愛の行方
これはフィクションです。
承応3年 吉日
次期 水戸徳川藩主 徳川 光國、関白左大臣 近衛信尋の娘 尋子と婚姻す
(ここに至るまで、大変だったー)
私は緊張の中、なんとか滞りなく式を終えると奥へと下がる途中、窓から秋晴れの青く澄み渡る空を見上げ今日に至る日々を思い出していた。
英勝寺にて、江戸時代の生活様式になれるよう、水戸藩の家臣であり光國の幼少期の養育係、三木之次の妻 武佐が私の教育係として加わった。
武佐は、光國の父 頼房の乳母であったが、それだけではなく、私の父となる近衛信尋関白様の御母様であられる後陽成天皇の女御 中和門院様の侍従をされていたという。
今回の婚姻は、大体江戸時代に生まれすらいない令和の一般サラリーマンの娘(次女)JKである知加子が世間を謀って公家の娘として嫁ぐ、そら恐ろしい計画である。
まず自分一人では着物も着れないし、苦しくて着続けることすら出来ない。
文章も漢字が旧字体でほとんどわからない上に、文として意味を理解できない。
所作だって、着物での生活をしたことが無いから雑で、とてもお公家様には見えないのだ。
婚姻をした後は、水戸城の敷地奥に造った離れで光國様と極少ない訳知り家臣と奥女中とひっそりとした生活を送れるようになる、らしい。
なので、婚姻の式典とお披露目の時だけ、それなりに見えれば良い、らしい。
尊き姫様は御簾から出ないそうなので、式典の最中もその姿を見るものは数少ない、らしい。
だけど、その時だけとはいえ、何も準備しないでと言うわけには行かないからね、そこはもう腹心に私の教育を任すことになったそうだ。
武佐さんの娘婿が、なんと、あの、英勝院様と邂逅した時に居た伊藤友玄さん!
だから、必然的に武佐さんとその娘さんで伊藤さんの奥さんの志保さんが私付きの女房に決まったのだった。
武佐さんは、もうかなりお年を召されておいでだったのに、遠く鎌倉の地までやって来てくれて私にお作法を教えて下さった。
言われたことが、なかなか身に付かない私に、真摯にでも優しい言葉で厳しく躾てくれた。
水戸藩の裏事情の生き字引、武佐さんは、
「近衛の大臣様は正妻との仲がとても悪くて、駿府の大御所様にその仲立ちをお願いされたのですよ。まあ、大御所様の命を受けた英勝院様が実際は行いまして、一時改善の兆しはあったのです。けど、結局相性が悪かったのか今は没交渉になられたようで。ただ、仲立ちされた時にはお喜びになられて、『困ったことがあったら何でも言ってきなさい』とおっしゃられて。ですから知加子様はなにもお気になさらず、若に嫁がれればよいのですよ。」
ニコリと微笑まれてそんなことを言ったりした。
(えええ!不仲の仲裁を徳川家康に頼むのもスゴいし人選どうよ?と思うけど、そんな随分昔の軽く吐いた言葉を利用して、得体の知れない者を娘にするようにお願いするとか、英勝院様、恐ろしい子!!!)
「ちかこさま、ちかこさま、尋子様!」
(ハッ!)
「あっはい、ごめんなさい、志保さん。なんでしょうか。」
空を見上げてぼんやりしていたのだろう、お付きの女房 志保さんに名を呼ばれて意識を戻した。
「長いお式でお疲れでしょう、ご苦労様です。奥でゆっくり致しましょう。」
そう言われると、先を即され、私の住まう離れへと向かったのだった。
お湯あみを終え着替えると奥の寝室へと向かった。
世も更けた。
披露の後、次期藩主に正妻を迎えられたと家臣たちが存外喜び、宴が続いていた。
この一年の間、忙しい中光國は足繁く寺を訪ねてくれた。
その訪問理由はさもないことで、例えば、リュックの中の目新しい未来の品を見たり(スプレーに驚いて『お前忍者か!』と中二発言をしたのはもういい笑い話だ)、私の知っている徳川幕府の話を聞いたり(吉宗が暴れん坊将軍と呼ばれてることと、ペリーが大砲を打って大政奉還されることくらい)、私自身が日々どんな生活をしていたか学校生活について聞いてきたり、たわいもない話をたくさんした。
住まいがお寺と言うこともあり、あっさりした食事にゲンナリしていた私に、
「なんだ、お知加、何が食べたい?」
「ラーメンと餃子!」
こってりを欲していた私の言葉を受け、ラーメン餃子とはなんたるかをしっかりと理解して、次の来訪時には、鶏と猪の肉を持ってやって来た。
「兄上、ここは寺ですよ!食肉禁止です!」
と怒る清因尼様を宥めすかして調理場を借りて、二人で(宗治さんとお静さんにお手伝いしてもらったけれども)慣れない料理をして、ラーホー(ラーメンほうとう)みたいなモノと餃子を何時間もかけて作って一緒に食べた。
なんなら、清因尼様にも英勝寺の皆にも振る舞って、大好評を受けた。
そうして、度々食べたいと言ったモノをプレゼントされすっかり胃袋を掴まれ餌付けされた私は、しっかり光國様に恋をしたのだった。
さて、初夜である。
まだ訪れはない。
夜空を部屋の御簾をそっと掲げて見上げた。
(お父さん、お母さん、お姉ちゃん、優たん。私は元気にやっています。
確かに水戸黄門は江戸時代にラーメンと餃子を食べてました。
なんならそれ、私が食べさせました。
そして存外ドラマよりイケメンです。
私は彼と今日、結婚しました。幸せになりたいです。)
「お知加。初夜になぜ泣く。」
突然背中から抱き締められて、耳元でそう囁かれた。
「私、泣いて・・・。」
そう言って頬を手の甲で撫でると、思いかけず涙で湿った。
「何を憂う?」
静かな声が耳元に響いた。
「佐藤知加子が居なくなって近衛尋子になって、更に徳川尋子になった貴方との未来。」
そう、もう佐藤知加子だった私は居なくなってしまった。
それが悲しい。
でもこの男との未来には期待と不安が半々で、そうして、私は腕の中ホッとしている。
「お知加、俺がお前が誰か知っている。後200年は徳川の世は安泰なのだろう?なら俺がいるんだ、安心せい。」
そう言うと、向きを返られて頤を掴まれ口づけが落とされたのだった。
光國との結婚生活は周囲が驚くほど仲睦まじく、光國の吉原遊びも鳴りを潜め、江戸と水戸の行き来で忙しいはずの夫は私が不思議に思うほど足繁く水戸城の離れに、私のもとに通ってくれていた。
そして時々夫婦で料理をしている姿が、離れに侍ることを許された家臣たちに、しばしば目撃されるようになっていたのであった。
しかし、この5年後の延宝5年末、知加子は赤痢にかかってしまい儚くなった。
光國は翌年の元旦に知加子を悼むこんな文を残した。
《我は真ならず謂はん。去年の今日は対酌して盃を挙げ、今年の今日は独り坐して香を上る。嗚呼哀しいかな。幽冥長へに隔つ。天なるか命なるか。維霊来り格れ。
(なにも言えない。去年の今日はお前と酒を飲んでいたのに、今年は俺ただ独り線香をあげている。ああ、もう永遠にお前に会えない。これは、お前が連れ去られたのは神の気まぐれのせいか。幽霊でもいい、もう一度お前に会いたい。)》
これ以降、彼は御簾中を娶ることは生涯なかったのである。
[完]
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