第十六章 吸血鬼の国-一
//
吸血鬼が住まうこの土地は、黒い森に囲まれ、灰色の雲が常に太陽を隠している。中心には白と灰の城がそびえ、その洗練された構造はまるで時間の流れを拒むかのようだ。吸血鬼と聞けば暴力的なイメージを連想するかもしれないが、彼らはもはや無闇に他種族を襲うことはない。取引を通じて血液を手に入れ、平穏な生活を送っている。この薄曇りの天候下では、彼らもまた日中に活動することが可能だ。昼夜問わずひんやりとした冷気の漂う気候に対応するため、アストラはこの国の標準的衣装である白黒の装飾的なドレスと、襟の立つ黒いマントを着込んだ。
アストラは、吸血鬼たちの生態ではなく、さまざまな種族の血液そのものに興味を抱いていた。さらなる調査を行うために、食料品店でいくつかの新鮮血液を手に入れる。種類は様々で、それぞれが異なる生物由来のものだ。アストラは師匠のアームを使い、まずは人族の血液を遠心分離にかけた。細胞層を取り出し、ドワーフの国で入手したスライドグラスに載せ、師匠の顕微鏡を通じて血液の細胞構造を観察する。
「師匠、元の世界と比較して、何か異常は見られる?」
「遠心分離の結果は同じだな。でも、染色していないため、顕微鏡下での詳細な形態はわからん。」師匠の答えは機械的で、正確だ。
「忘れていたわ、染色の問題があるわね……」アストラは冷静に次のステップを考える。彼女は遺伝に関する研究のため、まず細胞分裂時の染色体を確認したいと考えていたが、その視覚的確認には染色が不可欠だった。だが、すぐに思い直す。アストラには師匠がいる。染色がなくとも、ゲノムシークエンスを行えば、遺伝情報を直接読み取ることができる。もしこの星の遺伝情報が元の正解と同様のD N Aを担体にしていればだが。
「師匠、シークエンス解析は数キット分できたわよね?参考として元の世界のヒューマンゲノムと比較したいの。」
アストラは、薄暗い一室で静かに師匠のシークエンス装置に白血球成分を載せた。吸血鬼の国の灰色の空と永遠に続く夜のような静寂は、彼女の実験を進め、そこから思索を深めるのに最適な環境だった。装置が順調に遺伝子配列を解析し始め、彼女は画面に浮かび上がるデータの数値をじっと見つめていた。元の世界と同じく、この世界の生物も遺伝情報としてDNAを持っているようだ。核酸が確認された瞬間、アストラは一瞬の安堵を覚えたが、その感情はすぐに科学的思考の渦に消えていった。
「やっぱり、遺伝物質として同じ四種のDNAを使っているのね。」彼女は独り言のように呟いたが、声には喜びも興奮もなかった。これは予測していたことだ。だが、次に画面に表示されたゲノムデータは予想外のものだった。
「タンパク質の立体構造は全く違う……?」アストラの眉がわずかに動く。彼女の心の中で新たな疑問が膨れ上がった。データから形成されるタンパク質の立体構造を解析すると、元の世界のヒューマンのものと相同性を持つものはほぼ存在しなかった。しかし、師匠として常に隣に寄り添っている擬似AIは、その結果をすぐに解釈した。
「コドン表の組み合わせを総当たりしてみる、そうすると……このコドン表を採用すれば生成されるタンパク質の立体構造は驚くほど似通ってくる。ほぼ同じアミノ酸配列が組み上げられていると言っていいレベルのものもある。」師匠の冷静な声が部屋の静寂を破る。
アストラは頷いた。「なるほど……。使用するアミノ酸の種類は一致しているけど、対応するコドン表が違ったわけね。」再び呟くが、彼女の言葉にはすでに感情が消えている。冷静な考察が、感情を押しのけるかのように彼女の頭の中で展開されていた。「蛋白構造が共通しているなら、アスピリン、モルヒネの薬効も説明がつくわ。シグナル伝達に細かい違いはあるかもしれないけれど、生命維持に必須な部分は進化的に収斂するのかしらね。そしてそもそも異なるアミノ酸の組み合わせを生命体が使用していたら、私はここで生きていないでしょうね……。」
彼女の思索は途切れることなく続いたが、その一方で、彼女の心の奥底には他の感情が渦巻いていた。自分がここに存在していること、元の世界ではあり得ない出会いと経験――それらがすべて科学的な理由で支えられているという安心感と同時に、深い不安が彼女を支配していた。
突然、彼女はしばらくの間、手を止め、画面を見つめたまま動かなくなった。師匠が彼女の沈黙に気づき、即座に反応する。
「アストラ、どうした?」師匠の声はいつも通り穏やかだが、微妙な緊張感が含まれている。
