第十八章 温泉の街
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アストラは、浮遊する師匠を連れて深い雪の中を歩いていた。スノーブーツで踏み締める道の先には、雪に覆われた温泉の町が広がっている。冷たい空気の中、湯気が白く漂い、温泉特有の硫黄の匂いが鼻を刺激する。冬の名湯、硫黄泉として名高いこの地域には、同時に「冬の温泉の呪い」と呼ばれる奇妙な現象が伝えられていた。冬の間、雪の穴に落ちた者が突如として死に至るというのだ。治癒魔法の限界を示す症例ではないが、治癒魔法も間に合わないほどの急激な死――その原因を解き明かすため、二人はここに足を運んだ。
「ここまで言い伝えが多く残っているのに、未だに誰も原因を解明していないのは奇妙だな」と、師匠が言う。彼の低い声がアストラの思考を掻き立てる。
アストラは無言で頷きながら、雪の冷たさと空気の湿度をマフラーからはみ出た肌で感じていた。科学的に考えれば、自然現象が原因であるはずだ。しかし、この世界の人々は「呪い」として恐れている。それは、彼女の元いた世界とは異なる文化的な理解の問題でもある。
「噂を聞く限り、見つかる犠牲者はいつも雪穴の奥底で倒れている。万が一生きていてその場で治癒魔法を飛ばしても、治癒魔法が効かずに亡くなるという話もよく聞くわ。でも、実際に何が原因でそんな急激な死が起こるのか、誰も理解していないようね。」アストラはつぶやく。思考はすでに次のステップを考え始めていた。
しばらくして二人は温泉街に到着する。積もる雪に冷やされた空気にはわずかに腐卵臭がただよい、そこかしこの温泉からは白い湯気が立ち上っている。
「これは現地に来てみた甲斐があった。案外簡単に謎は解けるかもしれないぞ。待機分析によると、硫化水素の濃度が他の土地より高い。硫黄泉があちこちにあるだろう。硫化水素中毒が原因という可能性は高くないか?」師匠が提案する。「空気よりも重い硫化水素は、例えば地熱で溶けた雪穴の底に溜まりやすいだろう。もしそこで急激な中毒が発生すれば、確かに治癒魔法をかける時間もないまま死に至る。もし生きていたとしても、その場所のまま治癒魔法をかけても効かないだろうな。」
その言葉を聞いた瞬間、アストラの脳内で仮説が立ち上がった。「硫化水素か……それなら理屈が通る。温泉から発生した硫化水素が、雪で覆われた縦長の空間の底に溜まり、そこで濃度が上昇する。もし穴の中に人が入れば、硫化水素が肺に入り込み、酸素交換を妨げて急激に中毒を引き起こすわ。」
アストラの目は、町の中の温泉湧出口に向けられていた。湯気の中に漂う硫化水素が原因なら、それは致死的な濃度に達している場所があるはずだ。彼女はすぐに動き出した。
「師匠、ドローンを使って空気の成分をモニタリングしてくれる?」彼女は冷静な声で指示を出した。「硫化水素の濃度が高い場所を探して。特に雪の中の穴に溜まっている場所がないかを確認してほしいわ。」
「了解。分析を開始する。」師匠の声が返ってくると、彼のドローンが空に舞い上がり、周囲の大気成分を精密に分析し始めた。
数分後、師匠が結果を報告する。「硫化水素濃度が、雪のたて穴の内部で急激に上昇している。地表ではほとんど検出されないが、穴の底に近づくほど濃度が増しているな。人体に致命的なレベルだ。」
「やっぱりね……」アストラは静かに呟いた。「これなら、治癒魔法で命を救う暇もないはず。中毒が起こるスピードが速すぎる。」
アストラは一瞬の沈黙の後、再び口を開いた。「硫化水素中毒の場合、酸素の供給を妨げるだけじゃなく、神経系にも直接的な影響を与える。脳と筋肉が酸素を十分に取り込めなくなり、意識を失い、最悪の場合、呼吸停止に至る。深い穴の中にいると、そのリスクが一気に高まるのよ。」
彼女の声には、確信と共にわずかな苛立ちが混じっていた。科学的には簡単に解明できるはずの問題が、この世界では「呪い」として処理されている。その文化的なギャップが、彼女の探究心を刺激し続ける。
「防ぐ手段は?」師匠が問いかける。
「まず、予防が最も重要ね。硫化水素の溜まりやすい場所には警告を出し、雪穴に入らないように指導すること。あとは、もし中毒が発生した場合は、迅速に被害者を酸素の豊富な場所に移動させて酸素吸入を行うことが最優先。救助者が中毒にならないように気をつけてね。患者がもし低濃度の中毒なら治癒魔法ね。」
アストラは立ち上がり、温泉の町を見渡した。「科学的な問題なのに、それが呪いとして恐れられている。ここでは、知識が不足しているだけで命が失われている。私たちがやるべきことは、正しい知識を広めることね。」
師匠の声が低く響く。「その通りだ、アストラ。この状況では予防が最も重要だ。街の人の理解が得られればいいんだが。」
アストラは深く息を吸い、決意を固めた。「できることをしていくしかないわ。科学的な理解が、彼らの命を救うんだから。」
彼女は温泉町の人々に対し、冒険者派遣組合を通じて硫化水素中毒のリスクとその予防策を話した。温泉の湧き出る場所に警告を立て、雪穴には入らないように注意を促す。治癒魔法が効かないということは呪いであってどうしようもないのだ、と言い張る年配者もいたが、昨年幼い男の子を「呪い」で亡くし、悲嘆にくれていた町長の娘が、アストラの話をしっかりと聞いてくれた。この先この街の方針がどうなるかはわからないまま、アストラはこの街を出た。アストラは自分が少しでもこの魔法の世界と科学の橋渡しができていたらいい、と願った。
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最終診断:硫化水素中毒
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