第七話
「起きてください、ご主人様」
「……んん?」
「日没です」
はっとして頭を上げる。そうだった。俺はレイの膝枕で、いつの間にか眠ってしまっていたんだった。
にしても、なんて贅沢だろう。美少女の膝を枕に。うん、やっぱりこっち来てよかったかも。この世界、滅んでるらしいけど。
起き上がり、岩窟の出入り口に目を向ける。差し込んでくる光も、かなり弱々しくなっていた。
外に出る。まだ風は生温かい。だが、確実に気温が下がり始めている。
遠くのほうに、ポツンと小さな太陽が見える。地平線のすぐ上だ。その左右を、藍色と橙色の交じり合った、汚れた靄のようなものが取り巻いている。最後の意地とばかり、太陽はその光を扇形に放射していて、それは空の上のほうに向かうにつれて、橙色から黄色、白、そして薄い青色……すぐに藍色に切り替わる。
壮大な眺めだ。人はもちろん、その他の生命の気配もない。これが滅び去った世界の姿か。
映画か何かで、滅んだ世界をこういう風に描写することはある。でも、それらを見ても、何も感じなかった。だが、実際に滅んだ世界で、こうして佇んでいると、言葉にならない何かが、胸の奥からせり上がってくる。
すぐ隣でも、レイが俺と同じように、沈みゆく夕日に見入っている。俺と違って、彼女はこの世界の当事者だ。一万二千年前に製造され、それから覚醒の時を待ち続けて。いざ、目覚めてみたら、世界はとっくに滅んでいて。希望に満ちているはずの最初の一日が、破滅を知る日になったのだ。
「これが……私の、最初に見る……まがいものじゃない、本物の夕焼けなんですね」
「そうだな」
さすがに俺も、ここで水を差すほど無神経ではない。これで落ち込むとか、ヤケになるとかしたら、容赦なく尻を触ってやるけどな。でも、レイは、儚げにとはいえ、静かな微笑を浮かべていた。
「行きましょう」
そう言いながらも、彼女は一瞬、岩窟の入り口に目を向けた。
ここが。彼女の生まれた家になってしまった。二度とは戻れないだろう場所。俺が死ぬまでの間、何か不幸がない限り、彼女の人生はずっと続く。できることなら、しばしば戻ってこられる場所で生まれてきたほうが、幸せだったのかもしれない。
「私にしっかり掴まってください」
「お? こうか?」
「いいえ」
手を握ったら、そうではないと振り払われた。
「後ろから、しっかりと。抱きしめるくらいの方がいいと思います」
「こ、こうか?」
「絶対離さないくらいでないといけませんよ?」
「おう」
おおお。後ろからピッタリ抱きすくめるなんて。なんてサービスだ、これ。
できれば胸当てがなければな。これがあるから、胸を揉めない。まぁ、目覚める前に散々揉んだっけ。……あ。それでか? ド変態呼ばわりされたのって。
「では、いきます」
そうして、レイは呪文を詠唱し始めた。長い。どれだけかかるんだ。と思った時だった。
「うぇぉぱっ」
なんか、凄まじい揺れのようなものを感じた。ふと気付くと、周囲の風景が切り替わっている。そして、何か乗り物酔いでもしたかのように、急に頭がグルグルして、気持ち悪くなった。
「ご主人様、大丈夫ですか」
「うぉぇい……なんだ、これ」
「これが《瞬間移動》です。慣れないと、酔う場合が多いので」
「そういうことかぁ……」
ちょっと、ショックが大きい。気持ち悪い。
「ここ、どこだ?」
「さっきの場所から北に千五百キロほどのポータルです」
「何もねぇじゃねぇか」
「本来のポータルは砂に埋もれています。ただ、なんとか転移できる程度の深さでした」
掘り起こしたほうがいいんじゃね?
