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第十一章 砂漠の国-二

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 アストラは冒険者派遣組合からの呼び出しを受けたとき、また単純な熱中症患者の診察だろうと軽く考えていた。しかし、依頼主は匿名で、しかも内密に進めたいという要望だった。彼女は少しだけ警戒心を抱いた。かつての世界で培った経験から、医師が内密に呼ばれる状況が単純であることは稀であると知っている。面倒なことに巻き込まれる予感を抑えながら、アストラは指定の時間に紹介された奥の応接室へと足を運んだ。


 室内には、厳しい表情を浮かべた男が座っていた。彼はこのオアシス都市の領主の代理人であり、その態度からも事態が深刻であることが伝わってきた。領主の娘が、治癒魔法では治せない呪いに苦しんでいるのだという。アストラは慎重に話を聞いた。娘は日差しの下では皮膚が真っ赤に腫れ、顔には蝶のような赤い斑点が現れ、関節の痛みと高熱が続いているとのことだった。その瞬間、彼女は即座にピンときた。「ループスね……」と心の中で囁いた。かつての世界で何度も目にしてきた自己免疫疾患の特徴が、すべて一致していた。


「治癒魔法が効かない理由は明白よ。ループスは自己免疫疾患。体の免疫系が自身を攻撃している。時間を巻き戻して慢性的な免疫系の誤作動に対処できるわけではないのでしょう。」


 領主は治癒魔法の適性を持つ者を国中から集めたが、誰一人として娘を救うことはできなかったという。娘は蝶に呪われている。そこで彼は、最後の頼みとしてアストラにすがった。彼女は領主の願いを受け入れ、翌日の診察を約束して宿に戻った。


 宿に戻ると、アストラは師匠と相談を始めた。娘の症状はループスを強く示唆する。自己の免疫機構が誤って皮膚や関節、腎臓といった様々な臓器を攻撃する原因不明の自己免疫疾患。そうだとして問題はその治療法だ。アストラの元の世界では、ループスの治療にはステロイドを用いるのが一般的であり、免疫反応を抑えるための薬剤が不可欠だった。しかし、この異世界には薬としてのステロイドは存在しない。存在したとしても、それがこの世界で免疫機能を抑制するホルモンであるかは不明だった。少なくとも実験をして、確かめなければならない。彼女の脳裏に浮かんだのは、かつてステロイドが発見された歴史だった。ステロイドは元々、子牛の副腎皮質から抽出され、リウマチ患者に実験的に投与してその効果が示されたものだ。幸い、この国の牛に相当する動物の臓器構造がほぼ元の世界と同じことは、かつての屠殺場で見学したことから知っていた。


「師匠、子牛の副腎からステロイドを抽出することが可能?」


 彼は即答した。「技術的には可能だろ。ステロイドの化学構造を意味する発火パターンを解析し、土魔法で副腎から単離すればいい。全く、土魔法は特定の構造物の抽出には万能だよ。化学合成の方が難しい。しかしそれでも、治療に使うなら大量の子牛の副腎が必要になるぞ」


「やはりステロイドの合成はまだ不可能よね……ステロイドが確実に薬効があるとわかる前に新しく合成の魔法を捻り出すより、副腎からの抽出して先に実験するほうがまだ可能性はあるわね。」アストラは領主に子牛の副腎を用意してもらうことを考え始めた。治療がうまくいくならば、大量に必要になる。しかし、オアシス都市の領主の権力と財力をもってすれば、それは実現できるだろう。


 翌日、アストラは領主邸を訪れ、ついにその娘と対面した。彼女の名前はイリヤ、砂漠の中で育ったことからか、かつては強気な性格だったが、病に倒れてからはその気力も失われ、今は力無く横たわっていた。アストラは彼女の皮膚や関節の痛みを診察し、ループスの診断を確信した。


 アストラはイリヤにステロイドの投与を試みたいことを説明し、領主に子牛の副腎を手配するよう依頼した。最初は怪訝な顔をされたものの、結局はそれ以外の方法がないこと、そして彼女の確信に満ちた態度と冷静な説明に、領主は応じることにした。数日後、用意された副腎を用いてアストラと師匠は土魔法を駆使し、ステロイドを単離することに成功した。ネズミを用意し、少量から投与して毒性がないことを確認してから、イリヤへの投与を行う。有害な反応が出たら、即座に治癒魔法で無効にすることができるからこその荒技だった。


 ステロイドを清潔に点滴に混ぜ、イリヤに投与を開始する。三日間のパルス投与の後、明らかに彼女の状態は改善した。皮膚の炎症は引き、関節の痛みも和らいだ。アストラはその後、ステロイドを口から飲むように切り替え、少しずつ減量していく計画を立てた。彼女は毎日イリヤを診察し、薬の量を細かく調整した。



 二ヶ月が経った頃、イリヤの状態は安定し、日常生活に戻ることができるようになった。だが、アストラは領主とイリヤに冷静に説明した。


「ループスは完治するものではありません。今後も再発する可能性があります。私が今渡すステロイドを使い、計画的に投与を続けることで症状を抑えられますが、急な変化があればすぐに私を呼んでください。」


 領主とイリヤは、驚きつつもアストラの説明を理解し、感謝の意を示した。


 診療が終わり、アストラは領主邸を後にすると、ふと深いため息をついた。師匠が静かに語りかける。

「慢性的な自己免疫疾患もまた、治癒魔法では治療が難しい。」


 アストラは頷いた。「そうね、体が自分を攻撃するというメカニズムを修正できない限り、根治は不可能。元の世界でもそうだったけど、医師というのは薬がなければ本当に無力ね。今回はたまたまうまくいったけど、薬剤の標的蛋白が元の世界と同じとも限らないし。今後のためにもこの世界の薬の知識がもっと必要になるかもしれない。……まだまだ研究が必要。」


 彼女は次の目的地として、薬草が豊富に自生するという高山の国を目指すことに決めた。そこでは、薬草で呪いを治療する文化があるという。彼女にとって薬理学的な新たな知見を得られるかもしれないと期待していた。

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最終診断:ループスエリテマトーデス

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