第十二章 高山の国
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冷たい朝の霧が高山の盆地に広がり、静かに包み込むように町を覆っていた。空気は透き通り、中央の木造の城だけが霧の中から頭を出している。その周囲に生い茂る薬草は、この気候のおかげで豊かな成長を見せているらしい。アストラは、この地に薬草治療の可能性を探りに来た。冒険者派遣組合で薬師の手伝いの依頼を探し、彼女はある薬師の店へと足を運ぶことになる。その薬師は三〇代の女性、柔らかな顔立ちだが、内に深い決意を秘めていることがうかがえた。彼女の名はナディア・カルム。ナディアは、アストラが女性であり、呪いと呼ばれるものの治療に興味があることを知ると、わずかに安心したような表情を浮かべたが、アストラはまだ自分が魔法を使った治療を試みる治療家であることは黙して語らなかった。
ナディアの薬屋には、治癒魔法では対処できない、もしくはそれほどの魔法を必要としない症状の患者がひっきりなしに訪れていた。アストラはナディアに倣い、緑を基調にしたディアンドル風のエプロンドレスとヘッドドレスを纏い、ナディアの補助を行なった。アストラが観察を続ける中で、特に興味を引かれたのは、ナディアが独自に作った経口補水液だった。塩分を豊富に含むアイスプランツと砂糖大根の搾り汁を水に混ぜたもので、彼女は経験的にそれがただの水よりも脱水症状に効果的だと判断していた。
「一部の医学知識が、この世界では経験則として体系化されていない形で自然に伝わっているのかもしれない。」とアストラは思った。ナディアの持つ経験と直感は、しばしばアストラの医学知識と重なり合う部分があった。例えば、噛むと痛みを和らげるとされる木の皮はアスピリンのような成分を含む可能性があり、便秘を治すお茶はセンナの下剤成分を含んでいるようだった。アストラはそのたびに感嘆し、ナディアへの尊敬を深めていった。
ある日、アストラはナディアと共に診療所を出て、高原の冷たい空気を吸い込みながら、目の前に広がる遠景をじっと見つめていた。彼女と共に往診に出るため、この町を歩き回ることが日常になっていたが、標高の高い場所特有の空気の清浄さは、彼女の故郷では味わったことのないものだった。この街には、治癒魔法が効かない重症の患者たちもまた、集まっているのだという。薬草と澄んだ空気を頼りに、療養のために移住してきたのだとか。
ナディアはアストラに、治癒魔法で完治しない患者たちの話をしていた。「今日は、特に症状が重い患者さんたちを診に行くわ。体が弱って血の混じった咳が止まらない方、肝臓が悪くて体が黄色くなった方、鼻が変形してしまった方もいるの。」
アストラはナディアの言葉に耳を傾けながら、頭の中でそれぞれの症状を自分の知る医学知識と照らし合わせて診断を推論した。咳と血の混じった痰――それは結核の可能性が高い。体が黄色くなる――肝炎ウイルスの慢性感染による肝硬変の可能性がある。鼻が溶けるように変形している――梅毒の末期症状だろうか。いずれも、長期間体内に潜伏し、遅れて発症する感染症。発症後に治癒魔法をかけても、時間経過が大きすぎて病原体を完全に除去することができない。アストラは無意識に眉をひそめた。
「そういう病気があるなら、無症状のうちに定期的に治癒魔法をかければ予防になるんじゃない?」と、アストラはふと疑問を口にした。
ナディアは微笑みながら頷いた。「その通り。だから私たちは毎日診察の後に治癒魔法をかけているわ。でも、実は治癒魔法が万能だと信じ込んでいる人がほとんどなの。魔法の権威である学園都市は、治癒魔法は神聖で、治らないものは病気ではなく呪いであると教えているから、みんな病気の兆候が出てから初めて治癒魔法を使おうとするのよ。私たち薬師は、そんな治癒魔法の手からこぼれ落ちてしまった患者さんを救いたいと思っているわ。私は治癒魔法が効かない人が皆、呪われているというのは正直懐疑的なの。」
