5.
暗い空に浮かぶのは半分だけ欠けた月。窓辺でそれを眺めていれば部屋の扉が小さく鳴った。
「ああ、やっぱり起きてましたね。今日はお疲れだったでしょう? 明日に備えて早くお休みにならないと」
私の返事を受けて部屋に入って来たフェイがそう話す。だけどその疲れの半分はフェイのせいだと思うのだが。
抗議を込めた眼差しに気にすることなくフェイは部屋を横切ると、途中ソファーに放ってあったブランケットを取り私の肩に掛けてから窓を閉めた。
「春とは言え夜はまだ冷えますよ」
「でも冷えた空気に触れてる方が頭が冴えるでしょ?」
「冴えてどうすんですか。むしろ逆でしょうが」
「そんなの…。簡単に寝れるようならもう寝てるよ」
「まあそうでしょうねぇ」
頷くとフェイは暖炉の方に向かい、私は窓辺から離れてベッドの縁に座った。しばらくしてパチパチと弾ける音が聞こえる。
「ルメリア様、考えても答えが出ないことは、無理して考えないってのも手ですよ」
新たな火種を暖炉に入れたのだろう、フェイの向こうに明るいオレンジが点った。
「どうせ明日になればわかることですし」
「それは、…そうだろうけど…」
火付きを確認してフェイはベッドの横へと来、私はフェイを見上げる。
「今日のうちに出来ることがあるんじゃないかって」
「今日って…、後二時間もありませんけどね」
「それは知ってる、でもそうじゃなくて…っ」
時計を確認して呆れたように言うフェイに顔をしかめて返せば、戻ってきたのは大きなため息。
そしてフェイは「何にせよ取りあえずは寝ましょーね」と私をベッドに追いやると、横になった私の上に布団をバサッと被せた。
昔、お母様を亡くして寝付きの悪くなっていた私は、フェイにこうやってよく布団の中に押し込まれた。
とてつもなく雑な扱いだったけど、その後、本当に私が寝付くまでずっと側にいてくれた。
私は掛けられた布団からもぞりと顔を出してフェイをじっと見る。
「……何ですか?」
「今日は絶対怖い夢を見ると思うの」
細い目を一度瞬かせてからフェイは少しだけ渋い顔をした。
「何ですか、それ。決定事項って。 なら子守唄でも歌いましょうか?」
私は無言で小さく首を振る。
もう一度大きなため息が落ちた。
「……暖炉に火を入れたばっかなんで、火が落ち着くまではもう少しここにいますよ」
「うん」
速攻で頷けばフェイは渋い顔のまま三度目のため息を吐いた。そして付け足す。
「それから、わかってると思いますけど夜の寝室に男と二人っきりとかなっちゃ駄目ですからね。あ、日中でも密室は駄目ですから」
寝る前の今日最後の小言。
「ふふ、わかってる。だからフェイだけ。むしろフェイがいてくれた方が私は安心して寝れるし」
それは別に冗談ではなくて。
お母様が亡くなった一年後の同じ日に、私の元にやって来たフェイ。性別も見た目も年齢も二人は全然違い、お母様は白金の髪に群青の瞳、フェイは髪も目も真っ黒だ。
全く違う人間なのに、はずなのに、フェイのことをお母様と同じような人間だと感じるようになった。その感覚を説明出来はしないけど。
でもそれはフェイ自身を否定することにもなるような気がしたので口にはしてない。ただ私にとってお母様と同じ安心出来る存在であることは確かだ。
だからそう言ったのだけどフェイは何とも言えない顔をして。
「……ホント、ルメリア様は俺のこと好きですねー」
と、若干投げやりに言われた。
何度かしたこのやり取り。暖かくなってきた部屋と温い布団の効果か、私の意識も大分ふわふわとしてきた。その緩くなった思考のまま「そうだよ」と呟けばフェイは微かに目を見開き少し驚いた顔をした。
「フェイは好きだよ、でも……」
「――でも?」
「愛じゃない」
「……なるほど」
これまたいつものやり取りに、今度は苦笑を浮かべたフェイがランプを絞り、ベッドは薄闇に包まれた。
「さ、本当にもう寝て下さい。じゃないと俺も寝れないんで」
「…うん…」
答える私は既に半分夢うつつ。目を凝らしてフェイを見上げるが暖炉の明かりだけの部屋では、それを背にした顔は暗くてよく見えない。
まぁ、そうじゃなかったとしても瞼が落ちる寸前の私にはどうせよく見えなかっただろう。なのでそのまま声を掛ける。
「…おやすみなさい、フェイ」
「ルメリア様も。良い夢を」
フェイの、高くも低くもない平坦な心地良い声。それを聞きながら私はゆっくりと目を閉じた。
**
デビュタント当日の朝はいやになるくらい快晴だった。
眩しい朝日に無理やり起こされて、続いてやって来たフェイに強制的にベッドから追い出された。
「さあ、準備しましょうか!」
確実に私よりも遅く寝てるはずだし早く起きてるはずなのにやたら元気だ。
私は寝ぼけた頭のままメイドたちに連れていかれて、気付いた時には昼前で、今はソファーでグッタリとしている。
「お疲れ様です、――と言いたいところですけど、まだこれからですからね」
「…わかってる…」
現在湯浴みやマッサージが終わっただけで、まだ着替えやメイクはされていない。何だかメイドたちの張りきり具合が怖すぎて一旦休憩を挟んでもらったのが今。でもそれさえも準備段階でしかなくデビュタントはその先だ。