ま、そんな手間をかける余裕なんかないか。
「この先は、飛びますよ」
俺の返事も聞かずに、手を取ってきた。そして何事か唱えると、ふっと体が浮く。俺だけでなく、レイもだ。
「日没までに、目標地点まで行きます。一時間後にテレポートしてもいいんですが、その短い間に、かなり気温が下がるでしょうから……」
ある程度の高さになったところで、ピタッと止まる。そこからは物理法則もあったものじゃなく、急に猛スピードで飛び始めた。北東方向に向かってだ。足元を見ると、砂山の織り成す陰翳が、早回しのように次々流れてきては、去っていく。
「お、うぉい」
「あんまり下を見ないでください。気持ち悪くなると思います」
それで前を見た。藍色というより、もうほとんど灰色か黒だった。
「見るもんがないぞ」
「じゃあ、目をつぶっていてください。少しかかります」
手を繋いで空を飛ぶとか、どっかの映画にあったようなシチュエーションだが、最初の興奮が収まると、なんだか退屈するな。
まぁ、遊びで飛んでるわけじゃないんだし、いいんだが。
周囲がほとんど真っ暗になりかけた頃、足元にポツポツと植物の姿が目に付きだした。
「あそこです」
レイが指差した先には、僅かな月明かりを照り返す湖があった。
「あの湖の真ん中の小島で、今日は休みを取りましょう」
「わかった」
ん、でも、問題ないのか? 水辺とか、虫けらがワンサカ涌いてそうなんだが。
異世界での最初の夜に、虫刺されで苦しむなんて、絶対ごめんだぞ?
俺の心配を余所に、レイは当たり前のように、島の上に降り立った。
「ちょっと寒くないか?」
「かなり北上しましたし、夜ですからね」
返事をしてから、レイは呪文を詠唱する。一瞬、周囲に光が走る。
「よし、と。今、《動物支配》を行使しました。これで近くにいる虫は、みんな遠ざかっていくはずです。今夜いっぱい、安心ですよ」
「おお」
ちゃんと考えていたか。さすが。
「寒さのほうは、《火属性魔法》が使えませんので、これも《物体作成》で乗り切るしかないですね」
手を広げ、そこに光の粒を集めていく。少しかかったが、終わってみれば、大きな毛布ができていた。
「これにくるまって寝ましょう」
「ん? 俺の分だけか?」
「ホムンクルスに睡眠は不要です。けど」
ここでいったん、言葉を切った。
「……ご主人様を冷やすわけにはいきません。一緒に寝ましょう」
「マジかっ!」
いきなり最初の夜から、美少女と同衾。ヤール、お前はいい仕事をしたよ。
「でも、その前に、いろいろやらないといけませんね。温かいものを召し上がっていただくのと……ランタンや燃料も、作り出すしかないですね。少しコストがかかりすぎますけど」
コスト、か。
「なあ」
「はい」
「さっきから『力を使う』とか『コストがかかる』とか、どういうことなんだ? もしかして、魔法を使うのに、制限があるのか?」
「はい、ありますよ」
おっと。こいつは重大な問題だ。
「時間が経てば、自動的に回復していきますが、行使可能な魔力には上限があります。だから、あまり贅沢に使ってしまうと、あとで必要な時に魔法が使えなくなります」
「そうなのか。で、じゃあ、今、どれくらい残ってるんだ」
「そうですね……全体の一割ちょっと、使ってしまっています」
「なんだ、そんなもんか」
意外に燃費がいいらしい。
「でも、ちょっと贅沢すると、すぐなくなりますから。例えば、《物体作成》で小屋を建てたりすると、相当な量を持っていかれます。というより、そういう使い方をするくらいなら、《シェルター》の魔法を覚えておくべきなんですけどね」
「ふーん?」
意味がよくわからなくて取得させなかったんだが、もしかしてそっちのが便利だったか? なんか今のニュアンスだと、持ち運びできる家があるような感じだったしな。
そうだ。そういえば、他にも気になることがあったんだった。
「なあ」
「はい?」
「そういえば、さっき、身体能力がどうとか、俺が百人いても負けないとか」
「ああ」
俺がそう言うと、レイは苦笑いとも泣き笑いとも取れる表情を浮かべた。
「その、本気にしないでくださいね。ご主人様に手をあげるつもりなんて、ありませんから」
「いや、そっちじゃなくて。本当にそんなに強いのか?」
「えっと……はい」
するとレイは、何もない空間に向かって、呪文を唱えた。途端に氷の壁が出現する。目測で高さ一メートル半、幅一メートル、厚さ十センチ、ってとこか。
「これでだいたい、重さにして百五十キロくらいになると思います。で、ここに取っ手代わりの溝をつけました。ご主人様、持ち上げられますか?」
「おーし。やったるか。俺だってな、エロいバイトしかしてねぇわけじゃねぇんだ。引越し屋の手伝いで鍛えた腕力、見せ付けてやらぁ」
とは言ったものの、自信なんかない。百五十キロ。一人で運べる重さじゃないぞ?