アストラは沈黙したまま、ナディアの言葉を反芻していた。学園都市が治癒魔法を神聖化していると――それがこの世界における科学技術の発展に対する無意識の抵抗になっている可能性がある。治癒魔法が効かない病態を、呪いと言ってハナから突き放し切り離すような態度では、治癒魔法以外の医療の発展は厳しいだろう。この世界に医療の発展は必要だ。例えば今ここに科学技術があれば……彼女が元の世界から持ってきて壊れてしまったような医療機器があれば、この患者たちにもっと効果的な治療ができただろう。体液や組織を清潔に採取し、病原体を特定し、薬剤を合成することは可能だったかもしれない。しかし、それは仮定の話だ。現実として、医療機器は完全に壊れてしまったし、仮に動かせたとしても、限られた資源でアストラが永遠に治療を続けられるわけではない。元の世界に匹敵するような科学技術をここで再構築して普及させるには、途方もない時間がかかるだろう。しかし、希望はある。この世界の魔法には、彼女がまだ解明していない無限の可能性がある。それを有効に医学と組み合わせることができれば、元の世界の早々に医療技術を超えられるかもしれない。そしてその橋渡しができるのは、自分しかいない――アストラはそう結論づけた。
「私にはまだやるべきことが多いわね。」アストラは独り言のように呟いた。
「何か言った?」ナディアが振り返り、優しく問いかける。アストラはかぶりを振った。
「いや、なんでもないの。」彼女はそれ以上何も言わなかった。
この街の高原の空気の冷たさと、彼女の胸の内にある決意の熱が、奇妙に混じり合い、彼女の思索をさらに深めていく。
「この世界の魔法を利用して医療レベル全体の底上げを図れたなら……」
ナディアに少しずつ薬草の知識を教えられていたある日、薬屋に息を切らせた母親が駆け込んでくる。どうしてか治癒魔法が効かない、呪いだと。抱えられた十歳ほどの男の子はぐったりとしており、異常なまでに高熱があり、体中に紫斑が広がっていた。呼吸は速く、口や鼻から出血している。アストラはすぐに異常を察知した。不自然に膨らんだ腹部、痛みによるうめき声——急性白血病の典型的な症状だった。直感的に理解したものの、この世界でその病をどのように扱うかは未知数だった。
ナディアは診察を始めたが、見たこともない症状に明らかに戸惑っていた。彼女は通常の腹部感染症に準じた治療を試み、経口補水と鎮痛薬を与えようとしたが、子供は嘔吐を繰り返し、薬はほとんど体内に留まらなかった。アストラは決断し、静かにナディアに語りかける。「この子を助けるために、点滴が必要です。」彼女はナディアに、今自分がしようとしているのが、治癒魔法ではなく他の手法による治療であることを説明した。
ナディアは最初驚いたが、すぐに理解し、アストラの手際に従った。点滴を通じて経静脈的に液体が補給されると、子供の容体は一時的に安定した。アストラは子供の母親に、今後も状態を見守り、何か異常があればすぐに知らせるよう指示した。しかし、心の中では、自分ができることの限界を強く感じていた。「白血病は魔法ではなく、分子レベルでの治療が必要な病。この世界にはそのための薬がない。私は今、手をこまねいているだけ……。」
アストラとナディアはその後、薬屋に戻り、落ち着いた空気の中で改めて話をする。アストラは、自分が魔法と医学の融合による新しい治療法を模索している治療家であることを説明した。ナディアは、自分が治癒魔法の適性がほとんどないことを少しばかり劣等感に感じていたが、アストラの話を聞いて目を輝かせた。「他の魔法でも治療に使えるのか……その可能性があるなんて思いもしなかったわ!」と。