それを思い更に項垂れた私の前にフェイが紅茶とキューカンバーサンドイッチを置いた。
「取りあえず今のうちに少しでもお腹に入れといて下さい。あ、それから、旦那様も今戻られたよう――」
「――ただいまっ! ルメリア!」
フェイが言い終わらない内にノックもなしに扉が開き、勢いよく部屋に入ってきた人物はソファーに座る私を目ざとく見つけると、ギュッと抱きしめてそう言った。
もちろん、そんなことを出来る人物は一人しかいない。
「お帰りなさい、お父様」
私から体を離したオデール・フィッシャー――お父様は、私のこめかみにキスを落とすと隣に座った。
その前にも紅茶が置かれる。
「お疲れ様です、旦那様」
「ああ、何とか間に合った」
「それはそれは、ざ――」
「――ん?」
「……喜ばしいことで」
絶対に、残念と言おうとしたはずだ。
相変わらずよくわからないお父様とフェイの関係。
それに気付いているだろうお父様は別に気にすることもなく「そう言えば、」と私を見る。
「リッツラント侯爵から手紙が来ていたよ。彼も会場に来るんだって? ルメリアのエスコート権を言ってきたんだけど」
お父様は今日も今日とて忙しく、こうやって話すのは仮縫いの日以来。その件については、一応家令のハンスにお父様に伝えてもらうように話していたが、侯爵様も手紙を書くと言っていたのでそれを読んでのことだろう。
「自分を盾にしていいと、侯爵様は言ってました」
「はあ、なるほど。…んー、でもそれならむしろ丁度良いかな?」
「?」
怪訝な顔をした私を横目にお父様はテーブルに置かれたサンドイッチを一つつまみ上げ口に放り込んでこちらにも勧めるが、私は小さく首を振る。
「どういう意味ですか?」
「リッツラント侯爵は王室と繋がりがあるからね、丁度良いかなって」
「え?」
「前侯爵の奥方、つまり侯爵の母上は昔王妃の侍女をしてたんだよ。侯爵は王子たちの幼なじみ、と言ったらいいのかな」
「……なるほど」
思わず唸るような声が零れた。
と言うのも、今回デビュタントに出ざるを得なかったのは、王室からの招待状という名の参加を促す書面が届いたからだ。しかもこれまで王室との繋がりなど全く皆無だったのに関わらずだ。
心地の悪さに断ろうとしたお父様を止めたのは私だ。高々一介の男爵ごときでは正当な理由もなく王室からの誘いを断ることなど出来ない。だからお父様がそこで無理を通すのを止めたかったからで。でも――。
私は自分の社交性の無さを痛感する。
侯爵様のそんな条件を知っていたら、ここは友人の特権を使わせて貰ってでも、参加を辞退出来たかもしれなかったのに。
だけど今日の今日ではもう無理だ。
ついでに、フェイもそのことを知っていたのかとチラリと確認したが、驚いた顔をしているので同じく知らなかったのだろう。つくづく社交性のない主従だ。
「だからまあ、もしもそちら方面から何かしらの動きがあるようだったら侯爵様に何とかして貰って、後は私も居るしフェイも居るし何とかなるだろう」
お父様はそう言って紅茶を一気に呷ってから立ち上がる。
「それじゃあ、私も一度湯でも浴びるかな。ルメリアは軽くでもちゃんと食べて、それで着飾った可愛い姿を見せること」
まあ着飾らなくてもルメリアは十分に可愛いけどね。
と、蕩ける笑みで付け足して「じゃあまた後で」と今度は頭にキスを一つ。お父様はそのまま部屋を出て行った。
**
「………ハァ…」
「入れ直しますか?」
尋ねるフェイに緩く首を振って、少し温くなった紅茶を飲む。
「今度からもう少し社交性を身につけようかと思う」
「は? 何ですか、それ」
唐突な話しに眉を寄せたフェイ、だけど直ぐに同じような嘆息の息を漏らす。
「…まあそうですね、俺も、旦那様を出し抜くことばかりしてないでもう少しちゃんと話しを聞こうかと思います」
やっぱりそんなことしてたのか。
私はフェイに半目を向けながら、お父様に言われたこともあるが、ちょっとだけ空きだしたお腹にサンドイッチに手を伸ばす。確かにデビュタントはその後の夜会まで続く長丁場だし、食べれる時に食べておいた方がいい。
表情の乏しい私だけどフィッシャー家に仕える人たちはそんな私の表情を読んでしまう上に好みも把握されている。このキューカンバーサンドイッチも私の好物だ。
軽くどころか全て平らげてからヨシッと気合いを入れて立ち上がる。
「準備に戻りますか?」
「ええ」
頷けば、フェイは隣の扉を開けた。そこには既に準備万端なメイドたちの面々。
「ではルメリア様っ、これから私たちが腕によりをかけてルメリア様を着飾らせますよ! ああ、ものすごく楽しみ!」
マリアの発言に他のメイドたちも同調して首を縦に振る。その勢いに怖じ気付いて一歩下がると背中をトンと支えられた。振り返れば笑顔のフェイ。
「さ、ファイトですよ、ルメリア様」
「………」
どの時点とは言わないが、出来るならば自分の言動を撤回したいと。喜色満面の皆を見て、今更ながらにそう思った。