストには様々な依頼がずらりと並び、アストラは師匠が自動で翻訳して視覚野にうつしだしたそれらを冷静に分析し始める。


「荷物の運搬、害獣の駆除……戦闘や体力を求められる仕事ばかりね」と、アストラは自らの非力な体を一瞬意識し、眉をひそめた。彼女は戦闘に関心を抱いたこともなければ、それを必要と感じたこともなかった。物理的な力は、知性によって代替できると信じていた。そして、目の前のリストに並ぶ仕事の中にも、戦闘や力に頼らずにこなせるものがいくつか見つかるだろうと予感していた。


「これね……」彼女の目は一つの依頼に止まった。それは「家畜のオスメス判定」というものだった。依頼内容には、視覚的訓練が必要とあり、通常であれば熟練した職人が担う仕事だった。しかし、アストラには彼女自身と師匠の知識と技術があった。赤外線センサーを用いれば、訓練を経て身につくであろう経験を、科学的な手法で補うことができるだろう。


 彼女は自然に口元に微笑みを浮かべた。「これなら、科学の応用でいけるわ。」


 師匠がすぐに応じる。「赤外線スキャンで十分だ。どんな家畜かわからんが、データを蓄積すれば、熟練者と同等の精度も出せるだろう。」


 次に彼女が目を留めたのは「翻訳作業」という依頼だった。多言語間での意思疎通をサポートするもので、異なる方言や書記体系を処理する必要があるらしい。未知の言語を解読し、体系的に理解すること――それは、アストラにとって理想的な課題だった。膨大な文献や言語データが蓄積されているなら、そこからこの世界の文化や歴史を解明する手がかりが得られるかもしれない。師匠の言語処理能力をフル活用すれば、この世界の言語解析は時間の問題だろう。

「これも面白い仕事になりそうね」と彼女は呟いた。


 さらに、アストラの目は「果実の選別」という依頼にも引き寄せられた。果物の見た目から糖度を推し量る作業であるというが、アストラにとってそれは単なる肉眼での判断に頼るものではなく、師匠のセンサーを使えば正確に糖度を測定することができる。彼女の中で、科学的に解明できる範囲内でこの世界の植物の生態系を理解する機会として興味がわいた。


「これも試してみる価値があるわね」と彼女はつぶやき、依頼リストをじっと見つめ続けた。


 依頼内容を決めた後、アストラはカウンターに向かい、派遣冒険者として登録する手続きを進めた。彼女が選んだ依頼内容を提示すると、職員は少し驚いたような表情を浮かべた。「普通は、この道何年ものベテランがやる仕事なんだけど……本当に君にできるのか?あまりに出来ないと、ペナルティがつくよ」


 アストラは、無機質な声で「確実にできるわ」とだけ答えた。職員は一瞬ためらったが、彼女が引く気がないことを察し、渋々と依頼を受け付けた。



 こうして、アストラと師匠は次々と依頼をこなしていくこととなった。それぞれの依頼は単調なものが多かったが、アストラにとってはそれがすべて実験であり、データ収集の場であった。家畜のオスメス判定のために訪れた養鶏場のようなところでは、屠殺された鶏の内臓構造が元の世界と同じであることを確認できた。また、翻訳作業を通じて、この世界にはエルフやドワーフといった多様な知的生命体が存在していることを知り、この世界が今は大きな戦争を経験していないことも理解した。


 さらに、果物の選別作業を通じて、この世界の植物も元の世界と同じく光合成の仕組みを持っている可能性が示唆された。日当たりと肥料が重要だという農家の話を聞きながら、アストラは冷静に観察を続けた。


 それらの報酬を少しずつ積み重ね、アストラはついに「魔法の杖」を購入することになった。驚いたことに、その価格は少し高級な昼食程度だった。彼女にとってその杖は単なる道具ではなかった。彼女はその杖を手に取りながら、これがこの世界の魔法と呼ばれる現象を解き明かすための重要な鍵となることを確信していた。


「さあ、次はこの魔法の杖の仕組みを解き明かす番ね」と、彼女は静かに自らに言い聞かせた。

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 アストラは窓口のカウンター越しに、控えめだが明るい笑顔を浮かべる若い女性を見上げた。彼女は最近結婚したばかりだと言う。名札の示す名前はラナ。現地の言葉で「輝く恒星」を意味するらしい。だが、その個人的な情報は、アストラにとってほとんど意味をなさない。彼女の興味は、目の前のカウンターにある「火の杖」に集中していた。アストラが初めて購入するその魔法の杖。それは、長さが約三〇センチメートル、まるで標準化されたデジタル機器のようには見えず、有機的な木の枝をごく軽く研磨したような見た目に過ぎなかった。それが本当に「魔法」を発揮するのか。アストラはその背後にある物理的メカニズムを推測しながら、ラナと言う女性の初回使用に関する説明を聞いていた。