アストラは注意深く「ただ、私が使っているのは師匠の補助があってこそ成り立っているものだから、再現性があるかはわからない。それでも探求したいと思うなら、一緒にやっていけると思う」と告げた。ナディアはその言葉に深くうなずき、彼女自身もその可能性を模索し、より多くの命を救いたいと願った。
共に、彼女たちは新しい治療法を探求することを誓い合った。科学と魔法、自然の知識と技術が交わる場所にこそ、真の解決策が見つかるかもしれない——それがアストラの結論だった。しかし、あの少年に関しては……。
翌日、霧が立ち込める早朝の薬屋で、アストラはナディアと対面していた。光が少しずつ店内に差し込む中、二人は静かに話を続ける。彼女は慎重に言葉を選びながら、あの子供、十一歳の少年の症状について説明する。「血液の中で異常な細胞が増殖している可能性が高い」と、アストラはナディアに告げた。
ナディアは、アストラが提示した「血液の新生物」という概念に興味を抱いていたが、それ以上に切迫していたのは、その少年の命だった。「治療法は?」ナディアは直接的に尋ねた。彼女の声には希望が込められていたが、同時に不安も漂っている。
アストラは目を伏せ、師匠も黙り込んだ。治療法は今は存在しない。診断すら確定できていなければ、抗がん剤の生成は夢物語だ。この世界には化学療法も移植もなければ、それを可能にする人的資源も技術も、ない。「ないわ。」アストラはため息をつき、言葉を絞り出した。「私たちにできるのは、点滴で脱水を防ぐことだけ。それでも、最終的には彼は命を失うでしょう。」
ナディアは無言でその説明を受け止めた。彼女は自身の無力さを感じていたのか、沈黙の中で一瞬、顔が硬くなった。
その後、アストラとナディアは少年の家を訪れる日々が続いた。彼の状態は日を追うごとに悪化していた。母親の顔は憔悴し、父親も疲れ果てていた。痛みに呻くその姿に、アストラは冷静さを保とうとするが、心の奥底では何かが揺れ動いていることを感じていた。
帰宅後、ナディアが一つの瓶を持ち出してきた。「これは……」と彼女は震えた声で言った。「代々、秘匿してきたものです。ある草の実の抽出液で、呼吸抑制や依存性のリスクがありますが、強力な鎮痛効果がある……もし、これを点滴で使えたら、あの子の苦しみを和らげることができるかもしれない。」
アストラはその説明を聞いて直感した。アヘンだ。師匠と共に、瓶の中身を分析し、慎重にモルヒネを抽出した。それを適切な濃度に調整し、生理食塩水に混ぜる。「これで彼の痛みを取り除けるはず……」アストラは言いながら、ナディアに感謝の気持ちを込めた。
翌日、両親はアストラとナディアの提案を受け入れた。息子の痛みを和らげたい、しかし彼との最後の会話ができなくなる可能性もある。両親は泣きながらも決断した。「彼も、この痛みから解放されたいと言っています。」
アストラはゆっくりとモルヒネを点滴に流し込んだ。少しずつ、少年の激痛に苦しむ叫び声が消え、彼の呼吸は安定した。彼の顔に、久しぶりの安堵が浮かんだ。「楽になった……」と、彼は静かに呟いた。両親はその瞬間、再び涙を流しながらも喜んでいた。アストラは静かに立ち去り、彼らに最後の時間を与えた。アストラは、少年が苦しまないように定期的にモルヒネを投与した。
数日後、少年は静かに息を引き取った。両親は彼との最後の会話を思い出にして、穏やかな別れを迎えた。アストラとナディアはその葬儀に参列し、彼の棺に花を捧げた。死という無情な現実が、この世界でも彼女たちを苛んでいた。
夜になり、彼女は宿屋に戻り、師匠に語りかけた。冷たい月光が窓から差し込み、部屋に微かな影を落としていた。
「今回の件で痛感したことがあるわ」アストラの声は静かだったが、確固たる決意が込められていた。「この世界の医療のレベルを引き上げる必要がある。それを、魔法の探究と並ぶもう一つの使命にしたいの。」彼女は、魔法の理解を深めることが究極の目標であり続けるが、この世界の医療に貢献することが新たな道となることを自覚していた。
