憂鬱に、そしてそれは優しくもあり
踏切の向こう側で彼女は嘆いている。
『私なんか死んじゃえばいいよ』
踏切はずっと遮断機を下ろしたまま、警報を鳴らし続けている。それは教会の鐘のように厳かであり、静かな夜に通り過ぎるバイクの音のようにうるさくもある。とりあえずは、僕と彼女の間に隔られているものがある。絶対的に隔てられたものが。それによって僕は彼女に近づけないでいる。ここで言葉を交わす以外の手段を全部捨てられてしまっている。それが何者に捨て去られたか。僕には知る機会さえなかったと思うのだけれど。
『私なんか消えてしまえ。消えてしまえばいいの』
彼女の表情はあくまで無表情だ。無表情というものがこの世では一番怖い。人が何かに対して感情を抱くとき、心に何かを飼う時にそのエネルギーは神経をつたって顔の筋肉へと作用する。いかに装おうとも、それは誤魔化すことはできない。例え無表情であったとしても、それは無表情を装うという表情になるはずだからだ。しかし、彼女は心からの無表情を相に表している。そして、それが意味するところ。彼女はこの世に絶望している。
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この夜に舞う白い羽を探してよ
緋色の雨が降り続く 私は其れを幾つも千切り歩いていく
この夜に閉ざした黒い傷 孤独の天蓋に覆われて眠っている
彼が踏切の向こうにいる。踏切の向こう側に。遮断機を隔てて。
あと一歩を踏み出せば、私の世界は終わる。私が構成してきた私のための世界は終わる。確実に。死はすぐ側にある。そのことを普段私たちは忘れてしまっているけど。
私は思う。死という概念は、生きている象徴なのでは、と。生きているからこそ死というものを感じられるのではないか、と。死んだ人間は自分が死んでしまったことを感じない。そこにあるのはただの”無”なのだ。 死んだ人間が死を感じることはない。生きている人間こそが死を感じ、それが与える苦痛に打ちひしがれる。 死とは死んだ人を指すのではなく、死の後に残された者のことを指すのではないか。そしたら……
そしたら、私が今行おうとしている行為は一体全体何と呼べばいいのだろうか。
『そんなことはない。君の真っ白できれいな羽を僕にくれよ。』
彼は分かっていない。純粋の意味を。怖さを。私の何もかも。一から十まで。初めから終わりまで。生から死までを。
『大丈夫。確実な未来を描けはしないけど、その一瞬を刻んでいこうよ。』
彼の声が遠のいている。忘れたくない思い出が消えかけて行く。忘れていた思い出が走馬灯のように蘇る。痛いよ。焦ってしまうよ。
それでも、かすかな光は不快なものと共に私の天蓋の中に差し込もうとしている。
誰か、私を見つけて。
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遠いレールの彼方に、ぽぉっと光が灯る。そしてそれは、最初の小さな点からだんだんと視界に広がり無情な明るさを強めていく。それは夜の中の、孤独で小さな一部分を照らし出す。そして、汽笛を鳴らしながら僕らの元に列車の近づく音が聞こえる。
踏切りの警告が耳鳴りのようにうるさくノイズになって響く。この街の片隅で鳴らしている彼女の警告が、悲しく彼女の存在証明として叫んでいる。赤ん坊のように。私はここにいる。まだ、私はここにいる。だが、僕にはこの夜は暗すぎて彼女の傷を確認することはできない。それが体のどこにあるのかすら僕は確かめることはできない。
『あの世界には愛はないけれど、痛みもない。この世界には絶対的な何かが足りない。いつか、私は崩れてしまって、気づかないうちに消えてしまうんだ、きっと。』
僕には、いや、僕らには才能や運や努力なんかもロクになくて。それでも幸せなんじゃないかって言われてそう思っている。本当に辛くて苦しくても、ボロボロに泣きそうなほど孤独になっても、吐きたくて吐きたくて仕方がなくなっても、大人たちは「吐き出すな、汚ぇから飲み込め」と言う。この世界で僕たち弱い者が逃げる道は幾つも用意されていて、逃げてもそこそこ暮らしていける部屋へと連れて行ってくれる。けれども心はすでにその時に死んでいて。僕らはその部屋で八方塞がりになって飛び降りるか潰されるかを選部することを余儀なくされる。もしくは心が死んだのことに気づかないふりをして、のそのそと生きていくか。あるいは、そんな事さえ考えないか。
踏切りがこんなにもうるさく鳴っているのに、なぜ多くの人が気づかないのだろう。気づかずに渡ろうとする者までいる。
『あなたに出会った理由。私はついにそれさえも分からなかったわ。そして世界の終わりを告げる鐘が鳴るのよ。』
線路沿いに花が咲いた。それはとてもきれいだった。
列車の音が。目の前を切り裂いて、紅い雨が散った。悲しかった。
一瞬の光が通り過ぎて、あとは元の暗闇がそこにはあった。それはコマ送りで僕の目に写され、頬をつたって涙が垂れ落ちたんだ。
僕はそっと目を閉じる。遠くで遮断機が上がる音がした。
『……さよなら』
そしてやっと僕の元に届いた。空気をつたって。
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彼は遮断機の向こうで手を伸ばしている。誰かに叫んでいる。
『生き続けろ……』
私は楽しい日々が好き。つまらないなら楽しくしてしまえばいいじゃない。だってその方が面白いもの。でもね、現実は残酷でどうしようもないものを私に突きつけてくるの。やつらは先回りして用意周到に私へ銃口を向けているの。現実はね9割が苦しいことよ。上手くいかなくて、不条理で、弱さをむざむざと見せつけられる。残りの一割がまだマシなもの。そしてほんの少しがね。すごい幸せ。とても素敵な。瑞々しい綺麗なもの。現実の厳しさはね。本当に救いようがない。家族で借金をして、体を売られるとか。親が離婚する。集団にいじめられる。嫌われる。否定される。思ったようにいかない。それは当り前のことなの。なんで、こんなにひどくて辛いのに当たり前なんだろうって思うよね。
『吐き続けろ……』
漆黒の宵に怯えて眠れぬ夜 月明かりが過去を照らし出す
傷が傷跡を手繰り寄せ 天使たちが残酷に切りつけている
私たちはすべてを愛し すべてを受け入れ すべてに絶望する
幸せではなく 不幸でも無い さりとて私は望み 私は手に入れる
羽のような虹を見て 手を伸ばして 私の立つ位置に愕然とする
暗渠は気づかぬうちに 私を誘い しからば私は飲み込まれる
『飛び続けろよおぉ!!!』
白い羽がね、好きだった。綺麗だったから。よく落ちている羽を拾って部屋に飾っていたの。それは純粋さの証みたいなものでね。天使は真っ白でしょう。私は天使みたいになりたかったの。誰にでも優しく。誰かの願いを叶えてあげたかった。
でも、ある日それは踏みにじられた。誰かの足の汚れが付けられた。踏まれた跡がくっきりと。
そして私は気づいたんだ。純粋なままでいたら生きていられないんだって。それは辛くなってしまうんだって。
列車が暗闇を割いて彼方から近づいてくる。それはゆっくりと、ゆっくりと時間が止まってしまうかのように。そして私は一歩を踏み出す。レールの上に立つ。列車は汽笛を鳴らす。狂った猫の鳴き声のように。
私はひかれる。転がる車輪に。
そしてゆっくりと目を開ける。
私は、今。死を感じている。
最後まで読んでいただき誠にありがとうございます。これはただの胸くそ悪い小説です。
ちなみに彼女は死んでません。それは本文最後の行にて。