壁のない迷路
内密に交わされる話し声も風が吹いてなる物音もしなくなって静寂で張り詰めた夜だった。いっさい波風の立たないその無音に、高熱に似たむず痒さを発して耐えきれず僕は眠りから覚め、すると僕以外誰もいなくなっていることに気が付いた。なにがなんだかすべてが今更という感じだった。
一晩だけ借りるつもりだったこの四人家族の家からは、もう出て行くしかなかった。家の周囲には他になにもない。夜になって色を失くした灰色のジャガイモ畑が、見渡す限りどこまでも続いているだけだった。色彩の渇望者。畑の間を縫って一段分高くなった地形が、ただ一つだけ用意された道を示している。僕は家の脇に自転車が置かれているのを、一晩の代わりにと勝手に借りだした。幸いキーは玄関の鍵置きの中に混ざっていた。自転車を漕ぎだすとペダルの支点部分が錆びついてすすり泣いて、そのわりに車輪の回転は止まることをしらなかった。僕は次第にサドルから立ち漕ぎへと移行していた。空とちょうど目線の合う高さを維持して、吹き出す汗を肩で拭いながら漕ぎつづける。景色がいつまでも変わらないせいで進んでいる実感は少しも湧かなかった。
夜に自転車を漕いでいると、ある不気味な感触に惑わされた。後ろの荷物置きのところに誰かもう一人乗っているような、右肩を一本の指が走った。だがそういうのは大抵、自分が漕いでいて切った風か着ている服のなびいたせいである。あまり気に留めすぎないよう、背後にいる何かの気配を乗せたまま立ち漕ぎをつづける。空の青い月を目印にしていた。追えば追うほど月は大きく、青がより濃くなっていくように見えた。灰色だったジャガイモ畑にも多少の色がのる。天体が運動を絶やすことはない。青い月が空の八割を占めたとき、畑が海のようにうねる幻覚がみえた。よく見さえすれば何も変わっていないことが分かるのに、よく見ていなければジャガイモ畑がたちまち夜の海になった。球になって泳ぐ魚群が影を落とす。イルカが手を振る常夏の方角。小さな漁船がしぶきをあげて霧をつくる。霧の発色に元の畑の灰色が移って、階段を踏み外したみたいに僕のいる道が急に揺らぎはじめる。安定を失ったランタン。シラフのまま酔うのならそれはただの精神失調かもしれない。かかったこともない医者の声をふと思い出して、満杯になった病院の待合室の恥ずかしさを夜の海に開け放った。そこはジャガイモ畑だった。夜になって色を失った、葉もつるも掘り出されたままのイモもすべて灰色の畑。汗が顎でしずくになっていることに気が付いて、僕は平静を保つためにまた肩をつかって汗を拭った。やがて立ち漕ぎからサドルへと落ち着くころ、いつまでも続くはずだったジャガイモ畑の終端は、案外早かった。