「この杖は念じるだけで火が出るんですよ。」ラナは誇らしげに言った。「使いすぎると熱くなってしまうので、連続使用には気をつけてくださいね。」


 火が出る。アストラの脳内では、すぐに化学反応とエネルギー変換のプロセスが走った。しかし、燃焼に必要な還元剤はどうなっているのか?志向性はどのように実現しているのか?次々と浮かぶ疑問に、彼女の内なる科学者としての探究心が刺激される。


「念じるというのは、どの言語でも可能なの?」アストラは、意識的に感情を抑えた低い声で尋ねた。彼女の話し方は、どこか無機質で分析的だ。ラナは考えることなく、笑顔で答えた。


「はい、どんな言語でも有効です。考えるだけで十分です。適性のある方はとても大きな火を出せるんですよ。そんなに多くはいませんが。」


 握る末梢神経からの神経信号の解釈か、もしくは脳波の同期か。ノイズの処理はどうしている?アストラは一瞬、現代の脳科学に基づく技術を想像したが、それがこの「ファンタジー」世界でどのように実現されているのかは謎のままだった。アストラの後頸部に埋め込まれているチップのような技術がないことは、とうに把握していた。アストラはその未知の技術に対する興奮と、根拠のないものを信じたくないという懐疑心の間で揺れていた。


「これ……どうやって作られているの?」さらにアストラは尋ねる。彼女の声は冷静だが、好奇心の色が隠せない。


「世界樹の枝を使っています。一本の世界樹から火、風、土、水、光、雷、氷、そして治癒の杖を作ります。自然に落ちたものを、どの魔法か確認して、軽く整えるだけなんです。」ラナは楽しげに説明する。「だから、とても安価なんですよ。」


「世界樹」という言葉に、アストラは一瞬考え込んだ。科学的な用語に置き換えれば、それは特異な植物体でありかつ、自己の一部で同一製品を量産する工場になっている?だが、その具体的なメカニズムは不明だ。彼女は無意識に眉をひそめ、より詳細な分析のために、いずれ実地での詳細な調査が必要、とする結論に至った。


「使用者の適性については、どうやって決まるの?」最後にアストラが質問を投げかける。


「それは誰にもわかりません。ただ、使ってみるしかないんです。」ラナはあっけらかんと答えた。


 決定論的な解明を拒むその答えに、アストラは再び自分の立場が揺らいだことを感じた。しかし、アストラはその混乱を心の奥に押し込め、理性を取り戻す。未知の技術を解明するために、まずその技術を使ってみる。どんなに不確かであろうと、それが科学的な真理に到達するための一つの手段ではある。


「ありがとう。助かったわ。」アストラは、無感情な口調で短く礼を述べた。

 彼女は杖を手に取ると、その冷たさと重みを感じながら、実験の準備を整えるように、使い方のシミュレーションを頭の中で繰り返しはじめた。

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 アストラは宿に戻り、鞄の中から慎重に師匠を取り出した。彼のスクリーンが淡く光り、カメラアイで瞬時に彼女の認証を終えると、モジュールが起動した。彼女の手元で静かに振動する師匠は、まるで彼女の思索を後押しするかのようだった。


「火の魔法か……」アストラは、無意識に声に出していた。一科学者として、この現象を単なる「魔法」と言う言葉で片付けたくはなかった。それは科学的な理論によって解明できるべきものであって欲しかった。元の世界で、「火」とは何か、その定義は明白だった。元の世界での「火」は、酸化還元反応、還元剤と酸化剤との間で起こるエネルギー放出過程だ。だが、この世界の「火魔法」はどうか?