で、案の定。
「ふんぬ! ふんぬっ! ぼっ! ぼえぇ!」
あかん。持ち上がらんぞ。突き倒すならできそうだけど、地面から浮かせるのも難しい。
「ってか、手が冷たい。無理」
「では、私が」
入れ替わるように前に出たレイは、取っ手に指を差し込むと、慎重に、そろそろと背筋を伸ばしていった。気合も掛け声もなしに、氷の板は、地面から浮いていた。そのまま音もなくゆっくり角度を変えていく。垂直な壁が、いつしか水平になっていた。頭上に持ち上げられていたのだ。
「うおぅ、おい、危ない」
こっちに倒れてきたらどうするんだ。だが、そんな心配などいらないとでもいうかのように、レイは軽く力をこめる。その細腕でどうしてそんなことができるのか、一瞬、勢いをつけると、氷の板はそのまま、目の前の湖の中に投げ込まれていた。
「というわけです」
「おっ、おお」
「他にも、《念力》も使えますから、それを合わせればもっと重いものでも」
「マジか」
やっべぇ。ダメだ。レイ、いやレイさん、いやいやレイ様を怒らせたら。俺なんか、簡単に肉になる。
あ、そのためのアレか。命令には逆らえないし、俺が死んだらレイも死ぬ。
うん? でも待てよ?
『命令を言えないように俺の口を潰して手足も拘束の上、《断食》の魔法で栄養状態だけ確保して転がしておく』
レイがこれを選んだら……うわ、やっべぇ。
「じゃあ、お食事にしましょう。寝る前ですから、軽いものがいいですね」
脂汗を流してあれこれ思案する俺を余所に、レイは当たり前のように働き続ける。
「では、早めに寝ましょう」
どういう状況だよ、コレ。
ヤール、俺が世界最強って、んなわけねぇだろが。
あ、そうか。世界が滅んでて、俺しかいないから世界最強。確かにな。ハハハ。
「こちらへ。冷えないようにしてくださいね」
嵩張る革の鎧を外して、レイは毛布の上に横たわる。
この胸躍る状況にもかかわらず、俺は素直に喜べなかった。
……のだが。
俺が横になると、腕を回して毛布をかける。そのままレイは、その胸で俺の顔を包むようにして、それから目を閉じた。
胸。
視界には胸しかない。そして額に押し付けられるこの弾力。ちょっと頭をグリグリしてみる。レイはおとなしい。
これ、イケるんじゃね!?
よし、では、次は尻だ。尻を撫で回し……。
「ギッ! いっ!?」
手の甲を凄まじい力でつねられた!
いってぇ!
だが、見上げてもレイは目を閉じたまま。
……これ、狸寝入りだよな? ホムなんとか、睡眠いらないよな? さっき言ってたもんな?
くそっ。
こんな状況なのに、我が息子よ、何をしているんだ。今こそお前の男らしさを見せるべきだというのに。
無念を噛み締めつつも、俺は睡魔に絡め取られていった。