師匠のモノアイが彼女をじっと見つめている。彼は淡々と返事を返した。「アストラ、それは大きな目標だ。お前にはその知識がある。だが、この世界の限界もある。」
「限界はあるでしょうね。でも、それは私が元の世界で学んだ知識と、ここでの魔法を融合させれば超えられると思うの。治癒魔法にも限界があることがわかったわ。例えば、悪性腫瘍のように、遺伝子の変異によって引き起こされる慢性的な病気――それを治癒魔法で解決する手段はない。今回の症例で、その現実を思い知らされたのよ。」
アストラの声には、思春期の少女らしい未熟な感情と、科学者としての冷静な分析が絡み合っていた。彼女は成長している。彼女の言葉には揺るぎない決意が含まれていたが、その奥底には、まだ少女らしい傷つきやすい心が潜んでいた。
「この世界の治癒魔法は強力よ。でも、それだけじゃ限界がある。この世界の医療技術と私の医学知識が組み合わされば、元の世界を凌ぐような医療技術を発展させることだってできるかもしれないわ。そうすれば、彼のような患者を救える可能性が広がる。これは、師匠……あなたが私に教えてくれたことよ。」
師匠はしばらく黙っていた。アストラが感じている重み、彼女が抱えている孤独、そして目の前に広がる未知の未来。それら全てを理解しているように、彼は静かに彼女を見つめていた。彼は彼女が医学を学び始めた頃から見守ってきた。そして、その過程で彼女が本物の師匠に抱いた恋心も知っていた。彼女がその恋に破れ、苦しみ、それでも前に進もうとしたことも。また、自らが彼の擬似的シミュレーションであり、彼女の隣で師匠として支え続けてきたことも。
「お前は、ここで新しい道を見つけたんだな。」師匠は優しい声で言った。「お前はこの世界でも前に進んでいる。俺は、お前がここまで成長する姿を見られて嬉しいよ。」
アストラは小さく息をついた。彼の言葉に、かすかな安堵があった。師匠が彼女の成長を認め、励ましてくれるその瞬間は、彼女にとって心の支えだった。
「でも、俺がいつまでもお前のそばにいるわけじゃない。」師匠は静かに続けた。「いつか、お前は俺を手放さなければならないかもしれない。だけど、お前にはそれができる。俺はただのシミュレーションだ。俺に頼らなくても、お前は自分の力でやっていける。」
その言葉に、アストラは胸が締め付けられるのを感じた。彼を失うことは恐ろしい。だが、彼の言うことが正しいことも理解していた。彼女は成長し、自分自身で未来を切り開いていく力も得つつあった。そして、ナディアの様に、共にこの世界の医療の未来を切り開いていく友の存在も知った。
次の目的地はドワーフの国だ。彼女はそこに医療機器の開発を依頼し、今回のような症例に対しても、さらに深いアプローチを可能にする技術を手に入れようとしていた。ナディアは別れを惜しんでいたが、アストラはもう決意していた。
ナディアから餞別にもらった鎮痛の木の皮や下剤のお茶――それらは、この世界の自然の恵みであり、アストラにとって貴重な研究素材でもあった。土魔法を使って、アスピリンとセンナを抽出するという発想は、まさに彼女の医学的知識と魔法の融合を象徴するものだった。それを容器に入れ、彼女は次の旅へと準備を整えていた。
「私は、彼のような患者を減らしたい。そう決意した以上、やるしかない。」アストラの声には、力強い決意がこもっていた。そして、彼女は再び歩みを進めるために、一歩を踏み出した。
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最終診断:急性白血病の疑い
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