 彼女のよく知っている、師匠の低く穏やかな声が響く。「いわゆる魔法の火の生成過程に関して、お前はどう仮説を立てる?」


「まず、前提として確認したいの。」アストラは杖を見つめながら話を続ける。「元の世界では、酸化還元反応は主に酸素を酸化剤、燃料を還元剤として成立していた。この杖で生み出される火も同じなら、酸素が酸化剤として働いているはず。でも、還元剤は何?」


 彼女はその問いを抱えたまま、宿のそばの空き地へと向かった。ここでの実験は慎重に行わねば。彼女は火の杖を握りしめ、その先端を空気中に向け、無言で火が出るように念じた。瞬間的に青白い炎が生じ、杖の先から宙に広がった。その炎は一定の方向に燃え広がることなく、空中で揺れている。まるで、杖から出るバーナーのような炎だった。


 アストラは続けて落ち葉に炎を向けた。炎が触れた瞬間、落ち葉は炎に包まれ、瞬く間に燃え尽きた。物質の燃焼過程は、彼女の知識に合致していた。しかし、それがこの世界でどのように成立しているかは、まだ解明されていない。


 アストラが念じるのをやめると、途端に杖の先の炎は消えた。杖を握り直し、指先に伝わる温かさを感じた。炎を放った後の杖は微かに暖かくなっている。エネルギーは何処から来ているのか?


 アストラは、再び師匠に向き合った。「視覚的には、元の世界の火と何ら変わりのないものだった。次に、センサーを使って、反応前後の大気分析と、反応中の放射光のスペクトラム解析を頼みたい。」


 彼はすぐに応答する。「了解、火の杖の作動前後の大気組成を赤外線分光でモニタリングし、データを収集する。」


「師匠、準備はいい?」アストラは冷静に問いかけた。


「大丈夫、いつでも来いよ。」師匠が答える。


 彼女は頷き、杖を慎重に持ち上げた。火の杖を作動させると、予想通り、炎が瞬時に生じた。そして再び、落ち葉に着火する。落ち葉が炎に包まれ、やがて燃え落ちる。火は自然界の酸化反応の産物であり、化学的には酸素と燃料の結びつきによって生まれるはずだ。しかし、ここでは何かが違う。その直感を確かめるための実験だった。


 炎の消滅後、師匠の低い声が愉快そうに響く。「これは面白い。アストラ、この炎、落ち葉に着火する前は見た目だけだぞ。赤外線データは常温を示している。光がそれらしく放射されているだけだ。しかも特定の波長にピークがあるぞ。もちろん、大気中のガス組成は杖の作動と着火までの間で全く変わってないな。着火後は通常の有機物が酸化還元反応を起こすような温度と放射だ。燃焼後の大気中の二酸化炭素のごく微量の増加を探知した。」


 アストラはその言葉に微かに眉をひそめた。「つまり、火の杖から直接出る炎は着火までのこけおどしだというの?そうだとしても、光を放射するエネルギーの源は何?」


 アストラの頭の中で、理論が次々と組み立てられていく。彼女は既知の物理では説明できない現象に直面していた。そして今、師匠のデータがその直感を裏付けていた。


「光の放射は酸化還元反応ではなく、未知の粒子が関与しているとしたら?」彼女は自らに言い聞かせるように言葉を紡いだ。「仮にそれを歴史に倣ってエーテルと呼びましょう。空気中に存在するこのエーテルが、杖に反応してエネルギーを放出しているとすれば、通常の燃焼とは全く異なる機構で炎らしき光を生じさせていることになる。特定の波長にピークがあるということは、エネルギー準位があるもの?有機物に近づけられれば、その有機物に引火点までの温度を与えて通常の酸化還元反応を起こす、ということなのかしら……。」


 師匠が補足する。「エーテルが既知の物質ではないなら、崩壊してエネルギーを直接放出しているのかもな。ただ、放射線は検出されていないし、検出された温度的にはそこまで高エネルギーの反応は起こっていないかもしれん。」


 アストラはその言葉を反芻した。「粒子の崩壊を引き起こす杖なんて危険物じゃないの……。何が正解かはともかく、着火前の炎はただの光であって酸化還元反応によるものではない、ということよね。どちらかといえば化学反応より物理学的な現象になのかしら。」


 彼女の頭の中で、新たな仮説が形を成していく。このエーテルは、彼女の元の世界に存在しなかった、あるいは非常に希少、あるいは検出できない粒子であり、この世界では豊富に存在している。火の杖はそのエーテルを利用して、通常の燃焼反応と異なる方法でエネルギーを引き出している。放射された電磁波の量子性は、エネルギー準位の存在を示唆する。この理論が正しければ、魔法とは単に自然現象の一種ではなく、全く未知の粒子の存在に基づく現象だということになる。アストラは未知の現象に心を踊らせると同時に、まだ残る次の疑問に果敢に挑む姿勢を見せた。


