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臆病者の溺愛  作者: 林檎
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望まぬ英雄

 


 そこに、回廊の向こうからやって来たのはコダ・ブレークだった。

 その腕には何冊か本を抱えていたので、彼も図書館へ行っていたのだろう。魔術師のローブ姿ではなく、研究員らしい白衣を身に纏っている姿は、エマには新鮮だった。

「ブレーク卿、御機嫌よう」

「ええ。図書館ですか?」

「はい」

 挨拶を交わすと、コダは穏やかに微笑む。健診の際も彼女は帰りにはいつも図書館に寄るので、主治医的なコダにとってもお馴染みのエマの行動なのだ。

「……では先程アーノルド卿と話していたのはあなたですか?……それはお珍しい」

 コダにまで言われてしまって、エマはそこまで露骨にライナスを避けていただろうか? とビクビクしてしまう。あからさまに避けていたとして、その動きが目立っていても困るのだ。

「ええと……お菓子を、せっかく美味しく出来たので召し上がっていただきたくて」

 エマは上品に微笑んで、ジルの持つバスケットから一つ包みを受け取る。それをコダに差し出した。

「もしよろしければ、ブレーク卿もご賞味ください」

「これはありがとうございます。お茶の時間に戴きます……あのお茶は苦いので、助かります」

 コダが冗談めかして言うので、エマもつい口元に手を当てて笑う。

「魔術師の方にも苦いんですね」

「そりゃあそうですよ。薬草茶なので、体にはいいんですけどね……」

 いつも出される苦い茶の味を思い出して、エマもついつい顔を顰めてしまった。ふと、彼の白衣からその薬草の香りがして首を傾げる。

「ああ、普段はローブではなくこの白衣なので……もう香りが染みついてしまっているんでしょうね」

 コダはそう言ってにこりと笑って快く受け取ってくれて、エマはほっとする。子供っぽい行動かもしれないが、菓子を理由にこのまま押し通してしまいたい。

「しかし、お菓子ですか……アーノルド卿もさぞかし喜ばれたでしょう」

「……そうだと、私も嬉しいです」

 エマの笑顔はほんの少し翳った。コダの瞳がわずかに細められる。


 今日ライナスに声を掛けたのは、まもなく婚約を破棄するので最後くらい王城で話しかけてもいいだろうか、と思ってのことだった。

 エマは悪い子なので、ライナスが若い女性に大人気なのも、自分にだけは妹に接するような気持ちで柔らかな表情を浮かべてくれることも知っていて、わざとあの場で彼に声を掛けたのだ。

 案の定、ライナスは優しくエマに笑いかけてくれた。ほんのひと時の優越感。

 そんなものはこの動かない右脚の下に、ライナスの責任感と罪悪感を踏みにじって築かれた欺瞞だというのに。どうしてもひと時、自分を偽って浸ってみたかったのだ。甘美な夢に。


 もう間もなく、間もなく彼を解放してみせるので、どうか許して欲しい。相手が誰なのか分からないままに、エマはそう祈る。

 厄介者のエマがいなくなれば、ライナスに本当に愛される人、もしくは彼に相応しい婚約者がこの場所に収まるのだろう。

 優しく真面目なライナスは、その女性にもきっと柔らかく微笑み掛けるのだ。先程のエマにしたよりも、ずっと愛情をこめて。

 その姿を、エマは見たくない。

 だから、彼女はこのシーズンが終われば二度と王都には来ないだろう。どうか最後ぐらい、許して欲しい。


「……では、お約束通り三日後にお屋敷の方にお邪魔します」

 エマの笑顔の翳りに気付かなかったのか、コダは菓子の包みを懐に収めてから言った。

 その言葉に、彼女はハッとする。そうだ、コダには屋敷に来てもらうことになっていた。

 今後エマは王都に来るつもりはなかったので、もう魔術師に診てもらわなくても問題ないか、呪いに関して放置していて危険性はないか、などを確認したかったのだ。

 それを人目のあるところで聞いてしまって、エマの思惑がバレてしまうのは今は避けたい。

「ええ、お待ちしております。よろしくお願いします」


 別れの挨拶を交わし、コダが建物の方へと去って行く背中をエマは見るともなしに見守る。

 彼の背は細い。魔術師とはいえ、実戦に出る方の部隊ではなく研究職に就いているからというのが大きいのだろう。

 最近誰を見ていても、エマはライナスのことを思い出す。

 ライナスは成人したばかりの頃、つまりあの五年前の事件当時は騎士希望だった。大貴族の令息といっても彼は次男であり、アグラール侯爵夫妻は息子に惜しみない愛と自由を与えていてライナスは政治家や文官といった選択肢ではなく騎士を選んだ。

 だが、事件は起こりライナスは幼い婚約者という名の厄介者を抱え込むハメになってしまったのだ。

 侯爵夫妻は息子の真面目な性格をよく理解していて、家に何の益も齎さないエマとの婚約を了承し、今に至るまでエマにとてもよくしてくれている。ライナスの兄である、侯爵家の嫡男も同様だ。


「さぁ、お嬢様。私達も行きましょう」

「……ええ」

 ジルに促されて、エマは白い石造りの回廊をゆっくり杖をついて歩く。


 ライナスは成人してすぐに役にたたない婚約者を得てしまった所為で、自由に職業を選ぶことが出来なくなり、安定していて危険の少ない文官となった。今や宰相の補佐を任されていることから、彼がどれほど優秀なのかが分かる。

 それを鑑みると、ライナスが元々望んでいた職に就いていたとしたらどれほど素晴らしい騎士になっていたか、と想像してエマはいつも眩暈がするのだ。


 彼から奪ってしまった多くのもののことを考えると、右脚一本で彼を縛り付ける自分の浅ましさが恥ずかしくなる。

 抱き上げられる時の、しっかりとした体躯に、長い腕。エマが暴れてもちっとも揺らがない、ライナス。


 最近は本当に、彼のことばかり考えてしまう。

 婚約を破棄した後に一人で立っていられるかとても不安だったが、それでもエマは決意したのだ。あの温かな腕を、優しい笑顔を手放すことを。

 そのことを悲しく思う権利はエマにはない。

 そして、ライナスのことばかりを考えてしまうこの気持ちに名前をつけることを、エマは自分に絶対に許さないのだった。




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