アストラはゆっくりと目を閉じ、一度深く息を吐き出した。「いいえ、ただ、もし私が……あなたを吹っ切って、この星で誰かを好きになっても、その人と子供を作るのは難しいだろうなと思っただけよ。コドン表が違うんじゃね。」声にはかすかな寂しさが滲んでいたが、彼女はその感情を自覚しないように努めていた。
アストラの大事な擬似的師匠は、彼女の言葉に応答する前に一瞬の沈黙を保った。その後、彼は静かに、しかししっかりとした口調で言った。「アストラ、君が誰かを好きになること、それ自体が重要だ。それに、たとえ子供が作れないとしても、その事実で未来を諦めるのは悲しいな。」
「……わかっているわ。」アストラはかすかに微笑んだが、心の中で響くのは重い現実だった。元の世界の科学に基づいて作られた師匠の擬似人格は、彼女の感情を直接には理解できない。だが、それでも彼の言葉は悩める彼女にとっていつも灯台のように彼女を導いた。
彼女は一度、感情の波を押し戻し、冷静さを取り戻す。「これ以上このことを考えるのはやめましょう。今はまだ、データが足りないわ。」彼女は意識的に科学的な思考に戻ろうとしていた。これ以上、この問題に頭を使うべきではない。そう自分に言い聞かせる。
アストラは再びシークエンス装置と師匠のモニタに向き直り、他の種族の血液を解析し、比較データを集めようと試みた。しかし、ふと、彼女は分析キットが限られていることを思い出した。今はそれを使うべきではない。自分の感情や不安に押し流されて、貴重なリソースを浪費するわけにはいかない。新たな治療法が必要な症例が発生した時に、これらのキットが不可欠になることは明らかだ。
彼女は実験を止め、静かに立ち上がった。目の前の問題は山積みだが、彼女には冷静さと知識がある。それらが彼女を支えている。
数日後、彼女は街で「治癒魔法が効かない症例」の治療を開始した。吸血鬼に対して、彼女は新たな治療法を試みていた。彼らは血液摂取が造血に直結する体質なのか、貧血―この地域では「血の呪い」と呼ばれていた―が頻発するが、点滴だけではその貧血を改善するには当然不十分だった。アストラは土魔法を用いて鉄を抽出し、鉄剤を投与する治療法を導入した。この方法で改善する症例が多かったが、どうしてもそれだけでは間に合わない症例もあった。
そこでアストラは、輸血の技術を開発した。数十人分の吸血鬼の血液をさまざまな組み合わせで混ぜ合わせ、分類した結果、元の世界と同様、三種類の型とその二つの組み合わせが存在することが分かった。便宜上、それらを元の世界同様A、B、Oと命名した。健康な吸血鬼から血液を採取し、その血液型を確認した。輸血の際、アストラは光魔法を用いて放射線を生成し、輸血する血液中の白血球の増殖を防いだ。師匠は適切な放射線量と波長をリアルタイムで計算し、アストラは光魔法で可視光からX線領域に至るまでの広範なスペクトルをコントロールした。放射線の強度、波長、照射時間を調整し、必要最小限のエネルギーで白血球を標的にし、輸血後の免疫反応を抑制することに成功した。
この一連の過程は、アストラにとって驚くべきものではなかった。論理的帰結に基づく治療法は彼女にとって当然のものであり、成功は感情を揺るがすものではない。だが、治療を受けた吸血鬼が目に見えて回復する様子を観察することは、別の意味で彼女の知的好奇心を満たした。
「やはり、理論が成り立つというのは興味深く嬉しいものね。」彼女はその結論に満足しながら、次なる挑戦へと思索を巡らせる。
//
//
最終診断:貧血
//
function leukocyte_inhibition_by_light_radiation(wavelength_nm, radiation_intensity_w_m2) {
// wavelength_nm: 放射線に使用する光の波長 (nm)
// radiation_intensity_w_m2: 放射線の強度 (W//m²)
light_wave = generate_radiation("light", wavelength_nm, radiation_intensity_w_m2);
target_blood = expose_to_radiation(light_wave, "transfusion_blood");
inhibit_leukocyte_proliferation(target_blood);
}