「仮にエーテルから何らかの方法でエネルギーを取り出す事が火魔法の機構だとして……この杖は、念じたことをどうやって作用に変換しているの?思考を読み取り、作用として顕現させるメカニズムとは一体何?」


 アストラは、杖の説明を思い出しながら考え込んだ。「どんな言語でも……というのも気になる。」彼女は火を念じるという行為が、脳内のニューロン群の発火パターンに相当することを知っている。だが、その発火パターンは一様ではない。言語の違いに限らず、同じ言語を話す人間同士でも、同じ「火を出したい」というイメージに対するニューロンの発火パターンは個々に異なるはずだ。それにもかかわらず、どんな言語でも火が出るという。杖はどうやって、まるで彼女の脳に埋め込まれたチップのようにその個別のパターンを読み取り、実際に「火」を発生させるのだろうか?


 彼女の思考は、より細かい仮説の探求へと向かう。杖がその発火パターンを検出し、何らかの方法でそれをエーテルに対して命令を出しているのではないか。もしそれが可能であれば、杖は「火を出したい」という脳の活動を、エーテルに通じる言語にコンパイルして実行していると考えられる。


「実験から、少なくとも杖はエーテルに作用できることがわかるわ。」彼女は声に出して自分の思考を整理する。「さらに杖は、脳の特定の発火パターンに反応するセンサーを持っているのかもしれない。そして、そのセンサーが特定した活動パターンを、杖の内部で適切な炎の向きや大きさに翻訳し、それをさらにエーテルの言語に変換している。」


 アストラの理論は次第に応用を志向していく。「もしそうならば、師匠を使ってそのプロセスを検証できるかもしれない。」彼女は師匠に目を向ける。師匠のモデル名であるCortexは大脳皮質に由来する。その無数のニューロンのように張り巡らされた回路があれば、大脳皮質の発火パターンをシミュレートすることができるはずだ。もし師匠の表面回路に人工的に脳の発火パターンを再現し、チップを介して彼女の脳にそのままエミュレートできれば、杖がそのパターンにどう反応するかを観察することで、エーテル語を理解せずとも意図したエーテルのエネルギー放出過程を実現できるかもしれない。これは魔法を『ハック』し、さらに深く調べるための一石になるだろう。


「もしそれが可能だとして……エーテル語そのものと、杖がその発火パターンをどのように感知しているのか、センサーのメカニズムは未解明のままね。」アストラはさらに思案を続けた。「まだ材料が不足している。」


 師匠が静かに答える。「……エーテル語そのものを解明すれば、確かにそれは魔法の根源的な理解に繋がる。しかしそれが未解明でも、脳の電気活動からエーテルに細かい指示を与えられるとしたら、非常に興味深いし有用だ。俺は賛成だ。」


 アストラは頷いた。彼女の好奇心が再び静かに燃え上がる。この未知の世界のルールを解明し、科学的視点から魔法を理解する。それこそが、彼女の探求心を満たす次のステップだ。「そこからさらに杖がエーテルとどのように相互作用しているのかを解き明かせば、魔法を科学として解析できる。いずれエーテル語を理解すれば、杖を介さずに直接作用できる可能性もある。」


 アストラは腕を組み、少し考え込んだ。「しかし、まずはあなたの発火シミュレーションを利用して私たちの意図をエーテルにより精密に伝える方法を考えましょう。師匠に総当たりしてもらう前に、いくつか考察することはあるわね。」彼女はデータを基にしたアプローチに固執しつつも、実験的な探求への欲求を抑えられなかった。彼女の脳内で、次々と理論と仮説が結びつき、実験のデザインが形を取り始めていた。


「まずは、言語で念じた時と、イメージで念じた時の発動時間のずれね。」彼女は独り言のように呟いた。イメージの言語処理に伴うシーケンシャルな手続きを飛ばせば、発火パターンのアクセスにかかる時間が短縮されるのではないか?この仮説が正しければ、イメージで念じた場合の発動速度がほんのわずかに速いはずだ。


「魔法使い達がこうした研究を軍事的な応用目的で行っている可能性はあるけれど、今はそんな文献を探す時間はないわ。できる範囲で我々だけで再現性を取りましょう。」


 彼女の思考はさらに深まる。「フィードバック機構があれば、回数を重ねるごとに、発火パターンとイメージのずれが調整されるでしょう。だから、魔法使い達は慣れ親しんだ杖を使う方が扱いやすく、練習することで技術が向上する。これが、杖が大脳皮質の神経ネットワークに適応していくプロセスなのかもしれないわ。」


 アストラは火の杖を再び手に取り、じっくりと観察した。この単純そうに見える物体は、彼女の仮説では複雑なメカニズムを内包している。「この火の杖がエーテル語を話すなら、それはどこのエーテルを使うのか(where)、どのくらいの量を使うのか(how much)、どの時間作用させるのか(how long)、エネルギーを炎のような光として放出する、そして可燃物に接触したら、引火点までのエネルギーを与えよ、という五つの要素に分解できるはず。」


 彼女の目が師匠に向かう。冷静にして静謐な光を放つその球体は、無数の回路を内包する無機質な存在でありながら、彼女が最も信頼し尊敬するパートナーでもある。「この五つの要素を、大脳皮質の発火パターンと結びつける作業を始めるわ。大脳皮質の発火パターンを、あなたにシミュレートしてもらい、チップを介して私の脳に投射させる。それを杖に読み取らせる。これが成功すれば、杖に私たちの意図をより細かく伝えることができるかもしれないわ。」


 アストラは目を細めて笑った。師匠の表面には無数の回路が刻まれ、頭部は丸く、その形状はまるで実験のために最適化された道具のようだった。「モデル名Cortex《 大脳皮質》。おあつらえ向きね。まんまるの頭に無数の回路を持ってる、これ以上のシミュレーション環境はないわ。」


 彼女の好奇心は燃え上がっていた。杖、エーテル、そして師匠――これらすべてが、彼女の知的探求心を刺激し、未知の領域へと導いていく。科学と魔法、その融合点に何があるのか?彼女はその謎を解明するために、静かに動き出した。「さあ、師匠、次の一歩を踏み出しましょう。」



 いくつかの実験と試行錯誤の末、アストラは師匠を介してエーテル操作を行うことに成功した。彼女と師匠が計算から対象の数値を決定する。師匠が対応する発火パターンをアストラの脳にチップを介し投射する。杖のセンサーが彼女の大脳皮質の発火パターンを読み取り、エーテルを操って魔法を顕現させる。「どこに(where)」「どのくらいの量(how much)」「どの時間(how long)」「光でエネルギー放出を引き起こす」「熱でエネルギー放出を引き起こす」という四つの変数を彼を介して杖に伝えることが可能になったのだ。アストラは、複雑な命令を彼に蓄積させ、その発火パターンを通じて精密な魔法の制御を徐々に実現していった。


 杖が扱う「エーテル語」と彼女が仮に呼ぶその言語は、おそらく理解が簡単な自然言語ではないだろう。だが、彼の大脳皮質シミュレーションと組み合わせることで、彼女はエーテル語を「ハック」した。それが何を意味するかは未知数だったが、魔法の根幹に迫るための手段として大いに役立つことは間違いのないことだった。


 日々の仕事をこなしながら、彼女と師匠はさらに時間をかけてこのシステムを洗練させた。

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 次に彼女が手に入れたのは、水の杖と土の杖だった。水の杖の言語は「どこの空気から」「どのくらいの量」「H₂Oを取り出す」「どこに渡す」、土の杖は「どこの土と認識されるものから」「どのくらいの量」「何を」「どこに渡す」という命令セットを持っていた。


 新たな理解に達したアストラは、心の中で興奮を抑えられなかった。土と認識されるものの範囲は驚くほど広く、彼女の元の世界の化学に照らしてみれば、ケイ素、アルミニウム、鉄、カルシウム、カリウム、ナトリウム、マグネシウムの酸化物が主成分だとすぐに気づいた。問題は、それらをどうやって分解し、特定の化合物単体として抽出するかという点にあった。


 師匠と共同でさらに実験を重ね、土の杖を使い、酸化物から特定の元素を分離する試行を繰り返し、ついに安定した化合物を単体で指定することに成功した。この成果は、彼女が手にしている杖がただの単純な道具ではないことを再確認させると同時に、自らの技術力の向上を感じさせた。


「土と水、両方の杖がもたらす可能性は無限だわ。だが、この可能性を本当に手にするためには、もっと根本的な仕組みを解明しなくてはならない」と、彼女は胸の中で冷静な思索を続けた。

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お読みいただきありがとうございます。第三章を本日AM10:00に投稿します。

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